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還り呪 ―七日後、声が呼ぶ―

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、旅館の布団の中で目を覚ましたとき、最初に感じたのは匂いだった。

畳と線香と、古い木材の匂い。昨夜チェックインした麓の旅館は、客が俺一人だった。女将は七十がらみの小柄な老女で、「この時期にお客さんなんて珍しい」と言いながら、奥の六畳間に通してくれた。夕食は山菜の煮物と川魚の塩焼き。悪くなかった。風呂に入って、録音機材の充電をして、十一時前には眠りについた。

問題のない夜だったはずだ。

なのに体が重い。全身に薄い鉛を塗りつけられたように、布団から起き上がるだけで息が切れる。こめかみの奥で鈍い頭痛が脈を打っている。寝不足か。いや、七時間は眠ったはずだ。窓の外は曇り空で、灰色の光が障子を通して部屋をぼんやりと照らしている。時刻は七時十二分。

洗面所で顔を洗いながら、昨日の写真のことを考えた。あの人影。レンズの汚れか、光の加減か、あるいはパレイドリア——人間の脳がランダムなパターンから顔を見出してしまう現象。オカルトを検証する側の人間として、最も合理的な説明を採用すべきだ。

写真をもう一度確認しようとスマートフォンを開いた。十七枚の写真。一枚ずつスワイプしていく。一枚目、二枚目——十二枚目。

人影は、まだそこにあった。

暗い窓の奥で、こちらを見ている。昨夜よりもわずかに鮮明になっている気がして、俺は画面を伏せた。気のせいだ。画面の明るさが違うだけだ。朝食を済ませて、八時半に旅館を出た。女将が玄関先まで見送りに出てきた。

「お客さん、あの山に行くの」

「ええ、取材で」

女将は何も言わなかった。ただ少しだけ目を細めて、「気をつけて」と言った。その「気をつけて」の響きに、道路事情への心配以上の何かが含まれている気がしたのは、たぶん俺の被害妄想だ。

昨日と同じ山道を登る。見覚えのある景色が車窓を流れていく。杉のトンネル。苔むした石垣。舗装が途切れる地点。そして——鳥居。昨日と同じように、道の終わりに立っている。傾いた柱。巻きついた注連縄の残骸。今日は曇天のせいで、鳥居の周囲が一層暗く沈んで見えた。

車を降り、機材を背負って石段を上がった。集落は昨日のままだった。当たり前だ。五十年間変わらなかった場所が、一晩で変わるはずがない。だが、昨日とは何かが違う——と感じてしまう自分がいた。空気の温度か。匂いの濃さか。あるいは、集落そのものがこちらを認識しているかのような、曖昧な視線の圧。

馬鹿げている。場所に意思はない。

社務所に向かった。集落の最奥にある、ひときわ大きな木造の建物。昨日は外観だけ確認して引き返した場所だ。屋根の右半分が崩落し、内部に雨風が直接入り込んでいる。正面の引き戸は朽ちて半開きのまま固まっていて、隙間から中の暗がりが覗いている。

引き戸に手をかけた。木が湿気を吸ってふやけており、押しても引いても動かない。体重をかけてこじ開けると、蝶番が錆びた悲鳴を上げて、どうにか人ひとりが通れる幅だけ開いた。

中に足を踏み入れた瞬間、温度が変わった。

外よりも明らかに冷たい。崩落した屋根から曇天の薄明かりが差し込んでいるが、建物の奥は闇に沈んでいる。懐中電灯を点けた。光の円が埃っぽい空間を舐めていく。土間。上がり框。その奥に板張りの広い部屋が見える。棚が倒れ、紙束が床に散乱している。壁際には木製の箪笥が並び、引き出しが半分飛び出したまま朽ちている。

社務所というより、集落の事務所のような場所だったのだろう。棚に残った紙束に手を伸ばした。湿気で固まった紙の塊。端を持つとぼろぼろと崩れる。慎重に一枚ずつ剥がしていく。ほとんどは判読不能だった。インクが滲んで、黒い染みが広がっているだけ。だが、何枚かは奇跡的に文字が残っていた。

帳簿の断片。日付は昭和四十年代。米の収穫量。寄合の議事録らしきもの。祭礼の費用明細。どれもありふれた山村の記録だった。集落が「普通に」機能していた時代の残滓。

箪笥の引き出しに手を突っ込んだ。奥の方に、革表紙の冊子が挟まっていた。引っ張り出すと、表紙に墨書で「住民台帳」と書かれていた。

手が震えた。理由は分からない。ただ、この冊子を開いてはいけないという直感が、腹の底から突き上げてきた。ライターとしての習性がそれを押し返す。記録は開くためにある。真実は確認するためにある。

ページを開いた。紙は黄ばみ、端が朽ちて欠けている。だが墨書の文字は思いのほか鮮明に残っていた。筆で丁寧に書かれた名前と生年月日。世帯ごとに区切られ、家長の名前が太字で記されている。

最初のページ。鶴見。高遠。笹原。知らない名前が並ぶ。二ページ目。三ページ目。山中の小さな集落にしては世帯数が多い。三十戸以上はありそうだった。

四ページ目を開いた。

ページの中央に、その文字があった。

神崎。

神崎清次郎。明治三十二年生。その下に、妻。子。孫——神崎の姓を持つ人間が、このページだけで七人記載されていた。家系図のように、世代を追って名前が連なっている。清次郎から始まり、息子の正吉、その妻のタエ、そして——

最も新しい書き込みは、欄外に小さく追記されていた。別の筆跡。「神崎ハナ 昭和十八年生」。そのすぐ横に赤い墨で一文字。「去」。

ハナ。

祖母の名前だった。

膝が抜けそうになった。俺は板張りの床に片手をついて、かろうじて姿勢を保った。懐中電灯の光が揺れて、台帳の文字が明滅する。

祖母はこの集落の出身だったのか。

母は何も言わなかった。祖母も何も言わなかった。祖母が死んだのは俺が十二のときで、記憶は断片的だ。小柄で寡黙な人だった。料理が上手かった。手のひらが妙にごつくて、握られると骨が当たって少し痛かった。それだけだ。出身地のことなど考えたこともなかった。

台帳の「去」の文字を指でなぞった。去る。出て行った。逃げた——その解釈は飛躍だと分かっていたが、赤い墨の鮮烈さが、ただの転出届以上の意味を暗示しているように見えた。

俺は東京生まれの東京育ちだと信じていた。ルーツなど気にしたことがなかった。だが、幼い俺はこの鳥居の前で泣いていた。母の写真がそれを証明している。祖母の名前がこの台帳に刻まれている。血が、この土地と繋がっている。

「なんで……何も言わなかったんだよ」

声に出した言葉が、社務所の暗がりに吸い込まれた。返事はない。当然だ。答えてくれる人間は、もういない。

台帳を鞄にしまい、社務所の奥を探ることにした。懐中電灯の光を向ける。棚と箪笥の向こうに、壁がある——と思っていた。だが違った。壁だと思っていたのは、大きな木製の衝立だった。動かすと、その裏に空間があった。三畳ほどの小部屋。壁には護符のようなものが何枚も貼られ、その中央の床に——

扉があった。

床にはめ込まれた、鉄製の観音開きの扉。表面は錆びて赤黒く変色しているが、造りは頑丈だった。取手の部分に南京錠がかかっている。錠も錆びてはいるが、鍵がなければ開かない。

地下への入り口だ。

扉の隙間——観音開きの合わせ目に、髪の毛一本分ほどの隙間がある。その隙間から、風が吹き上がっていた。冷たいなんてものじゃなかった。真冬の外気よりもなお冷たい、骨の芯まで届くような冷気。四月の山中、しかも屋内の床下から、この温度の風が吹くことが物理的にありえるのか。俺の知識では説明がつかなかった。

風には匂いが混じっていた。あの匂い。昨日も嗅いだ、集落全体に漂う甘い腐臭。だが地下から吹き上がるそれは、外で感じたものよりはるかに濃く、原液のような凝縮された匂いだった。思わず口元を押さえる。舌の奥に、味として感じるほどだった。

懐中電灯を隙間に向けた。光は隙間を通り抜けていかない。何も見えない。扉の向こうに、光を飲み込むほどの闇が広がっている。

しゃがみ込んで、隙間に耳を近づけた。

風の音。低く、途切れなく、一定の間隔で脈打つような風の音。それだけ——いや。

風の音の下に、もうひとつの音があった。

最初は気のせいだと思った。風が鉄の扉を震わせて出す共鳴音だと思った。だが、耳を澄ませるほどに、それは明瞭になっていった。

声だった。

非常に小さい。囁き声よりもなお微か。風の中に溶け込むようにして、しかし確かに人の声の周波数を持った音が、扉の下から這い上がってくる。

『——かえ——』

呼吸が止まった。

『——おかえり——』

全身の毛が逆立った。聞き間違いじゃない。風でもない。共鳴でもない。言葉だった。日本語の、明確な言葉。「おかえり」。おかえりなさい。帰ってきたね。

誰が。

五十年間、誰も住んでいない集落の、鍵のかかった地下から。

俺は弾かれたように立ち上がった。後ずさりして衝立にぶつかり、それが倒れて護符が何枚か剥がれ落ちた。心臓が暴れている。指先が冷たい。足の感覚が遠い。

扉は閉まったままだ。鍵はかかっている。何も出てきていない。

だが声は、まだ続いていた。扉の隙間から、途切れることなく。水が染み出すように。

『おかえり。おかえり。おかえり——』

同じ言葉が、少しずつ大きくなっていく。あるいは、俺の耳がそれを拾うことに慣れ始めているのか。声には感情がなかった。喜びでも悲しみでもなく、ただ事実を述べるように。帰ってきた。帰ってきた。お前は帰ってきた。

俺は機材を掴んで社務所を飛び出した。外の空気が、肺に痛いほど新鮮だった。曇り空の薄明かりが、これほどありがたいと思ったことはない。

足が勝手に動いて、石段を駆け下りていた。鳥居をくぐり、車に飛び乗り、エンジンをかける。ハンドルを握る手が震えて、キーを差し込むのに三度失敗した。

山道を下りながら、バックミラーに鳥居が遠ざかっていくのが見えた。傾いた柱。折れた石。その向こうの暗い集落。

バックミラーの中で——鳥居の前に、誰かが立っていた。

ほんの一瞬。視線を戻したときには、もう何も見えなかった。木々がカーブの向こうに鳥居を隠してしまった。見間違いだ。そう断じる理性と、見間違いではないと叫ぶ本能が、胸の中で押し合っていた。

左手首が疼いた。痛みではない。昨日と同じ、あの冷たさ。だが今日は、冷たさの中に微かな痒みが混じっていた。皮膚の下で、何かが動き始めたかのような。

俺は手首を見なかった。見る勇気がなかった。

ただ、台帳に刻まれた祖母の名前と、あの赤い「去」の文字だけが、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。

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