第2話
第2話
高速道路を降りてから、もう一時間は走っていた。
カーナビの案内はとうに途切れている。画面には灰色の空白が広がるばかりで、道路の表示すらない。レンタカーの安いコンパクトカーは山道のカーブのたびに軋み、タイヤが砂利を噛むたびに車体が不穏に揺れた。ガードレールはいつの間にか消えていて、代わりに苔むした石垣が道の両脇に連なっている。
四月の半ばだというのに、山の空気は冷たかった。標高が上がるにつれて、窓の外を流れる木々の密度が増していく。杉の枝が道路に覆いかぶさり、トンネルのように頭上を塞いでいた。木漏れ日はほとんどなく、ヘッドライトの光だけが路面を白く舐めている。まだ午後二時のはずなのに、もう夕方のようだった。
横田から送られてきた地図データを頼りに、さらに山を登る。舗装が途切れ、轍の跡だけが残る未舗装路に変わった。ハンドルを握る手に、路面の凹凸がそのまま伝わってくる。腕時計を見た。現地まであと二十分。そのとき、カーラジオのノイズが変わった。
ずっと受信圏外で砂嵐のような雑音を吐いていたスピーカーが、一瞬だけ明瞭になった。
『——れん——』
息が止まった。
ボリュームに手を伸ばして上げる。ざあ、という白色雑音。何も聞こえない。周波数を変えてみる。どの帯域も同じノイズだった。空耳だ。電波状況が悪い山中で、断片的に拾った放送の切れ端が、たまたま自分の名前に聞こえただけだ。ライターとして何百という怪談を検証してきた人間が、こんなことで動揺するなんて馬鹿げている。
ラジオの電源を切った。
車内が静まり返る。エンジン音とタイヤが小石を弾く音だけが、やけに大きく響く。何となく落ち着かなくて、バックミラーに目をやった。
後部座席のシートに、窪みがあった。
誰かが座っていたように、座面の中央がへこんでいる。レンタカーだ。前の客の癖が残っているだけだろう。そうだろう。でも、朝この車に乗り込んだとき、後部座席にリュックを放り込んだ。あのときシートは平らだったと——いや、確認していない。見ていなかった。気にしていなかったから。
ミラーから目を逸らし、前方に集中した。道はさらに狭くなり、やがて車一台がぎりぎり通れる幅になった。
木立が唐突に途切れた。
視界が開けた瞬間、俺はブレーキを踏んでいた。
道の終わりに、それはあった。苔と蔦に覆われた石造りの鳥居が、道を塞ぐように立っている。左の柱が途中で折れ、斜めに傾いている。注連縄の残骸が巻きついて——写真と、同じだ。幼い頃の写真と、投稿者が送ってきた写真と、寸分違わず同じものが、目の前にある。
エンジンを切った。耳鳴りのような静寂が降りてきた。鳥の声がしない。風も止んでいる。四月の山中にあるまじき無音だった。ドアを開けると、空気の重さが肌に貼りついた。湿度とは違う。気圧とも違う。空気そのものに粘度があるかのように、肺に入り込むたびに抵抗を感じる。首の後ろの産毛が逆立つのが分かった。
鳥居をくぐった。
足元の石段は苔で滑りやすく、一段ごとに注意が必要だった。段を上がるにつれて、両側から迫る草木の壁が高くなっていく。蜘蛛の巣が顔にかかった。払いのけると、指先にねっとりした感触が残る。石段は三十段ほど続いて、やがて平坦な地面に出た。
集落だった。
朽ちた家屋が七、八軒。傾いた塀。割れた窓。屋根の瓦が落ちて草に埋もれている。道らしきものが集落の中央を貫いているが、雑草に覆われて輪郭を失いかけている。五十年。半世紀のあいだ人の手が入らなかった場所は、こうなるのだ。
しかし、荒廃の度合いにしては、奇妙に形を留めていた。柱は腐りながらも立ち、壁は崩れかけながらも家の輪郭を保っている。まるで——倒れることを許されていないかのように。
俺はカメラを取り出し、撮影を始めた。取材だ。仕事として来ている。そう意識することで、胸の底に溜まっていく不快な圧迫感を押し返そうとした。ファインダー越しに見る集落は、肉眼で見るよりもどこか平面的で、作り物めいて見える。その方が楽だった。
シャッターを切る。鳥居の全景。家屋の外観。崩れた石垣。道端に転がる錆びた農具。集落の奥に見える、ひときわ大きな建物の輪郭。社務所だろうか。一枚一枚、記録していく。
集落の中央まで来たとき、風が吹いた。
冷たい、というより凍えた風だった。四月の気温ではありえない冷気が、集落の奥——あの大きな建物の方角から吹きつけてきた。風は草を揺らし、朽ちた家屋の戸板をかたかたと鳴らし、俺の首筋を撫でて通り過ぎた。その風に乗って、かすかな匂いがした。
草の匂いと、もっと古い——土の下の何かが腐ったような、甘い匂い。
覚えている。この匂いを知っている。幼い頃の記憶の底に沈んでいた、あの匂いだ。母の遺品の写真の中で泣いていた俺が嗅いでいた、あの匂い。三十年近い歳月を超えて、同じ匂いが鼻腔の奥にへばりついた。
「……本当に来たことがある」
呟いた声が、集落の静寂に吸い込まれて消えた。反響すらしない。音を飲み込む場所だった。
脚が重い。進むべきか戻るべきか、体が判断を保留している。俺はカメラを構え直した。仕事だ。記録を撮って、記事を書いて、三万円をもらう。それだけだ。感傷に浸っている場合じゃない。
集落の奥の建物に向かって歩き出したとき、足元で何かが砕けた。見下ろすと、土に半ば埋もれた陶器の破片だった。茶碗か、湯呑みか。日常の欠片が、五十年分の土の下に眠っている。ここで暮らしていた人間がいた。飯を食い、茶を飲み、朝が来て夜が来る日々を送っていた人間が。
その人間たちが、一夜にして消えた。
奥の建物は予想通り社務所だった。屋根の一部が崩落し、内部が露出している。今日はここまでにしよう。内部の調査は明日、明るいうちにやればいい。
俺は踵を返し、車に戻ることにした。日が傾き始めている。山の夕暮れは早い。今夜は麓の旅館に泊まって、明日改めて入る。そう決めて歩き出したとき、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
圏外のはずだった。
画面を見ると、電波は立っていない。なのに通知が一件。カメラアプリからだった。「写真の整理を提案します」。自動機能だろう。それだけのことだ。
提案に従って、今日撮った写真の一覧を開いた。鳥居。家屋。石垣。農具。社務所——全部で十七枚。一枚ずつ確認していく。構図と露出をチェックする、いつもの作業だ。一枚目、問題ない。二枚目、三枚目。暗いが使える。四枚目——
十二枚目で、指が止まった。
集落の中央付近で撮った一枚だった。崩れかけた家屋を正面から捉えた構図。窓は割れ、壁は傾き、屋根には草が生えている。無人の、廃屋の写真。そのはずだった。
家屋の窓の奥に、人影があった。
暗がりの中に、人の形をした黒い影が立っている。輪郭はぼやけているが、頭部と肩、腕らしきものがはっきり見える。こちらを——カメラの方を、見ている。
心臓が跳ねた。写真を拡大する。指が震えて、何度も画面を触り損ねた。拡大していくと、影の輪郭はむしろ曖昧になっていく。ノイズと闇の境界が溶け合って、人の形をした空洞のように見える。顔は分からない。ただ、立っている。
あの場所を通ったとき、俺は家屋の中を確認したか。していない。外観だけ撮って通り過ぎた。中に誰かがいたのなら——いや、五十年間無人の集落だ。ここまでの道は車一台がやっとの山道で、俺以外の車の轍はなかった。徒歩で来るには麓から三時間はかかる。
この写真以外に、人影は写っていなかった。十七枚のうちの、たった一枚だけ。
もう一度、その写真を見た。影は微動だにせず、そこに立っている。暗い窓の向こうで、こちらを見ている。見ている——そう感じること自体が、おかしいのだ。ただの影だ。ただの光の加減だ。
スマートフォンをポケットにしまい、車に向かって歩き出した。足が速くなっていることに気づいたが、止められなかった。鳥居をくぐり、石段を下り、車のドアを開けて乗り込む。ロックをかけた。エンジンをかけた。ヘッドライトが点いて、鳥居の足元を照らした。
バックミラーを見た。
後部座席の窪みは、まだそこにあった。さっきよりも——深くなっているような気がした。
俺は振り返らなかった。ギアを入れて、山道を下り始めた。