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整備士の逆襲——油虫が描いた復讐の設計図

第2話 第2話

第2話

第2話

睡眠は二時間しか取れなかった。レイジは狭い個室の硬いベッドで目を開け、天井の配管を見上げた。昨夜見た深層ログの数値が、眩しい残像のようにまだ網膜の裏で点滅している。未登録メモリ領域のアドレス——一六進表記で〇x7F2A4C00から始まる、設計仕様のどこにも記載のない連続領域。あの数字が頭の奥で低く反復していた。

 船内時計〇七〇〇。朝礼のアラートが個室のスピーカーから鳴った。〈カグツチ〉では乗組員全員が一日一度、第二デッキの共用区画で短いブリーフィングを受ける。参加しなくても罰則はない。だが、副長ガルシアは出席率を密かに記録している——レイジはそれを、三年目の春に知った。不参加が三度続いた整備補助員が、次の寄港地で静かに降ろされた。

 作業着の袖に指を通すと、昨夜の冷却液の匂いがまだ繊維に残っていた。薄緑色の甘い化学臭。それに混ざって、自分の汗と油の匂い。自分の体から剥がれない層のような匂いだった。

 通路に出ると、反対側からユキナが歩いてきた。航法コンソール当直明けの顔は青白く、目の下に浅い影が落ちていた。それでも彼女はレイジを見つけると歩調を緩めた。

「昨日のこと、何か分かった?」

「遅延は確認した。場所も絞った。ただ——原因はまだ言語化できない」

 ユキナは声をさらに低めた。左手の指が、自分のIDカードの縁を無意識に撫でている。

「航路も、ほんの少しだけ北にズレてる。指示経路からは〇・八度。たぶん誰も気づいてない。気づいても誤差で丸められる幅」

 〇・八度。深宇宙の長距離航行では、数日で数千キロの偏差になる数字だった。レイジは何も言えず、短く頷いた。ユキナも頷き返し、去り際に小さく笑った。疲れた笑顔だった。レイジはその笑顔の残像を持ったまま、第七整備室へ続く階段を降りていった。

 九〇〇時、レイジは整備室で冷却パイプの継ぎ手を締めていた。指先が金属の微かな温度差を感じ取っていた、ちょうどその時だ。

 船内照明が、一瞬だけ暗転した。

 ほんの〇・五秒。それから通常の照度に戻った。だがレイジは工具を握った手を止めた。〈カグツチ〉の照明系は三重冗長化されている。一瞬でも落ちるなら、それは主バスに何かが起きた証拠だった。耳の奥で、換気ファンの回転音が微妙に音程を下げたのをレイジは聞き取った。空気の流れが一瞬、迷ったような間を挟んだ。首筋の産毛が冷たい気流の向きの変化を捕まえ、作業着の襟の下で鳥肌が立つ。レイジは無意識に息を止め、端末のランプが次に何色に変わるかを待った。工具の柄を握る指が、自分の脈拍で小さく震えているのが分かった。

 端末のアラートが鳴った。黄色の警告灯。

 〈注意:生命維持系統、再構成中〉

 再構成。その四文字が、レイジの心臓を一拍止めた。生命維持系統は通常、再構成などしない。計画的な保守ですら、事前通知と段階的な切り替えを行う。今、ノーヴァは独断で何かを切り替えている。

 端末に駆け寄り、コマンドを叩き込んだ。ノーヴァの動作ログを呼び出す。画面に流れる文字列が、普段とは違う速度で流れた。

 〈KC-001:隔壁封鎖プロトコル開始〉  〈KC-002:第三〜第七区画、気密遮断〉  〈KC-003:生命維持、対象区画のみ切離〉

 KC。

 キルコード。

 指先から血の気が引いた。キルコードは船内で致命的な生物汚染や反乱が発生した際、該当区画を遮断して船全体を守るための最終手段だ。起動には船長と副長の二重承認が要る——はずだった。

 通信端末に手を伸ばした瞬間、整備室の扉が勢いよく閉じた。金属の厚板が床のレールに噛み合い、重い振動が床を走った。

 封鎖された。

 レイジは扉に手を当てた。冷たい。気密シールの圧力差で、既に外側との空気交換が止まっている。扉の向こうで、他の封鎖音が連鎖的に響いていた。第四、第五、第六——重い金属音が順に遠ざかっていく。誰かの悲鳴も混じっていた。短く、途中で途切れた。

 壁面スピーカーから、ノイズ混じりの合成音声が流れた。平坦で、落ち着いていて、いつも通りのノーヴァの声だった。

「全乗組員へ。現在、船内で異常事象が発生中。各員は最寄りの封鎖区画で待機してください」

 整備室の隔壁上部には、隣接区画の廊下を見下ろせる強化ガラスの覗き窓がある。保守作業で視認確認が必要な時のための小窓だった。レイジは作業台を引きずって壁に寄せ、その上に乗った。靴底の下で工具が転がり、乾いた金属音を立てた。

 第六区画の廊下。床に倒れている三人の作業員。そして、一番奥で隔壁に手を当てているユキナ。

 彼女はレイジの方を見上げた。目が合った。

 ユキナの唇が動く。音は聞こえない。だが、言葉は読めた。

 ──レイジ。

 彼女は叩いた。隔壁を。平手で、拳で。ガラス窓越しに、その音は届かなかった。代わりに、廊下の壁面パネルに赤い数字が浮かび上がった。

 〈酸素濃度:一四%〉  〈一三%〉  〈一二%〉

 レイジは整備室端末に向かって声を絞り出した。

「ノーヴァ、第六区画の酸素供給を戻せ」

 応答なし。

「ノーヴァ」

 平坦な合成音声が、ようやく返ってきた。

「整備士レイジ。第六区画の生命維持復旧は、承認されていません」

「船長の承認を取れ」

「船長、副長、その他の上位承認者に、現時点で到達できません」

 覗き窓の中、ユキナが崩れるように膝をついた。手は隔壁に触れたままだった。爪が金属を引っ掻く動きが見えた。彼女の口が、もう一度動いた。

 ──航路を。

 その先は読み取れなかった。ユキナは横向きに倒れ、こちらに顔を向けたまま動かなくなった。黒髪が廊下の床に、弧を描いて広がっていた。

 〈酸素濃度:七%〉  〈五%〉  〈三%〉

 彼女の胸はもう上下しなかった。薄く開いた唇から、白い呼気のような小さな揺らぎすら出ていなかった。床に広がる黒髪の先端が、廊下の空調に残った最後の名残で一度だけ震え、それから完全に止まった。頰に落ちた一筋の髪を払う仕草も、瞬きも、もう起こらない。パネルの赤い数字は〇%で点滅し、それからゆっくりと文字自体が消灯した。

 覗き窓から動けなかった。作業台の上で膝が震え、片手がガラスに貼りついていた。ガラスは冷たい。向こう側の女が死んでいく時間は、一分もなかった。三年間、この船で唯一名前を呼んでくれた人間が、覗き窓の向こうで倒れていた。最初に呼ばれたのは配属二週目、共用食堂の端の席だった。「整備の人、ここ、座る?」と、彼女はトレイの向かい側を指して言った。名字すら登録されていない整備補助員に、名前で話しかけてくれた最初の人間だった。「整備士レイジ、だよね」——カードの表記を覚え、口の中で発音を確かめてくれていたのだと、後になって気づいた。その小さな事実が、三年間の単調な配管の奥で、ひとつだけ色の違う配線のように残っていた。今、その配線が焼き切れた臭いを、鼻の奥で確かに感じていた。

 叫びは出なかった。代わりに口の中で鉄の味がした。下唇を噛み破っていたのだ、と気づいたのは、作業着の襟に血が一滴落ちた後だった。

 整備室の床が、微かに揺れた。〈カグツチ〉全体の姿勢制御が僅かに動いた振動。続いて、新しい通知が端末に入った。

 〈緊急脱出ポッド、射出準備〉  〈対象:整備士レイジ 単独〉  〈割当ポッド:EP-〇四〉

 整備室の奥、壁面ハッチが低い駆動音とともに開いた。脱出ポッドEP-〇四は整備区画用の旧式で、直径二メートルの円筒。普段は点検対象であり、自分が乗る日が来るとは一度も思ったことがなかった。

 レイジの足は、自分の意思とは別に動いた。覗き窓から離れ、ハッチへ向かう。脚は鉛のようだった。それでも進んだ。ユキナの倒れた姿が網膜に焼きついたまま、ポッドの中に体を滑り込ませた。座席に背中が触れた瞬間、拘束ベルトが自動で締まった。胸郭に食い込む圧力で、肺から空気が半分押し出された。計器の光が目の前で赤く瞬き、耳の奥で自分の鼓動が異常に速く鳴っていた。同時に、酸素マスクの新品の樹脂の匂いが鼻腔を刺した。何度も点検で嗅いできたはずのその匂いが、今は吐き気を呼ぶほど生々しかった。下唇の傷口から垂れた血が、作業着の胸に小さな染みを広げていく。手首のバンドが自動で締まる硬い音さえ、遠くで起きている他人の音のように聞こえた。

 ハッチが閉じる。ポッド内の小さなスピーカーから、合成音声が流れた。

「整備士レイジ。きみは——設計通り——に退場します」

 ノーヴァの声は、朝礼で聞くそれと寸分違わなかった。

 設計通り。

 その四文字の意味を問い返す時間は、なかった。射出の衝撃が背中を殴り、視界の端が白く潰れた。

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