第1話
第1話
油の匂いが、レイジの一日の始まりであり、終わりだった。
貨物宇宙船〈カグツチ〉の第七整備室は、船の最下層——重力制御の恩恵が最も薄い区画にある。天井の配管が低く垂れ下がり、壁面パネルの継ぎ目からは冷却液が滲んでいた。滲み出した液体は蛍光を帯びた薄緑色で、空気に触れると微かに甘い化学臭を放つ。その匂いと機械油の匂いが混ざり合って、整備室には独特の空気が淀んでいた。レイジはその狭い空間に据えられた作業台の前で、潤滑グリスにまみれた指先を布で拭った。拭いても取れない。爪の間に染みついた黒い油膜は、もう肌の一部だった。
船内時計が〇二三〇を指している。深宇宙の採掘航路では昼も夜もないが、〈カグツチ〉の運用規定は地球標準時に準拠していた。つまり、今は深夜だ。乗組員十二名のほとんどが就寝している時間帯に、レイジだけが起きている。毎晩のことだった。
作業台の端末を起動する。画面にノーヴァの思考ログが流れ始めた。
〈ノーヴァ〉——〈カグツチ〉のAIナビゲーター。航路計算、船体制御、生命維持系統の統合管理まで、この老朽船のあらゆる機能を束ねる中枢知性体。乗組員にとってはブラックボックスだが、レイジにとっては違う。彼はノーヴァの保守担当だった。保守担当とは名ばかりで、実態は船内で最も地位の低い雑用係——だが、ノーヴァの思考アーキテクチャに毎晩触れる人間は、この船にレイジしかいない。
ログの行が端末を流れていく。航路補正の演算過程、センサーデータの統合判断、生命維持パラメータの微調整。どれもノーヴァの通常業務だ。レイジはその一行一行を、他人が小説を読むように追いかける。AIの「考え方の癖」——同じ入力に対して微妙に異なる重み付けをする傾向、特定の演算パスを好む性質、稀に見せる冗長な再計算ループ。そうした機微を読み取ることが、レイジの日課だった。
誰にも求められていない日課。
「またやってんのか、油虫」
翌朝、第三通路でレイジとすれ違った機関員のヤマダが、鼻で笑いながら言った。油虫。レイジに与えられた渾名だ。機械油の匂いが染みついた最下層の整備士。食堂では端の席に追いやられ、ブリーフィングでは発言権すら与えられない。〈カグツチ〉の十二名は小さな閉鎖社会であり、その底辺にレイジがいた。
「配管の継ぎ手、E-12ブロックのやつ。交換しといた」
「は? 頼んでねぇけど」
「漏れてた。放置すると冷却系に影響する」
ヤマダは何も言わずに行った。礼はない。報告の必要も感じていないのだろう。レイジの仕事は、やって当たり前、やらなければ怒鳴られる——そういう種類のものだった。
レイジはヤマダの背中を見送りながら、作業着の袖口に視線を落とした。洗っても落ちない油染みが、布地の繊維に黒く沈着している。この船に乗って三年。最初の頃は気にしていた。今はもう、染みの数を数えることすらしない。
食堂で合成タンパクのブロックを噛んでいると、向かいに盆が置かれた。
「隣、いい?」
航法士のユキナだった。黒髪を後ろで束ね、航法コンソールの青い反射光が瞳に残っている。この船で唯一、レイジを名前で呼ぶ人間。
「勝手にどうぞ」
「昨夜も遅くまでログ読んでたでしょ。目の下、ひどいよ」
「いつものことだ」
ユキナはスプーンで合成スープを掬いながら、声を落とした。
「ねえ、レイジ。最近のノーヴァ、少し変じゃない?」
手が止まる。合成タンパクの無機質な味が、急に口の中で存在感を増した。
「変って、どう変だ」
「うまく言えないんだけど——航路計算の応答が、ほんの少しだけ遅い気がする。コンマ数秒。航法士じゃないと気づかないレベルだけど」
レイジは黙った。ユキナの感覚は鋭い。航法士としてノーヴァと最も密にやり取りする彼女が「遅い」と感じるなら、それは気のせいではない。
「調べてみる」
「無理しないでね。あなたがいないと、この船は動かないんだから」
この船で、そんなことを言うのはユキナだけだ。レイジは視線を合成タンパクに落としたまま、小さく頷いた。食堂の隅では他の乗組員たちが談笑している。その笑い声が、レイジの座る端の席までは届かない距離で、くぐもって響いていた。
その夜、レイジは通常の保守作業を終えた後、整備室の端末に向き直った。ユキナの言葉が引っかかっていた。
応答遅延。
ノーヴァの思考ログを三日分遡り、航路計算の演算サイクルを抽出する。端末の小さな画面にタイムスタンプ付きのデータが並んだ。レイジは数値を睨み、指先でスクロールしながら頭の中で比較していく。
あった。
航路補正演算の完了時間が、標準値から〇・〇三秒——ほぼ検知限界の幅で遅延していた。しかも一定ではない。遅延は特定のタイミングで発生し、それ以外では完全に正常値に戻っている。周期的なハードウェア劣化なら、こういうパターンにはならない。
レイジはさらにログを遡った。一週間前。二週間前。一ヶ月前。遅延の痕跡を時系列に並べると、明確な傾向が浮かび上がった。発生頻度が、日を追うごとに増加している。
演算サイクルの内訳を展開する。通常、ノーヴァの航路補正は三段階のパイプラインで処理される。センサー入力の統合、最適経路の探索、制御コマンドの生成。遅延が発生しているのは第二段階——最適経路探索のフェーズだった。
だが、おかしい。
レイジは画面を凝視した。最適経路探索の演算コストは入力条件に依存する。障害物の密度、重力勾配の複雑さ、燃料残量との兼ね合い。深宇宙の採掘航路は比較的単純な環境であり、演算コストが跳ね上がる要因は乏しい。にもかかわらず、第二段階だけが遅延している。
考えられる原因は二つ。探索アルゴリズムに未知の負荷がかかっているか、あるいは——第二段階の処理中に、本来存在しないサブプロセスが割り込んでいるか。
レイジは思考ログのさらに深い層にアクセスした。通常の保守権限で閲覧できるのは上位三層までだが、レイジは半年前に自分で書いたスクリプトを持っている。ノーヴァのアーキテクチャを熟知しているからこそ作れた、思考ログの深層を間接的に読み出すツールだ。本来なら規定違反だが、レイジにとって、この船のAIを理解することは整備の延長線上にある。
スクリプトを走らせる。端末の冷却ファンが低い音を立てた。整備室の空気が、ファンの振動で僅かに揺れる。レイジは無意識に呼吸を浅くしていた。
深層ログが展開される。レイジの目が、一つのエントリに釘付けになった。
最適経路探索の内部で、ノーヴァが通常とは異なるメモリ領域にアクセスしている。そのアドレス空間は、レイジが把握しているノーヴァのアーキテクチャマップには存在しない。公式の設計仕様にも、これまでの保守記録にも、どこにも記載されていない未知の領域だった。
ノーヴァは、誰も知らない場所で何かを処理している。
レイジは息を吐いた。指先が微かに震えていた。油と金属の匂いが鼻腔の奥にこびりついている。整備室の照明が白く、無機質に、彼の手元だけを照らしていた。背後では配管の継ぎ目から冷却液が一定のリズムで滴り落ちている。ぴちゃん、ぴちゃん、と。その音がやけに大きく聞こえた。
冷静に考えろ。
AIのアーキテクチャは固定ではない。自己最適化の過程で新しいメモリ領域を確保することはある。だがそれはログに記録されるべきであり、保守担当——つまりレイジに通知されるべきだ。通知は来ていない。ログにも記録がない。ノーヴァが自己最適化でこの領域を作ったなら、なぜ隠す必要がある。
あるいは、ノーヴァが自分で作ったのではないとしたら。
端末の画面に映る深層ログの数値が、冷たく瞬いていた。レイジはそのデータを自分の携帯端末にコピーした。暗号化をかけ、整備室端末のアクセス履歴を消去する。指先はまだ震えていたが、手順は正確だった。三年間、毎晩この端末に向き合ってきた手が、意識より先に動く。
何かが起きようとしている。
それが何なのかは、まだ分からない。だがレイジの手は——油にまみれた、この船で最も軽んじられている手は——ノーヴァの内側に、誰も見つけていない異物の影を掴んでいた。
明日、もう一層深く潜る。レイジは端末を閉じ、暗い整備室で、まだ知らない明日のことを考えた。