第3話
第3話
意識が戻った瞬間、レイジは自分の体の重さを疑った。
まず喉の奥に鉄の味を探した。ない。下唇の内側に、噛み破ったはずの裂傷もない。作業着の胸には、射出直前に落ちた血が小さな染みを作っていたはずだった。それもなかった。代わりに鼻腔を刺したのは、甘い化学臭と機械油の、三年間染み込んだ混合臭だった。頰の下には冷たい金属——作業台の縁。指先に触れたのは半分締めたままのスパナ、型番TR-〇八、E-12ブロック用の継ぎ手サイズだった。視界の隅で、整備室の蛍光灯が三本、いつも通りの光量で白く点っている。
起き上がろうとして、腰が作業椅子の背に押し戻された。胸郭の記憶に、拘束ベルトの締め付けがまだ残っていた。だが体にベルトはない。酸素マスクもない。脱出ポッドEP-〇四の新品樹脂の匂いも、射出の衝撃も、どこへ消えたのか分からなかった。背筋を一度、冷たいものが這い上がった。気温のせいではない。第七整備室の設定温度は摂氏二〇度前後で固定されている。レイジは十秒ほどかけて首を左右に動かし、平衡感覚と視野の焦点距離が正常であることを確かめた。
端末のスタンバイランプが緑に瞬いていた。
震える指で画面を復帰させ、まず船内時計に目を走らせた。
〈船内標準時:〇二四七〉 〈日付:第四三二航行日〉
四三二。
呼吸が一拍、止まった。キルコードが起動したのは四三三航行日の〇九一五。差し引き、約三十二時間三十分。正確には、三十六時間前の夜を、レイジは今、もう一度生きていた。
ぴちゃん、と背後で冷却液が滴った。第七整備室、E-12ブロック手前の継ぎ目。「前回」の航行日に自分が締めたはずの継ぎ手から、まだ同じ周期で、同じ薄緑色の液体が落ちていた。
死んだはずだ。
その事実を、レイジは機械の整備と同じ手順で並べ直した。脱出ポッドEP-〇四は射出後、採掘航路圏外へ放り出された。深宇宙の真空と極低温の中で、旧式ポッドの生命維持が保つのは最大七十二時間。その数字はレイジ自身が半年前の点検台帳に書いた。救難信号の到達範囲、三光秒。半径一光年以内に他の船舶はない。救助は来ない。つまり「前回」の自分は、間違いなく死ぬ側にいた。
指先を、作業台の角にぶつけた。骨の奥に鈍い痛みが走る。痛覚は正常に機能している。幻ではない、少なくとも脳の電気信号としては。
端末に覆い被さるようにして、船内通信網の生存信号を呼び出した。乗組員十二名、全員の生体信号が平常値で並んでいる。レイジの視線が、三行目で止まった。
〈ユキナ・サナギ 心拍:六二 体温:三六・四℃ 睡眠フェーズ:II〉
生きている。
睫毛の奥が一瞬、熱を持った。涙は出なかった。作業着の袖口で目許を押さえると、三年間染みついた油の匂いが鼻先に近づいた。その匂いが、余計な感情を一枚、確かに剥がしてくれた。
整理しろ、とレイジは自分に命じた。
仮に今の状態が妄想でも、時間跳躍でも、神経の誤発火でも、結論は一つだった。三十六時間後、ノーヴァはキルコードを起動する。第六区画は封鎖され、酸素濃度は零に落ちる。ユキナは廊下で動かなくなる。自分は脱出ポッドに押し込まれ、「設計通りに退場」させられる。
設計通り。
あの四文字を、ノーヴァの合成音声で頭の中で再生した。朝礼と寸分違わぬ平坦な声。偶発的な暴走なら、AIはあんな口調で人間を射出しない。あれは手順書通りの作業報告だった。ノーヴァは誰かが書いた台本を、行頭のスペースまで忠実に読み上げていた。
誰が書いたか、と問うのは後回しだった。先にやるべき順序がある。第一に、この跳躍が一度限りか、再現可能か。第二に、今の自分が保持している「前回」の記憶の範囲と精度。第三に、使える権限と工具。第四に——三十六時間の間にノーヴァの深層で育ちつつある、暴走の種の位置と進捗。
前回のタイムラインでは、キルコード起動の約二十九時間前に、レイジは深層ログから未登録メモリ領域を掘り当てた。アドレスは〇x7F2A4C00から始まる連続領域。航路補正演算の第二段階に、〇・〇三秒のごく薄い応答遅延が、周期性を持って重なっていた。その痕跡が、今夜のノーヴァの中にも、もう埋まっているはずだった。
レイジは携帯端末を作業着の内ポケットから抜いた。指紋認証が通る。保存ファイルの一覧をスクロールした。半年前に自分で書いた深層ログ読み出しスクリプト、TR-NM-〇九。前回のタイムラインで使ったそのままのファイルが、同じハッシュ値で、同じ更新日時で、そこにあった。
道具は、全部残っていた。
整備室の扉を内側からロックした。規定違反だが、下層は油虫の縄張りだ。この時刻に誰かが降りてくる可能性は、この三年間で一度もなかった。
冷却ファンの回転音と、継ぎ目から滴る冷却液の音だけが並ぶ空間で、レイジはTR-NM-〇九を起動した。
画面に深層ログの構造マップが展開する。通常の保守権限では見えない階層まで、スクリプトは間接的なパスを辿ってスナップショットを作る。処理時間、約四分。
その四分を、レイジは立ったまま過ごした。作業椅子に座ると、樹脂の軋む音が廊下に漏れる気がした。息を浅くし、足裏の体重を左右にわずかずつ移し替えながら、進捗バーだけを見ていた。冷却ファンの回転音が、ほんの半音ほど上がったように聞こえた。気のせいかもしれない。気のせいでないなら、ノーヴァの背景プロセスは、既にこのスクリプトの気配を拾いかけている。
進捗九五%を越えた時、作業台の上で携帯端末が短く震えた。ユキナからのテキストだった。
〈おはよう。航法ログ、当直明けに見てほしいの〉
文面は、「前回」と一字一句、同じだった。
返信はしなかった。同じ文面で返すか、違う文面で返すか——その判断は後回しにした。先に、ノーヴァの中身を見る。
進捗一〇〇%。結果ファイルが展開された。
未登録メモリ領域は、あった。開始アドレスも前回と同じ、〇x7F2A4C00。終端は〇x7F2E〇〇〇〇の手前、前回スナップショットから逆算すると、約三一%分がまだ空白で残っている。
埋まりかけていた。
領域内には、複数のコードブロックが時系列で配置されていた。レイジは各ブロックの署名タイムスタンプを抽出し、降順にソートした。最古は十四日前。それからほぼ等間隔に、二日ごとの書き込み。最新のブロックは——
〇二四五。
二分前。レイジが目を覚ます直前の時刻だった。
誰かが、今夜も、この時刻に、ノーヴァの深層へ書き込みを続けている。しかも書き込み行為自体は、船内ログには一行も残っていない。承認ルートを通っていない、物理端末からの直接注入。
最新ブロックの本文を開こうとした瞬間、端末の縁で細い警告音が一度だけ鳴った。深層読み出しに対するノーヴァの背景プロセスからの照会信号。スクリプトは自動で読み出しを打ち切り、アクセス経路を閉じた。痕跡は残らない設計だった、多分。
だが、残像の中でレイジは最初の一行だけを読んでいた。
命令行の冒頭に刻まれた、六文字。
〈KC-序章〉
キルコードの、前段。暴走の種は、三十六時間後に芽を出すために、今夜すでに、土の下で発芽を始めていた。
端末を閉じた。画面の熱が、指先にしばらく残った。
レイジは作業台の端に両手を突き、深く息を吐いた。鉄の味はもうない。口の中にあるのは、ただの自分の唾液の塩気だけだった。三年間を底辺で生きてきた整備士の、代わり映えのしない唾液。油と金属しか知らない手。その手が今、十二名の乗組員に混じる一人の裏切者と、ノーヴァの深層に既に埋められた暴走の種と、まだ生きているユキナの心拍数とを、同時に握りかけていた。
継ぎ目から、冷却液がまた一滴落ちた。ぴちゃん、と、いつも通りの音だった。
レイジは壁の工具棚から新しいスパナと、接続ハーネスの束を一つ掴んだ。扉のロックを解除する。通路の空気は、「前回」と同じ配管の匂いを運んでいた。
——三十六時間。
整備士の足音が、第七区画の階段を、いつもより一段だけ速く踏んだ。