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鴉ノ館の七つの鍵

第2話 第2話

第2話

第2話

参加者たちの足音を追いかけるように、私はようやく鏡の前から動いた。

廊下は思ったより長かった。エントランスから右に折れた先、深緑の壁紙が続く通路は、奥に進むほど天井が低くなっているように感じた。実際に低いのか、照明が乏しいせいで圧迫感が増しているだけなのか、判然としない。等間隔に並ぶ燭台には電球が取りつけられていたけれど、三つに一つは切れていて、明暗が交互に繰り返される中を歩いた。足元の絨毯は色褪せた臙脂で、踏むたびに埃っぽい匂いが微かに立ち上った。明るい場所を通り過ぎるたびに、暗がりがいっそう濃くなる。目が慣れる前に次の光が来て、また暗闘に突き落とされる。その繰り返しが、平衡感覚を少しずつ狂わせていった。

前を歩く参加者たちの背中は、十メートルほど先に見えていた。ガイドの声が反響して聞こえる。「この部屋は当時の応接間でして、暖炉は英国から取り寄せた大理石で——」。日常的な観光案内の声。それが逆に、さっきエントランスで感じた異様さを嘘にしようとしているみたいで、落ち着かなかった。

ガイドの声が途切れた。

最初は、別の部屋の説明に移ったのだと思った。参加者たちが立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回している。黒田が「おい、ガイドさん?」と声を上げた。その声は廊下の奥へ吸い込まれるように消え、反響すら返ってこなかった。返事はなかった。冴子が「お手洗いかしら」と呟いた。

振り返ると、私たちが歩いてきた廊下が暗く沈んでいた。さっき通ってきたはずの燭台の灯りが、一つ残らず消えている。ガイドの姿はどこにもない。つい三十秒前まで先頭を歩いていた男が、音もなく消えていた。

「演出じゃないの? こういう肝試し系のツアーってさ、途中でスタッフが消えたりするやつあるじゃん」

二十代の男——亮介の名札をつけている——が、肩をすくめて笑った。笑い声が少しだけ高かった。怖くないことを証明しようとする種類の笑い方だと、私は思った。もう一人の中年男性も「ああ、そういうのテレビで見たことある」と同調した。冴子が「まあ、驚かせるのが目的なのね」と安堵したように息を吐く。

沙耶だけが笑わなかった。眼鏡の奥の目が、廊下の両端を交互に見ている。唇がわずかに動いていた——何かを数えているような、あるいは祈りの言葉を繰り返しているような。私と視線が合った。何か言いたげだったけれど、口は開かなかった。

壁紙の蔓薔薇が、動いた。

今度ははっきりと見えた。花弁の曲線が、ゆっくりと、確実に波打っている。エントランスで見た微かな脈動とは比較にならない。蔓が壁の表面を這うように伸び、花が開き、閉じ、また開く。まるで時間を早回しにした植物の成長映像のように。ただし方向が、おかしかった。蔓は上に伸びるのではなく、廊下の奥——私たちが向かっている方向に向かって、横に、這っていく。

「なんか壁、変じゃない?」

亮介が壁に手を近づけた。

「触らないで」

声を出したのは私だった。自分でも驚くほど鋭い声だった。亮介が怪訝な顔でこちらを見た。

「……壁紙が傷む、かもしれないので」

苦しい言い訳だった。でも亮介は「あ、そっか、文化財的なやつ?」と素直に手を引っ込めた。

天井から、音が降ってきた。

湿った、重い呼吸。エントランスで聞いたあの音が、今度は頭の真上から聞こえた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。一定のリズム。人間の呼吸よりずっと遅い。一回の吸気に五秒、呼気に五秒。天井裏に巨大な肺があって、館全体の空気を循環させているような。呼気のたびに、かすかに甘い腐臭が降りてきた。花が枯れる直前の、蜜が発酵したような匂い。

「空調の音かな。古い建物だと換気がうまくいかなくてこういう音するよね」

黒田が天井を見上げて言った。全員がそれに頷いた。全員が、合理的な説明にすがった。

でも私は知っていた。この館には空調設備などない。明治二十三年の煉瓦造り。ネットで調べた情報には、電気は後から引かれたが空調は未設置とあった。

呼吸の音は、私たちの歩みに合わせて移動していた。立ち止まると、音も止まる。歩き出すと、また始まる。追いかけてきている。天井裏を、壁の中を、何かが私たちと並走している。

参加者たちは廊下の突き当たりにある大きな部屋——おそらく元は食堂だった部屋——に入っていった。長いテーブルと椅子が残されていて、窓からの光が埃の粒子を浮かび上がらせている。冴子が椅子に座り、「ガイドさん戻ってくるまで待ちましょう」と提案した。全員がそれに従った。

私は従わなかった。

廊下に残った。呼吸の音は、食堂には入ってこなかった。参加者たちが部屋に入った瞬間に、ぴたりと止んでいた。

壁紙の蔓薔薇も、静かだった。

代わりに、別のものが目に入った。

廊下の壁、腰板と壁紙の境目。壁紙が剥がれかけている箇所があった。その下の漆喰に、何かが刻まれていた。爪で引っ掻いたような、荒い痕跡。文字だった。

私はしゃがみ込み、スマホのライトを当てた。

漆喰は古い。少なくとも数十年前のものに見えた。文字は日本語で、一文字ずつ深く、力を込めて彫られていた。指の爪では無理だ。何か硬いもの——釘か、金属片か——で刻んだのだろう。刻んだ人間の必死さが、傷の深さから伝わってきた。線の終端がところどころ震えていた。恐怖か、疲労か。刻みながら泣いていたのかもしれない。

五文字。

「カエレナイ」

呼吸が止まった。

帰れない。

誰が。いつ。どうして、こんな場所に。

私は文字の前にしゃがんだまま動けなかった。指先が無意識に文字の溝をなぞった。漆喰の粉が爪の間に入り込む感触。冷たかった。壁全体が冷たいのではない。この文字の部分だけが、周囲より明らかに温度が低かった。まるで文字そのものが冷気を発しているように。喉の奥がきゅっと締まった。この五文字を刻んだ人間と、いま同じ冷たさを指先で共有しているという感覚が、時間の隔たりを一瞬で消した。

背後で、衣擦れのような音がした。

振り返った。

誰もいない。廊下は暗く、静かだった。食堂から参加者たちの話し声がくぐもって聞こえるだけ。

もう一度、壁を見た。

文字が、なかった。

さっきまで確かにそこにあった五文字が、消えていた。漆喰の表面はなめらかで、傷一つない。壁紙の剥がれすらない。私の指先には、まだ漆喰の粉のざらつきが残っているのに。爪の間の白い粉が、確かにそこにあったことの証拠なのに。

壁は何も語らなかった。花柄の壁紙が、規則正しく並んでいるだけだった。

「あの」

声に飛び上がりそうになった。沙耶が食堂の入り口に立っていた。燭台の逆光で表情が読めなかったけれど、眼鏡のレンズだけが鈍く光を返していた。

「何か、見つけました?」

見透かすような問いだった。沙耶の視線は私の手元——漆喰の粉がついた指先——に注がれていた。

「いえ、壁紙の構造が気になっただけです」

嘘だった。嘘だとわかっていて、それでもあの五文字を口にする勇気がなかった。言葉にした瞬間、それが現実になってしまう気がした。帰れない。この館から。

沙耶はしばらく私を見つめていたけれど、追及はしなかった。「ガイドさん、まだ戻りませんね」とだけ言って、食堂に戻っていった。その背中が暗がりに溶ける直前、一瞬だけ足が止まった。何かを言いかけて、やめたように見えた。

一人になった廊下で、私はもう一度壁に触れた。指の腹で、さっき文字があった場所を撫でた。

何もない。平坦な壁紙の感触だけが返ってくる。

でも——耳を壁に近づけたとき、聞こえた。

壁の向こうで、何かが、這っている。

硬いものが漆喰を引っ掻く音。規則的な、爪が壁を削る音。文字を刻んでいるような、ゆっくりとした、執拗な音。

誰かが——今も——壁の裏側で、書き続けている。

天井の呼吸音が、再び始まった。さっきより近い。さっきより、湿っている。首筋に、生温かい空気が触れた気がした。髪の先が揺れた。息を吹きかけられている。上を見る勇気が出なかった。見上げたら、何かと目が合ってしまう気がした。

私は食堂に向かって歩き出した。早足で。振り返らないように。靴底が絨毯を踏むたびに、背後の引っ掻く音が一画ずつ速くなっていくのが聞こえた。

背中に、視線を感じていた。

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