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霧生総合病院・地下二階

第3話 第3話

第3話

第3話

足音が一つ多い。

そう感じた瞬間から、私の歩き方は変わっていた。一歩ごとに意識的に間を置き、自分の靴底がリノリウムに触れる音を数える。右、左、右、左。それだけだ。それ以外の音は混じっていない。当たり前だ。ここには私しかいない。

一階の廊下を引き返し、ロビーまで戻った。エレベーターは当然動かない。扉の隙間からライトを当てると、箱は地下で止まっているらしく、暗い縦穴がそのまま上に続いていた。油と錆の混じった臭いが穴の底から立ち上ってくる。その横に非常階段の入口がある。重い防火扉を押し開けると、階段は上へ三階分、下へ二階分伸びていた。踊り場ごとに階数が壁にペンキで記されている。「1」の文字に手で触れると、塗料が乾いた粉になって剥がれた。

上に行く理由を、私は再生数で説明した。三階の病棟。入院患者が実際に寝起きしていた場所。そこにカメラを持ち込めば、一階のロビーや診察室よりも絵になる。ベッドが並んだ部屋、ナースステーション、点滴の痕跡。視聴者が見たいのはそういう画だ。

嘘ではない。ただ本当の理由は別にあった。一階にいたくなかった。あの廊下の空気が、背中にまだまとわりついている気がして、上に逃げたかった。上に行けば外に近い。五階建ての三階なら、地面からそう遠くない。窓が塞がれていても、地上に近いという事実が心理的な安全圏を作ってくれる。そう信じたかっただけかもしれない。

階段を上る。二階の踊り場を過ぎ、三階の防火扉を押す。一階より重い。蝶番が錆びていて、押し開ける瞬間に鈍い軋みが階段全体に反響した。その残響が上の階へ吸い込まれていくのを、私は息を止めて聞いていた。

三階は、一階とは空気が違った。

湿気が少ない。上階のほうが乾燥しているのは理屈に合う。だがそれだけではない。廊下の幅が一階より狭く、天井も低い。圧迫感がある。ライトの光が壁に当たって跳ね返り、床に二重の影を落とす。窓が塞がれた廊下には蛍光灯の残骸がぶら下がり、カバーの内側に虫の死骸が黒い点になって溜まっていた。

病棟だった。左右に病室が並んでいる。ドアには番号が振られている。三〇一、三〇二、三〇三。奇数が左、偶数が右。ドアはどれも半開きか、完全に開いたままだ。

「三階病棟に来ました。病室がずらっと……」

配信用のナレーションを入れながら、一部屋ずつ覗いていく。二人部屋が多い。パイプベッドのフレームだけが残り、マットレスは撤去されている。床頭台の引き出しが開いたまま放置された部屋もあった。中には何もない。カーテンレールにはカーテンの切れ端がわずかに残り、埃を被って灰色に変わっている。

三〇三号室で、ベッドの脇に点滴スタンドが立っているのが見えた。一階で倒れたものと同じ型だ。反射的に身構えたが、それは微動だにしなかった。三十年間そこに立ち続けてきたのだろう。ポールの根元に埃が堆積して、小さな山を作っている。

三〇五号室の前を通り過ぎた。ドアが閉まっていた。他の部屋がすべて開いているなかで、この部屋だけ。取っ手に手をかけようとして——やめた。理由は自分でも分からない。閉まっているドアは開けなくていい。そんな判断が、考えるより先に体を動かしていた。ただ、ドアの前を通り過ぎる一瞬、足の裏に伝わる床の温度が変わった気がした。冷たい。この一区画だけ、空気ごと温度が沈んでいる。

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廊下の突き当たりにナースステーションがあった。ガラス窓の奥にカウンターとデスクが見える。ここだけ几帳面に片付けられていて、書類の一枚も残っていなかった。誰かが意図的に持ち出したのだろう。引き出しを開けても空だ。

ナースステーションの壁に、ホワイトボードが掛かっていた。表面は汚れて何も読めない。だがボードの下の棚に、使い捨てのボールペンが一本転がっていた。インクは当然出ない。

そのとき、何気なくカメラの液晶画面に目を落とした。

録画は続いている。画面にはナースステーションの内部が映っている。問題ない。だがふと、さっき廊下を歩いていたときの映像が気になった。三〇五号室の前を通り過ぎた瞬間。あの閉じたドアの前で、何か——視界の端に何かがちらついた記憶がある。見たのか、見ていないのか。確信がない。

再生ボタンを押した。タイムラインを少し巻き戻す。

廊下の映像が流れる。三〇一、三〇二、三〇三。病室の番号が次々とフレームの中を通り過ぎていく。カメラは廊下の奥を向いていて、左右の病室はフレームの端に入る程度だ。三〇五号室が近づく。閉じたドア。

その手前。

廊下の奥、蛍光灯の残骸がぶら下がる暗がりの中に、何かが映っている。

私は再生を止め、コマ送りにした。指先が震えていて、ボタンを正確に押すのに三回かかった。

一コマ。暗い廊下。何もない。

次のコマ。

いる。

廊下の右端、壁際に、人の形をしたものが映っていた。暗くて輪郭しか分からない。だが明らかに人型だ。上半身が見える。下半身は——何かに座っている。車椅子の背もたれらしき曲線が、かすかに光を反射している。頭部は俯いていて、顔は見えない。

次のコマ。

消えている。

廊下には何もない。壁だけがある。車椅子も、人影も、一コマのあいだだけそこに存在して、次の瞬間には消失していた。

手が震えた。カメラを持つ指の力が抜けそうになるのを堪えて、もう一度同じコマに戻る。見間違いではない。画面を拡大する。粗い画素の中に、それでも人の輪郭は明確だった。肩の線。頭の丸み。椅子の車輪。ノイズでは説明がつかない形状がそこにある。

「嘘だろ」

声が裏返った。自分の声なのに、他人が喋ったように聞こえた。

誰かがいる。この病院の中に、私以外の誰かが——いや、「誰か」という言葉は正確ではない。一コマだけ映って次のコマで消える存在を「誰か」とは呼べない。人間はそんな消え方をしない。

カメラの画面から目を上げた。ナースステーションのガラス窓の向こうに、さっき歩いてきた廊下が見える。暗い。ライトの光が届くのは数メートル先までで、その向こうは闇に沈んでいる。何も見えない。何もいない。

はずだ。

私はカメラを廊下に向けた。液晶画面で確認する。画面の中の廊下にも、何もいない。肉眼と同じ暗い通路が映っているだけだ。だがさっきも、撮影している最中には何も見えなかった。映像を再生して初めて気づいた。リアルタイムでは見えない。カメラの記録だけが捉えている。

その事実が、単にそこに何かがいるということよりも、ずっと深い場所で恐怖を呼び起こした。見えないのだ。肉眼では見えない何かが、この廊下のどこかに——

ナースステーションを出た。帰るべきだと体が叫んでいた。一階に戻り、正面玄関から外に出て、バス停まで走れば帰れる。映像は十分すぎるほど撮れた。再生数がどうとか、もうどうでもいい。

廊下を早足で戻る。三〇五号室の閉じたドアの前を通り過ぎるとき、視線を逸らした。見たくなかった。あの部屋の中に何があるか、考えたくなかった。

防火扉まであと十メートル。階段に出れば、あとは駆け下りるだけだ。

そのとき、天井のスピーカーが鳴った。

ぶつ、という接触不良の音。三十年間通電していなかったはずのスピーカーから、ホワイトノイズが廊下に溢れ出した。ざらざらとした、テレビの砂嵐に似た音。その中から、声が浮かび上がった。

女性の声だった。事務的で、平坦で、感情のない声。病院の廊下で何百回と繰り返されてきたであろう、あの独特のイントネーション。

『本日の死亡退院——』

足が止まった。心臓が喉の奥まで跳ね上がり、呼吸が詰まった。

『三〇五号室——』

番号が、はっきりと聞こえた。スピーカーのノイズの向こうから、三十年の沈黙を越えて。

三〇五号室。

私がさっき通り過ぎた、閉じたドアの部屋。

放送はそこで途切れた。ノイズが消え、スピーカーが沈黙する。廊下に静寂が戻る。自分の呼吸だけが、速く、浅く、鳴っている。

振り返ってはいけないと分かっていた。三〇五号室のドアは、私の背後にある。十メートルと少し。今ここで振り返れば、暗い廊下の向こうに、あの閉じたドアが見えるだろう。

閉じた、ままだろうか。

背中に、冷たい空気が触れた。密閉された廊下の中で、どこからともなく流れてきた気流が、首筋の産毛を逆立てる。その冷たさの中に——車輪が床を転がる音が、かすかに、混じっていた。

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