第2話
第2話
液晶画面に何も映っていないことを確認して、私は深く息を吐いた。
見間違いだ。暗い場所で長時間カメラの画面を見ていると、目が勝手にパターンを作り出す。パレイドリア。人間の脳は暗闘の中に顔を見つけ、ノイズの中に声を聞く。心理学の講義で、たしかそう習った。まともに出席していない授業の知識が、こういうときだけ役に立つのが皮肉だった。
廊下の奥に向けていたカメラを下ろし、正面玄関のほうを振り返る。割れたガラス越しに、曇った空が見えた。外はまだ明るい。ここから出ようと思えばいつでも出られる。その事実を確かめるように数秒間外を眺めてから、私は受付ロビーに視線を戻した。
「……よし」
声に出したのは自分を落ち着かせるためだ。カメラを回す。赤いランプが点灯していることを確認して、受付カウンターに近づいた。
ロビーは広い。天井が高く、ライトの光が上まで届かない。待合室の長椅子が規則正しく並んでいるが、そのうち二脚が倒れている。座面のビニールが破れ、中から黄ばんだスポンジが飛び出していた。壁際の観葉植物は三十年前に枯れ果てて、鉢の中には灰色の土だけが残っていた。かすかに黴の匂いがする。甘いような、土のような、どこか生き物の体温を思わせる腐敗の匂い。
受付カウンターの内側に回り込む。棚にはファイルが並んでいたが、大半は湿気でふやけて紙の塊と化している。指で触れると表面がぼろぼろと崩れた。崩れた紙片が宙に舞い、ライトの光の中でゆっくり落ちていく。だがカウンターの下段、引き出しの中に、状態の良いバインダーが一冊だけあった。引き出しの密閉が功を奏したのか、紙は変色してはいるが読める。
入院患者名簿。
表紙にそう印字されている。日付は一九九五年四月から。病院が閉鎖される前年だ。
「これ、すごいな……」
思わず素の声が出た。こういう資料が残っている廃墟は珍しい。カメラを近づけ、ページをゆっくりめくる。名前、年齢、入院日、病棟、担当医。几帳面な筆跡で記入された行が、ページごとに続いている。途中から筆跡が変わり、それがまた元に戻る。記入者が交代していたのだろう。文字の癖から察するに、最初の記入者は年配の女性だ。几帳面で丁寧だが、どこか角張った書き方に実務者の手慣れた速度が見える。途中で交代した人間は若い。筆圧が安定しない。
病棟の欄には「本棟」と「第二病棟」の二種類がある。第二病棟の患者は数が少なく、担当医の欄にはほとんど同じ名前が書かれていた。桐生、と読める。
ページをめくり続ける。九五年の夏を過ぎたあたりから、入院患者の数が目に見えて減っていた。新規の記入が途絶える月もある。経営破綻が近づいていた時期だ。最後の記入があるのは九六年一月。そこから先はページごと——
破り取られていた。
バインダーの綴じ金具に、紙の切れ端がわずかに残っている。一枚ではない。数ページ分がまとめて引きちぎられたような跡だ。切り口は直線ではなく、急いで引き抜いたように不規則に裂けている。金具の一部が曲がっていた。相当な力で引っ張ったのだ。綴じ金具のあいだに挟まった紙片に、何か文字が見える。目を凝らす。判読できたのは「転」という一文字だけだった。転院か、転帰か。いずれにせよ、それだけでは何も分からない。
なぜ最後のページだけ。
名簿の他の部分には手が加えられた形跡がない。破り取った人間は、内容を処分したかったのだ。閉鎖直前の入院患者の情報を。あるいは、最後に入院した誰かの名前を。
私はバインダーを閉じ、カウンターの上に置いた。カメラのバッテリー残量を確認する。八十三パーセント。まだ余裕がある。
ロビーから廊下は三方向に伸びていた。正面が最も幅が広く、天井の案内板に「外来診察室」「検査室」とある。左は「管理事務室」「会議室」。右は——文字が剥落していて読めないが、奥にエレベーターの扉が見える。上階の病棟へ続く経路だろう。
私は正面の廊下を選んだ。まずは同じ階を一通り確認してから上に行く。それが廃墟探索の基本だ。
廊下は長い。ライトの光が壁に反射して、リノリウムの床にぼんやりとした影を落とす。窓がすべて塞がれているせいで、外光は完全に遮断されている。ここが地上一階だという感覚がなくなる。地下にいるようだった。
足音だけが響く。自分の靴が床を踏むたび、ぺたり、ぺたり、と湿った音がする。空気が重い。十月の山間部のひんやりとした乾いた空気が、病院の中に入った途端、湿度を帯びて肌にまとわりつく。密閉された空間の中で、三十年分の湿気が逃げ場を失って滞留しているのだ。吸い込むたびに肺の奥がじっとりと濡れるような感覚がある。息を浅くしたくなる衝動を抑えて、私は一定のリズムで呼吸を続けた。
診察室のドアを一つずつ確認しながら進む。どの部屋も似たような光景だった。診察台、丸椅子、デスク、カーテンレール。備品の一部は持ち出されているが、大半はそのまま残されている。ある部屋ではデスクの上にカルテが散乱し、別の部屋では薬品棚のガラスが割れて床に破片が散らばっていた。
どの部屋にも、人の気配はない。当然だ。三十年間、誰もいなかったのだから。
廊下の中ほどまで来たとき、右手に「処置室」と書かれた部屋があった。ドアが半分開いている。ライトを向けると、部屋の奥に点滴スタンドが三本、並んで立っているのが見えた。金属製のポールの先端に、空のボトルホルダーがぶら下がっている。ここだけ妙に整然としていて、最後に使った人間がきちんと片付けてから出ていったような印象を受けた。
その横を通り過ぎたときだった。
カメラを構えたまま廊下の奥を映していた私の背後で——
がしゃん。
金属が床に叩きつけられる音。甲高く、硬く、廊下に反響して跳ね返る。反響が廊下の壁の間で何度も折り重なり、音がどこから来たのか一瞬分からなくなる。
心臓が跳ねた。全身の筋肉が一瞬で強張り、指先が冷たくなる。呼吸が止まる。胃のあたりが絞り上げられるように収縮して、口の中に金属的な味が広がった。恐怖の味だ。体が闘争か逃走かを選ぼうとして、どちらにも踏み出せないまま硬直している。
振り返る。ライトの光が処置室の入口を捉える。
三本あった点滴スタンドのうち、一本が倒れていた。ポールが床に横たわり、ボトルホルダーが外れて転がっている。さっき通り過ぎたときには確かに立っていた。足は触れていない。振動も与えていない。
「……風、か」
自分の声が震えていることに気づいた。
風であるはずがなかった。窓はすべて内側から塞がれている。正面玄関のガラスは割れているが、この廊下は二回曲がった先にある。風が吹き込んでくる経路がない。仮に空気の流れがあったとしても、金属のスタンドを倒すほどの力にはならない。
分かっている。分かっていて、それでも「風だ」と言いたかった。声に出して、もっともらしい理由をつけて、倒れたスタンドを既知の物理現象の側に押し戻したかった。そうしないと、ここに立っていられなくなる。足が動かなくなる。出口まで戻る判断力を、恐怖が奪い取ってしまう。
処置室の中をライトで照らす。残り二本のスタンドは変わらず立っている。倒れた一本だけが、まるで誰かに押されたように——ポールの中ほどを手で押して倒したような角度で、床に転がっていた。床に倒れたポールの表面に、ライトの光が反射する。三十年間の埃が積もっているはずの金属の表面に、何か——拭われたような痕が一筋、走っていた。目の錯覚かもしれない。確かめるために近づく気にはなれなかった。
「大丈夫。大丈夫だ」
誰に向かって言っているのか分からない言葉を呟いて、私はカメラの画面を確認した。録画は続いている。今の映像を後で見返せば、何が起きたか分かるかもしれない。そう思うことで、かろうじて足を動かした。
廊下の奥へ進む。ライトの光に照らされた壁が白く浮かび上がり、その先は闇に溶けている。後ろには倒れたスタンド。前には、どこまで続くか分からない暗い廊下。
空気が、動いた。
首筋を撫でるように、冷たい気流が通り過ぎた。窓のない、密閉された廊下の中で。産毛が逆立つのを感じた。冷たさの中に、かすかな匂いが混じっている。消毒液とも違う、甘くて重い、何かの薬品の残り香。三十年前に使われた何かの——いや、三十年経った薬品がこんなに鮮明に匂うはずがない。
私は立ち止まれなかった。立ち止まったら、振り返ってしまう。振り返ったら、暗がりの中に何を見つけるか分からない。だから歩き続けた。足音だけが、ぺたり、ぺたり、と鳴り続ける。
——その足音が、一つ多い気がしたのは、きっと気のせいだ。