第3話
第3話
早朝の横浜港。靄が海面を這っていた。潮の匂いが濃い。湿った空気が肺の底まで沁みる、四月の夜明け前だった。
槙島は港湾沿いの遊歩道を歩いた。フードを被り、釣り竿のケースを肩に担いでいる。中身は竿ではなくノートPCだ。早朝の釣り人に見えるように。追われる人間は風景に溶けなければならない。歩調を意識的に緩めた。急ぐ人間は目立つ。三ヶ月の逃亡生活が教えた、体に染みついた所作だった。
「いつもの堤防」——磯子の外れにある小さな船着き場。釣り人すら来ない、忘れられた岸壁。戸川が情報屋として使う複数の拠点の一つだった。
コンクリートの階段を降りると、錆びた鉄扉の前に猫が一匹座っていた。三毛。痩せている。猫が逃げない。人に慣れている。ここに誰かが日常的に出入りしている証拠だった。猫は槙島の足元を一度嗅ぎ、興味を失ったように目を閉じた。
扉をノックする。二回、間を置いて三回。
内側で金属が擦れる音がした。鉄扉のロックが外される、重く乾いた音。
鉄扉が内側から開いた。
戸川功。四十七歳。痩せた体に不釣り合いな太い手首。元技官の指は今も精密機器をいじり続けているのだろう、爪が短く整えられている。無精髭を生やした顔に表情はない。五年前と同じだ。ただ、髪の白いものが増えていた。こめかみから耳の上にかけて、記憶にない灰色が混じっている。
「入れ。長居はするな」
挨拶はなかった。槙島も求めなかった。
地下に降りる。狭い螺旋階段を十二段。壁のコンクリートに手を触れると、冷たさの奥に微かな振動がある。サーバーの駆動音が建物の骨格を伝わっていた。船着き場の倉庫を改装した空間。壁際にモニターが三台並び、サーバーラックが低く唸っている。空調の音。窓はない。外界から完全に遮断された部屋だった。蛍光灯の青白い光が、空気そのものを冷たく染めている。
槙島はUSBメモリをテーブルに置いた。
「指紋認証付き。俺の指紋でしか開かない」
戸川が眉を上げた。USBメモリを手に取り、表面を爪で叩く。裏返す。側面のセンサー部分に目を細めた。
「軍用グレードだな。市販品じゃない。この認証チップ、警察庁の技術部が試験導入してた型だ」
「知ってるのか」
「俺がいた頃に開発レビューに関わった。量産前に計画が凍結されたはずだが——試作品が流れたか」
戸川はメモリを返し、自分のワークステーションの前に座った。椅子のキャスターが床を擦る音が、静かな地下室に妙に大きく響いた。
「差せ。お前の指紋がいる」
槙島がメモリを差し込み、センサーに指を押し当てる。認証。ファイルが展開される。戸川のモニターに「KAINE」フォルダの中身が映し出された。
戸川の指がキーボードの上で止まった。
「嘉禰——黒崎の旧姓か」
「ああ」
「送り主は絞れるな。お前と黒崎の個人的な関係を知っていて、かつ警察庁の試作デバイスにアクセスできる人間」
「心当たりはない」
「だろうな。心当たりがあるなら、俺のところには来ない」
戸川はPDFファイルを次々と開いた。三台のモニターにそれぞれ異なるデータが並ぶ。数字の羅列を目で追う速度が異常に速い。元技官の目は、データの海から構造を読み取る訓練を積んでいる。
十五分。戸川は一言も発しなかった。槙島は壁に背をつけて立ったまま、戸川の背中を見ていた。サーバーの排熱で室温が高い。地下特有の湿った空気が肌にまとわりつく。額に汗が浮いた。それを拭おうとは思わなかった。戸川の呼吸のリズムが変わった瞬間を、槙島は聞き逃さなかった。
「槙島」
戸川が振り返らずに言った。声のトーンが変わっていた。低く、硬い。情報屋が「商品」ではなく「爆弾」を見つけたときの声だ。
「これは裏金だ。警察上層部と政財界を繋ぐ資金ネットワークの帳簿。規模がでかい。年間で数十億が動いてる」
モニターの一つにスプレッドシートが拡大表示された。行と列の交差点に、日付と金額と符丁が並んでいる。戸川が符丁の一つを指差した。
「この記号体系、警察庁の会計監査で使われる内部コードだ。NPA管理番号と突合できる。つまり——」
「帳簿は本物だと」
「少なくとも、偽造するなら警察庁の会計システムに直接アクセスできる人間じゃないと無理だ。でっち上げのコストが高すぎる。本物と見て動いた方がいい」
槙島は息を吐いた。掌の中で拳を握り、開いた。指先が冷たかった。地下室の熱気の中で、自分の手だけが凍えている。
戸川がスプレッドシートの別のタブを開いた。資金の流れを時系列で追っている。送金元は複数の匿名口座。送金先は——
「政治家の資金管理団体、建設コンサル、港湾関連企業。典型的な官民癒着の構図だ。ただ、金額と頻度が尋常じゃない。これは単発の贈収賄じゃなく、システムとして動いてる」
戸川がさらに深層のフォルダを開いた。暗号化された.encファイルが並んでいる。
「こいつらは別の復号鍵がいる。今すぐには開けない。だが——」
戸川の手が止まった。
「ログがある」
「ログ?」
「アクセスログだ。このファイル群に誰がいつアクセスしたかの記録が埋め込まれている」
戸川がログファイルを展開した。画面にタイムスタンプの列が流れていく。ほとんどは匿名のアクセスIDだが、戸川がフィルタをかけると、一つのIDが浮かび上がった。
「このID——KS-1109。黒崎誠司のイニシャルと、お前ら二人の所轄時代のコールサイン番号だ」
槙島の呼吸が止まった。
「アクセス日時は——」
戸川がタイムスタンプを読み上げた。
一月十七日。午後十一時四十二分。
黒崎が殺された夜だった。
深夜二時に槙島の電話が鳴る三時間前。黒崎はこのファイルにアクセスしていた。裏金ネットワークの帳簿を掴もうとしていた。
「隼人、俺、上を調べてる」
あの言葉の意味が、三ヶ月越しに繋がった。
上——警察の上層部。黒崎は裏金の流れを嗅ぎつけ、独自に調べていた。そしてこのファイルに辿り着いた夜、消された。
槙島は壁に拳を叩きつけた。鈍い音が地下室に響く。皮膚が裂けて血が滲んだ。痛みは遠かった。拳を引くと、コンクリートの壁に赤黒い跡が残った。血が手首を伝い、床に一滴落ちる。その音すら聞こえた。地下室はそれほど静かだった。
「落ち着け」
戸川の声に感情はない。だが、振り返った目には槙島が初めて見る光があった。怒りではない。哀れみでもない。同じ組織に裏切られた者だけが持つ、静かな共鳴のようなものだった。
「ログはまだある。黒崎のアクセスの四時間後——一月十八日、午前三時五十一分に別のIDがこのファイルにアクセスしてる。IDは匿名化されてるが、アクセス元のIPレンジは特定できる」
「どこだ」
「警察庁本庁舎。内部ネットワーク。しかも管理者権限でのアクセスだ」
黒崎がファイルを掴んだ直後、本庁舎の誰かがそれを検知した。そして黒崎は翌朝、死体で見つかった。
因果の線が一本に繋がる。
黒崎はこのファイルを掴もうとして殺された。
「戸川」
「分かってる。これを持ってるだけで命に関わる」
戸川はデータのバックアップを別の暗号化ドライブにコピーし始めた。手際が速い。慣れている。キーボードを叩く音だけが、一定のリズムで地下室を満たした。
「聞いておくが——お前、どうするつもりだ」
「逃げるだけの三ヶ月は終わりだ」
「そうじゃない。聞いてるのは、誰を敵に回すか分かってるかということだ」
槙島は戸川の目を見た。
「警察庁の管理者権限を持つ人間。裏金ネットワークの中枢にいる誰か。そいつが黒崎を殺し、俺に冤罪を着せた」
戸川が椅子を回してこちらを向いた。
「お前の冤罪、ただの殺人隠蔽じゃないぞ。黒崎が掴んだ情報を誰にも渡さないための——口封じの構図だ。お前を犯人にすれば、黒崎の捜査記録は被害者の私物として封印される。動機は個人的怨恨で処理され、背後関係を洗う必要がなくなる。完璧なシナリオだ」
喉の奥で、苦いものがこみ上げた。胃液の味がした。
冤罪は副産物じゃなかった。ファイルの存在を闇に葬るための、組織的な工作だった。黒崎を消し、槙島を社会的に抹殺することで、二重の蓋をした。
「バックアップは完了した」
戸川がドライブを引き抜き、槙島に投げた。槙島は片手で受け取る。小さな金属の塊が掌に収まる。黒崎が命を懸けた情報の重さには似つかわしくない、軽さだった。
「.encファイルの復号には時間がかかる。最低でも二、三日くれ。ただし——」
戸川が声を落とした。
「ここに来るとき、尾行はなかったな?」
「三重にルートを変えた。問題ない」
「そうか」
戸川はモニターに視線を戻した。画面には裏金ネットワークの資金フローが蜘蛛の巣のように広がっている。その糸の先に何がいるのか。まだ見えない。
だが、黒崎が命を懸けて掴もうとしたものの輪郭が、ようやく浮かび始めていた。