第2話
第2話
暗い部屋の中で、槙島はノートPCを開いた。
三ヶ月前に現金で買った中古のThinkPad。OSはクリーンインストールし、Wi-Fiは常にオフ。ネットに繋ぐときだけ、使い捨てのプリペイドSIMを挿したモバイルルーターを経由する。接続時間は最長十五分。それが槙島の定めたルールだった。
USBメモリを右手で掴む。指先に金属の冷たさが伝わる。左手でポートの位置を探る。差し込む前に、一度だけ深呼吸した。肺の奥まで冷えた夜気が染み込み、吐き出した息がかすかに白く曇った。窓の外では雨が降り続いていた。排水管を伝う水音が、静まり返った部屋の中で妙に大きく聞こえる。
罠なら、ここで終わる。
覚悟を決めて、差し込んだ。
画面にドライブが表示される。ファイルは一つ。拡張子のない単体ファイル。サイズは二百四十メガバイト。名前は「KAINE」。
黒崎の旧姓だった。
指先が凍った。黒崎誠司——旧姓・嘉禰。結婚を機に妻の姓に変えた。その旧姓を知る人間は限られる。少なくとも、表の捜査資料には載っていない情報だ。槙島が知っているのは、かつて黒崎本人から聞いたからだ。深夜の張り込み中、缶コーヒーを片手に、ぽつりと漏らした。「嘉禰って字面が気に入ってたんだけどな」——そう笑った横顔を、槙島は今でも覚えている。
ファイルをダブルクリックする。暗号化されている。パスワード入力のダイアログが出るかと思ったが、違った。
画面に表示されたのは、指紋認証のリクエストだった。
USBメモリ本体にセンサーが内蔵されている。槙島はメモリの表面を指で探った。筐体の側面に、五ミリ四方のわずかな凹みがある。見た目では分からない。触って初めて気づく程度の、精巧な作りだった。
画面の指示に従い、右手の人差し指をセンサーに押し当てた。
三秒。
認証成功。
ファイルが展開を始める。プログレスバーがゆっくりと伸びていく。部屋の中にハードディスクの微かな読み込み音が響く。それ以外の音はない。雨音すら、今は遠い。
槙島はPCから目を離さないまま、椅子の背もたれに体を預けた。心臓が脈打つ速度が上がっている。こめかみの辺りで血流の音がする。指紋認証。俺の指紋。つまりこのファイルは、最初から俺だけに開かれるように設計されていた。
誰が、こんなものを作れる。
刑事時代、デジタルフォレンジックの研修を受けたことがある。指紋認証付きUSBメモリは市販品にも存在するが、特定個人の指紋をあらかじめ登録するには、その人物の指紋データが必要になる。警察のデータベースには槙島の指紋が登録されている。だが、それを抜き出せる人間は——
展開が完了した。
フォルダが一つ現れた。中に大量のファイル。PDFが数十件、スプレッドシートが複数、そして拡張子「.enc」の暗号化ファイルがさらに奥に格納されている。階層が深い。全体像を把握するだけで時間がかかる。
最上層のPDFを一つ開いた。
数字の羅列。日付、金額、口座番号の断片。一見すると会計データに見えるが、フォーマットが異様だった。ヘッダーに記載された管理番号の体系が、一般企業のものではない。
槙島の目が止まった。
管理番号の冒頭三桁——「NPA」。
National Police Agency。警察庁。
これは警察内部の資料だ。
画面をスクロールする手が震えた。金額の桁が大きい。数千万単位の送金記録が、月に複数回。送金先は匿名化されているが、パターンがある。定期的で、金額が段階的に増加している。組織的な資金の流れだった。
喉の奥が渇いた。唾を飲み込もうとしたが、口の中がからからで何も出てこない。
だが、槙島の手持ちの知識だけでは、これ以上の解析は不可能だった。暗号化された深層ファイルには別の復号鍵が必要で、スプレッドシートの数式は専門的な会計知識がなければ読み解けない。そして何より、このデータが本物かどうかを裏取りする手段がない。
独力では、ここが限界だ。
槙島はPCを閉じた。
暗闇の中で天井を見上げる。雨音は弱まっていた。時計の針は午前三時を回っている。天井の染みが暗がりの中で人の顔のように見えて、槙島は視線を外した。
頭の中で、選択肢を並べた。
一人で抱え続けるか。誰かに頼るか。
一人なら安全だ。誰にも裏切られない。だが、このファイルの意味を読み解けないまま時間だけが過ぎれば、送り主の意図が何であれ、無駄になる。USBメモリを握りつぶして捨てれば、三ヶ月前と同じ逃亡生活に戻るだけだ。
頼れる相手。
宮野は連絡が途絶えている。闇医者は医療以外の頼みには応じない。消去法で一人だけ残る。
戸川功。元捜査一課の技官。五年前に依願退職し、今は横浜の裏社会で情報屋をやっている。警察のシステムに精通し、デジタルデータの解析なら現役の鑑識官より腕が立つ。槙島が逃亡を始めた直後、一度だけ連絡を取った。「困ったら来い」——戸川はそう言った。受話器越しの声は、感情の読めない平坦なものだった。助けたいから言ったのか、それとも利用価値があると踏んだのか。その言葉が本気かどうかを確かめるときが来た。
だが、戸川に接触すれば、戸川にもリスクが及ぶ。指名手配犯の逃亡を幇助した罪。それだけではない。このファイルが本物なら、中身を知った人間は消される側に回る。黒崎のように。
他人を巻き込む。その重さを、槙島は分かっているつもりだった。
分かっていて、それでも連絡先を探した。
プリペイドSIMをルーターに挿す。電源を入れる。接続まで十五秒。槙島は使い捨てのメールアカウントを開き、事前に取り決めていた暗号文を打った。キーボードを叩く指が、わずかに湿っている。
「釣果あり。道具を借りたい」
送信先は、戸川が管理するダミーの釣りブログのコメント欄。第三者が見ても、ただの釣り好きの書き込みにしか見えない。だがこの文面を見れば、戸川は意味を理解する。「持ち込みたいデータがある。解析環境を貸してくれ」——それが本当の意味だ。
送信。ルーターの電源を切る。SIMを抜く。接続時間は四十秒。
あとは待つしかない。戸川が応じるかどうかは、戸川の判断だ。
槙島は窓際に立ち、カーテンの隙間から外を見た。雨は上がりかけていた。路面のオレンジ色の光が、水たまりの表面で揺れている。東の空がわずかに白み始めている。夜明けが近い。どこかで鴉が一声鳴いた。街はまだ眠っている。
USBメモリをポケットにしまった。指先にセンサーの凹みが触れる。
俺の指紋でしか開かない。黒崎の旧姓がファイル名に使われている。この二つの事実が意味することは一つしかない。送り主は、槙島と黒崎の両方を深く知る人間だ。そして、槙島に——槙島だけに——この情報を渡したかった。
なぜ俺に。
黒崎が死んで、俺は犯人に仕立てられた。警察を追われ、社会から弾かれた。そんな人間に、警察内部の機密データを託す意味があるとすれば。
追われる側の人間にしか、使えない情報だからだ。
組織の内部にいる人間には扱えない。表に出せば自分も巻き込まれる。かといって握り潰せば、黒崎と同じ末路を辿る。だから、すでに組織の外に放り出された人間に託した。失うものがない人間に。
槙島は拳を握った。爪が掌に食い込む痛みを、そのまま受け止めた。
利用されている可能性は高い。送り主が善意とは限らない。槙島を駒として使い、自分は安全圏にいるつもりかもしれない。
だが、構わなかった。
駒でもいい。このファイルが黒崎の死に繋がる糸なら、掴む。噛みつく。引きちぎる。
スマートフォンの画面が光った。
ダミーブログに返信がついている。
「明日の朝マヅメ、いつもの堤防で」
戸川が応じた。明日の早朝、以前に打ち合わせた場所で落ち合う。
槙島はスマートフォンの画面を消し、バックパックの中身を確認した。着替え、現金、偽造身分証、USBメモリ。三分で消えられる態勢は維持したまま、追加でPCと充電器を外ポケットに移す。
ベッドには横にならなかった。壁に背をつけて座り、目を閉じる。眠れるとは思わない。だが体を休める必要がある。明日から、逃げるだけの日々が変わる。
目を閉じた暗闘の中で、一つだけ確信があった。
このUSBメモリを送った人間は、今も見ている。槙島が開いたことを知っている。指紋認証が通過した瞬間に、何らかの通知が飛んだ可能性すらある。
つまり——時計は、もう動き始めている。