Novelis
← 目次

鴉ノ館の七つの鍵

第3話 第3話

第3話

第3話

食堂に戻ると、空気が変わっていた。

さっきまで「演出だろう」と笑っていた参加者たちの顔から、余裕が消えかけていた。黒田がスマホを高く掲げ、電波を探すように腕を伸ばしている。亮介は椅子の背もたれに深く沈み込んで、窓の外を睨んでいた。冴子だけが「きっとすぐ戻ってきますよ」と繰り返していたけれど、声の調子が上擦っていて、自分を説得しているのが透けて見えた。

「三十分だ」

黒田がスマホの画面を見せた。午後一時四十二分。ガイドが消えてから三十分以上が経過していた。

「ツアーの所要時間は二時間って書いてあったよな。ガイドなしで二時間待てってのか」

「外に出ればいいんじゃないですか。玄関から」

亮介の提案に、沙耶が静かに首を振った。

「さっき試しました。開きません」

全員の視線が沙耶に集まった。彼女は眼鏡を押し上げながら淡々と続けた。

「食堂に入る前に確認しました。玄関の扉、外から施錠されています。鍵穴が内側にない構造です」

沈黙が落ちた。呼吸の音すら聞こえない静寂——いや、違う。聞こえていた。あの湿った呼吸音が、天井の向こうで低く脈打っている。私以外の誰かにも聞こえているはずだった。でも誰もそれに触れなかった。聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか。

「二階を見てくる」

立ち上がったのは、もう一人の中年男性だった。名札には「真壁」とある。これまでほとんど口を開かなかった男で、がっしりとした体格にくたびれたカーキのジャケットを着ている。目元に深い皺があり、あまり眠れていない人間の顔をしていた。

「一人で行くのはまずいんじゃ——」

冴子の言葉を遮るように、真壁は食堂を出た。足音が廊下に遠ざかり、階段を上がる軋みが天井越しに聞こえた。黒田が「勝手なやつだな」と舌打ちした。亮介がスマホのライトを点けたり消したりしている。沙耶は窓の外をじっと見つめていた。

二分が過ぎた。三分。

天井の呼吸音が、止まった。

それまで途切れなかったあの音が、唐突に消えた。まるで館全体が息を止めたように。代わりに訪れた無音は、音がある状態よりもずっと重かった。空気の密度が変わった気がした。鼓膜の内側が圧迫される感覚。水中に潜ったときに似ていた。

二階で、鈍い音がした。

何かが倒れたような。あるいは、人の体が床に崩れ落ちたような。

私は走っていた。考えるより先に体が動いた。姉がここで何かに遭遇したのだと知っている人間の反射だった。食堂を飛び出し、廊下を駆け、階段を駆け上がった。背後から沙耶の足音がついてくるのが聞こえた。

二階の廊下は一階よりさらに暗かった。燭台の電球は一つも点いていない。スマホのライトだけが頼りだった。白い光の円が壁紙をなぞるたびに、蔓薔薇の模様が一瞬だけ生々しく浮かび上がり、また闇に呑まれた。

廊下の突き当たり。一つだけ、扉が開いていた。

他の部屋の扉は全て閉じられ、いくつかには「立入禁止」の古びた札がかかっている。その中で、最も奥の扉だけが、内側に向かって大きく開け放たれていた。扉の表面に貼られていたはずの封鎖テープが、ちぎれて床に散らばっている。

真壁が、倒れていた。

部屋の中央。仰向けに。両腕を体の横にぴったりとつけた姿勢で。まるで棺の中に横たえられた死者のように、整然と。人間が意識を失って崩れ落ちた姿勢ではなかった。誰かに——あるいは何かに——丁寧に寝かされたような不自然さがあった。

「真壁さん!」

沙耶が駆け寄り、肩を揺すった。私は部屋の中を見回した。スマホのライトが照らし出したのは、壁一面を覆う染みだった。天井から床まで、黒ずんだ染みが幾重にも重なり合っている。水漏れの痕ではない。形が不規則すぎる。何かが壁に叩きつけられたような——いや、考えたくなかった。部屋の隅に木製の椅子が一脚だけ置かれていて、その座面に長い髪の毛が数本、絡みついていた。黒い髪。部屋の空気は他の場所より明らかに冷たく、吐く息が白く見えるか見えないかの境界にあった。

「脈はあります。呼吸も——」

沙耶の声が途切れた。真壁の目が開いたのだ。

ゆっくりと。瞼がめくれるように持ち上がり、虹彩が露出した。天井を見つめている。いや——天井の、何かを見つめている。私たちには見えない何かを。

「真壁さん、大丈夫ですか。聞こえますか」

沙耶が顔を覗き込んだ。真壁の唇が動いた。

「ここから」

声は真壁のものだった。でも抑揚が違った。感情の一切を剥ぎ取ったような、平坦な音。録音を再生しているみたいだった。

「出しては、いけない」

沙耶の手が止まった。

「何を言って——」

「ここから出してはいけない。ここから出してはいけない。ここから出してはいけない」

真壁は同じ言葉を繰り返した。抑揚も速度も変わらない。機械的に。壊れた時計の振り子のように、正確に同じ間隔で。目は天井を見つめたまま、瞬きもしなかった。

階段を上がってきた黒田と亮介が部屋の入り口で立ち尽くしていた。冴子は階段の途中で足が止まったらしく、「何があったの」という声だけが下から昇ってきた。

「おい、しっかりしろ」

黒田が真壁の頬を軽く叩いた。反応はなかった。繰り返しは止まらない。「ここから出してはいけない」。同じ言葉。同じ調子。まるで誰かに命じられた文言を、忠実に復唱し続けているかのように。

「救急車を——」

亮介が言いかけて、自分の言葉の無意味さに気づいたように口を閉じた。圏外だ。電話は通じない。玄関は開かない。私たちはこの館に閉じ込められていて、一人の男が正気を失っている。

「何を出してはいけないんですか」

私は真壁の前にしゃがみ込み、問いかけた。繰り返しが止まった。真壁の視線が、初めて天井から動いた。ゆっくりと、私の顔に焦点が合う。

口元が歪んだ。笑顔のような形だった。けれどそれは笑顔と呼べるものではなかった。表情筋が不自然に引きつり、目だけが凍りついている。人間の顔がすべき動きを、人間ではないものが模倣しているような。

「知ってるくせに」

声の質が変わった。さっきの平坦さが消え、代わりに親密さを帯びていた。長年の知り合いに語りかけるような。私は真壁と今日初めて会ったはずだ。目を合わせてすらいなかった。なのに——真壁の中の何かが、確かに私を「知っている」目で見ていた。

背筋に氷を押し当てられたような感覚が走った。

「下に戻りましょう。真壁さんも一緒に。この部屋にいるべきじゃない」

沙耶の言葉に、黒田と亮介が頷いた。二人がかりで真壁を起こし、肩を支えて部屋を出る。真壁は抵抗しなかった。されるがままに歩いた。足取りはしっかりしていた。さっきまで倒れていた人間とは思えないほど。

部屋を出る直前、私は振り返った。

あの椅子の座面に絡んでいた黒い髪が、消えていた。壁の染みの形も、さっきとは変わっている気がした。気のせいだと思いたかった。でもこの館で起きることに「気のせい」は通用しないと、もう知っていた。

階段を下りながら、私は真壁の顔を横から見ていた。

他の参加者たちは前を向いて歩いている。真壁の異変を恐れながらも、とにかく一階の食堂という「安全な場所」に戻ることだけを考えている。

だから気づいたのは、私だけだった。

真壁の目。瞳孔が、左右で違う大きさになっていた。

右の瞳孔は正常な大きさだった。薄暗い廊下に反応して、適切に開いている。けれど左の瞳孔は——異常なほど収縮していた。針の先ほどの黒い点が、灰色がかった虹彩の中心に穿たれている。強い光を浴びたときのように縮み切っているのに、この暗い廊下で。

左目だけが、別の光を見ている。

私たちに見えない、何か別のものに照らされている。

真壁が不意にこちらを向いた。左右非対称の瞳が私を捉え、あの歪んだ笑みがまた口元に浮かんだ。今度は唇が動いた。声にはならなかった。でも、読めた。

——おまえも、すぐにわかる。

食堂に着くと、冴子が毛布代わりにテーブルクロスを真壁の肩にかけた。真壁は椅子に座り、壁の一点を見つめている。もう何も喋らなかった。繰り返しも止まり、あの歪んだ笑みも消えている。ただ——左の瞳孔だけは縮んだままだった。

窓の外が暗くなり始めていた。午後二時を過ぎたばかりなのに、山の稜線が夕暮れの色に沈んでいる。この館の周りだけ時間の流れ方が違うのだろうか。

天井の呼吸音が、再び聞こえ始めた。さっきより、ずっと近い。もう天井裏ではなく、この部屋の壁の中から。私たちを囲む四方の壁が、同じリズムで膨張と収縮を繰り返している。ゆっくりと。静かに。

館が、息をしている。

そして封鎖された二階の部屋から、床を伝って、かすかな音が降りてきた。あの椅子が、引きずられるような音だった。誰もいないはずの部屋で。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!