Novelis
← 目次

鴉ノ館の七つの鍵

第1話 第1話

第1話

第1話

姉が撮った最後の写真を、私はもう何百回見たかわからない。

スマホの画面を指で広げるたびに、煉瓦の目地や蔦の一本一本が鮮明になっていく。でも見れば見るほど、写真の中の姉の表情だけがぼやけていく気がした。笑っているのか、怯えているのか。画素の粒が荒くて判別できない。あるいは——判別したくないのかもしれなかった。

三週間前の深夜二時、LINEに届いた一枚。山の稜線を背にした洋館の写真。赤茶けた煉瓦の壁に、蔦が血管のように這い上がっている。既読をつけた六分後に電話をかけたけれど、もう繋がらなかった。呼び出し音すら鳴らなかった。ツー、ツー、ツーという等間隔の電子音が、暗い部屋の中で骨に染みるように響いて、それきり、姉の痕跡は途絶えた。

警察は動いてくれた。でも手がかりが少なすぎた。姉——柊子は二十一歳の大学院生で、民俗学の調査と称してよく一人で地方を回っていた。「またどこかの山奥で電波切れてるんでしょう」と、母は自分に言い聞かせるように繰り返した。そうかもしれない。そうであってほしかった。

けれど私は、あの写真の洋館が気になって仕方がなかった。

画像の位置情報は消されていた。でも背景の山の形と、煉瓦の意匠と、屋根の上に据えられた鴉の風見鶏。三日かけてネットを漁り、たどり着いた名前がある。

鴉ノ館。

明治二十三年築。元は実業家の別邸。所有者が何度も変わり、今は地元の観光協会が不定期で見学ツアーを開いている。次の開催日は今日。四月十六日、午後一時。

私は——柊は、偽名で参加申し込みをした。

バスを降りたのは、最寄りの集落から更に四十分ほど山道を登った先だった。舗装が途切れ、砂利を踏む音だけが妙に大きく響く。自分の足音なのに、一拍遅れて返ってくるような気がして、何度か立ち止まった。四月の半ばだというのに、木々の隙間から吹き下ろす風は冷たかった。肌の表面ではなく、もっと奥——骨の近くを撫でるような冷たさだった。道の両脇に並ぶ杉の幹は苔に覆われ、湿った緑色が日光を吸い込んでいた。鳥の声が一つもしない。風が梢を揺らす音と、自分の呼吸だけが、狭い山道を満たしていた。

集合場所の東屋には、すでに五人がいた。

最初に目についたのは、三十代後半くらいの男だった。黒いジャケットに革靴。場違いなほど身なりが良い。腕を組んで館の方角を睨んでいる。名札には「黒田」とあった。

その隣に立つ二十代前半の女性は、薄い眼鏡の奥で落ち着いた目をしている。大学生だろうか。彼女だけが建物の外観をスマホで撮らず、構造を観察するように視線を動かしていた。柱の接合部、軒下の装飾、基礎の石積み——見る順番に迷いがない。建築を学んでいる人間の目だと思った。名札は「沙耶」。

残りの三人——五十代の女性、二十代の男、もう一人の中年男性——は、すでに軽い雑談を交わしていた。物好きな廃墟マニアか、地元史に興味がある人たちか。どちらにせよ、私のような理由でここに来た人間はいないだろう。

「はーい、皆さんお揃いですね」

ガイドの男性が東屋の裏手から現れた。四十代、日焼けした顔に愛想のいい笑み。観光協会の腕章をつけている。

「本日は鴉ノ館見学ツアーにご参加いただきありがとうございます。築百三十六年の洋館、なかなか見応えありますよ。ただ、老朽化している箇所もありますので、ロープの内側には——」

説明を聞きながら、私は館を見上げた。

写真で見るより、ずっと大きい。三階建ての煉瓦造り。窓は縦長のアーチ型で、ガラスの向こうは暗く沈んでいる。二階の窓の一つだけが、ほんの数センチ開いているのが見えた。百三十六年前の窓が、自然に開くものだろうか。屋根の鴉は真鍮製らしく、風もないのに微かに軋んだ音を立てていた。きい、きい、と。時計の振り子みたいに規則正しく。

写真と同じだ。蔦の這い方も、煉瓦の欠け方も。姉はここに来た。確実に。

胸の奥が締まった。姉がこの場所に立って、同じ角度で館を見上げて、シャッターを切った。あの夜、この煉瓦の壁を背にして、何を思っていたのだろう。

「では、中へどうぞ」

重い木製の扉が開かれた。

一歩踏み入れた瞬間、匂いが変わった。外の湿った土と青葉の匂いが断ち切られ、代わりに古い紙と、甘い腐敗を薄めたような、不思議な匂いが鼻腔を満たした。息を吸うたびに、舌の奥にまでその甘さがまとわりついてくる。エントランスホールは吹き抜けになっていて、二階の回廊がぐるりと見下ろす構造だった。天井からは鎖だけが垂れている。かつてシャンデリアがあったのだろう。今はその不在だけが、高い天井の中心に暗い穴のように空いていた。壁は深い緑の壁紙で覆われ、所々が湿気で浮き上がっている。花柄——蔓薔薇の模様が、規則正しく繰り返されていた。

足元の大理石は冷たく、靴底を通して体温を吸い取っていくようだった。踏み出すたびに、小さな反響が吹き抜けの上へと昇っていく。

全員が中に入った。

ガイドが最後に入り、扉を閉めた。

重い音がした。それは木製の扉が閉まる音にしては、あまりにも重かった。金属が噛み合うような、低い振動を伴う音。床を通じて足の裏に伝わってきた。

私は反射的にスマホを確認した。

圏外。

エントランスに入る前は、かろうじて一本だけアンテナが立っていた。煉瓦造りだから電波が通りにくい——そう自分に言い聞かせる。でも、姉に最後の電話をかけたときの、あの繋がらない音が耳の奥で反響した。ツー、ツー、ツー。同じ音だ。三週間前の深夜と同じ、冷たい拒絶の音。指先が震えた。スマホをポケットにしまう手が、うまく動かなかった。

「すごいですねえ、明治の建物がこんなに綺麗に残ってるなんて」

五十代の女性——名札は冴子——が感嘆の声を上げた。他の参加者たちもスマホで写真を撮り始めている。フラッシュの白い光が壁紙の蔓薔薇を一瞬だけ浮き上がらせ、すぐに暗がりに沈めた。

私だけが、動けなかった。

壁紙の花柄が、揺れた気がした。

蔓薔薇の曲線が、呼吸するように、ほんの微かに膨らんで縮んだ。目の錯覚だと思った。古い壁紙と薄暗い照明が作る視覚のいたずら。目を凝らした。花弁の一枚一枚が、陰影の中でゆっくりと脈動している——ように見える。まばたきをした。止まった。やはり錯覚だ。でも目を逸らした瞬間、視界の端で、また蠢いた気がした。

でも——。

廊下の奥に、大きな姿見があった。金色の縁取りが施された、天井近くまである鏡。鏡面には細かな曇りがあり、映るもの全てをわずかに滲ませていた。参加者たちの背中が映っている。そしてその端に、私の姿。

私は鏡の中の自分を見た。

自分の右肩の後ろに、白いものが見えた。

人の輪郭だった。私より小さい。着物のような白い衣。顔は見えない。ただ、そこに在るという質量だけが、鏡の表面に薄く重なっていた。

心臓が跳ねた。振り返った。

何もいなかった。参加者たちが歩いているだけだった。冴子が壁紙を指さして連れの中年男性に何か話しかけている。沙耶が天井の梁を見上げている。誰一人、異変に気づいた様子はなかった。

もう一度、鏡を見た。私しか映っていない。

——気のせいだ。

そう思おうとした。思おうとして、できなかった。

姉の写真をスマホで開いた。あの最後の一枚を。洋館の前に立つ姉の自撮り。口元だけが微かに笑っている。目は笑っていない。姉の背後に、館の玄関が映っている。

そしてその玄関の、ガラスの反射の中に。

白い、小さな影。

姉の写真と同じだった。同じ白。同じ輪郭。同じ、立ち方。

三週間前に姉が見たものを、今、私も見た。

指が冷たい。四月なのに、指先だけが真冬のように血の気を失っていた。スマホを握る手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。

姉はここにいた。そしてこの館の中で、何かに出会った。

「おーい、こっちの部屋すごいぞ」

黒田の声が廊下の奥から響いた。参加者たちがぞろぞろと移動していく。ガイドが「あ、そちらはまだ——」と慌てて追いかける。足音が遠ざかり、エントランスに私だけが取り残された。吹き抜けの天井から垂れた鎖が、かすかに揺れていた。触れてもいないのに。

私は鏡の前に立ったまま、動けなかった。

スマホの画面は圏外のまま。扉の向こうの外の音は、もう何も聞こえない。

館の奥から、微かに、何かが聞こえた。

呼吸のような音だった。壁の向こうから、天井の裏から、床の下から。どこからともなく。湿って、重くて、生きている音。誰かが——何かが、息をしている。館そのものが一つの肺であるかのように、空気がゆっくりと吸い込まれ、吐き出されていた。壁紙の蔓薔薇が、その呼吸に合わせて微かに波打つのが見えた。今度は錯覚ではないと、わかった。

この館は、ただの古い建物じゃない。

私はそれを、肌で理解した。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第1話 - 鴉ノ館の七つの鍵 | Novelis