第2話
第2話
封筒の中身は二つ。
一つは写真。L判サイズが五枚、クリップで留められている。銀色のクリップが蛍光灯を反射して、一瞬だけ目を刺した。もう一つは便箋一枚。数字と記号の羅列が、青いボールペンで几帳面に書き連ねてあった。紙の端がわずかに波打っている。湿気か、あるいは書いた人間の手汗か。
黒崎はまず写真を確認した。
一枚目。薄暗い室内。長テーブルを囲む六人の男たち。全員がスーツ姿で、表情は硬い。会議か、それとも密談か。テーブルの上にはワインボトルと書類の束。ボトルのラベルが半分だけ見える。フランス語の筆記体。安い酒ではない。壁に掛かった油絵の一部が写り込んでいる。撮影場所は高級料亭かホテルの個室。盗撮だ。角度から見て、隠しカメラか胸元のピンホールで撮っている。画質の粗さが、レンズの小ささを物語っていた。
二枚目。同じ場所。男の一人が書類にサインしている。万年筆を握る右手に力がこもっている。顔の半分が影になっているが、特徴的な銀縁眼鏡と、左こめかみのほくろが見える。
三枚目。別の日だろう。場所が変わっている。港湾施設の前。曇天の下、錆びた鉄柱と積み上げられたコンテナの壁が背景を埋めている。大型コンテナを背に、スーツの男と作業服の男が握手を交わしている。作業服の男の胸ポケットに、何かの社名が刺繍されているが、写真では判読できない。コンテナに印字された管理番号がかろうじて読める。
四枚目、五枚目。帳簿のような紙面を接写したもの。数字の桁が大きい。八桁、九桁。金額だとすれば、億単位の取引だ。罫線の引き方が独特で、市販の帳簿ではなく、専用のフォーマットに見えた。
どの写真にも、撮影者の意図が明確だった。顔、書類、金額、場所——証拠として必要な要素を、一枚も無駄にせず押さえている。素人の仕事ではない。三島絵里は、最初から告発するつもりでこれを撮り溜めていたのだ。覚悟を決めた人間の、静かな怒りが写真の構図に滲んでいた。
黒崎は写真をデスクに並べ、便箋に目を移した。
——
数列が三行。
``` 35.4437 / 139.6500 / 0418-0200 KT-7 / S-BLOCK / C-2214 EK → FJ → KG (※IG) ```
一見して暗号だと分かる。だが暗号にしては素朴すぎる。隠すためではなく、限られた時間で要点だけを書き残した。そういう書き方だ。文字の筆圧は均一で、書き直しの跡がない。一度で書き切っている。頭の中で整理してからペンを取った人間の筆跡だ。
黒崎は煙草に火を点けた。マッチの硫黄の匂いが鼻を突き、すぐに煙草の煙にかき消された。煙を吐き出しながら、一行目を睨む。
35.4437。139.6500。
数字の並びに既視感がある。捜査一課にいた頃、犯行現場の座標を扱わない日はなかった。北緯と東経。日本国内の座標だ。
スマートフォンの地図アプリを開き、数値を入力した。ピンが落ちる。横浜港。みなとみらい地区から南東、本牧ふ頭の手前。倉庫街だ。衛星写真に切り替えると、灰色の屋根が規則正しく並び、その間を縫うように暗い水路が走っていた。夜中の二時、人の目は届かない。
0418-0200。四月十八日、午前二時。今日が十五日だから、三日後の深夜。
二行目。KT-7。港湾施設に詳しければピンとくる。埠頭のコード。Kは「港」、Tは「ターミナル」か「埠頭」。7は番号。第七埠頭。S-BLOCKは区画。C-2214はコンテナ番号だろう。
三行目。イニシャルの羅列。EK、FJ、KG。人名か組織名か。矢印は金の流れか、指揮系統か。末尾の「IG」だけ括弧と米印がついている。特別な意味がある。中心人物か、それとも——
黒崎は二枚目の写真を手に取った。銀縁眼鏡、左こめかみのほくろ。この顔には見覚えがある。テレビで何度も見た顔だ。答弁席で野党の追及をかわすときの、あの薄い笑み。
デスクの下段の引き出しから、古い週刊誌の切り抜きファイルを引っ張り出す。捜査一課時代の習慣で、政財界の人脈図を独自にまとめていた。付箋が林立するページをめくる指が止まった。
衆議院議員、現・国務大臣——榎本恭一郎。EK。
イニシャルが一致する。
黒崎は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。蛍光灯が微かに唸っている。その単調な音が、事務所の静けさをかえって際立たせた。
三島絵里は、現職大臣が関わる取引の証拠を握っていた。そしてそれを自分に送り、直後に死んだ。自殺ではない。殺されたのだ。胃の底に鉛を流し込まれたような重さが広がる。面識のない女がこちらを信じて命を賭けた。その事実の重量を、黒崎は受け止めようとしていた。
——
写真をもう一度、丁寧に見直す。
一枚目の室内写真。壁の油絵を拡大した。風景画の左下に小さなプレートが写っている。文字は潰れて読めないが、額縁の装飾に特徴がある。十八世紀の様式を模した金箔の唐草模様。この手の意匠を使うのは都内でも限られた場所だ。
黒崎はファイルから名刺の束を引き出した。輪ゴムで束ねた名刺の角が黄ばんでいる。元刑事が持つ人脈は、バッジを失っても消えない。情報屋、記者、夜の街の住人たち。使える手札を頭の中で並べる。
だが写真と数列だけでは足りない。これだけで警察に持ち込んでも「出所不明の怪文書」で片づけられる。三島絵里が死んだ今、証言者はいない。
四月十八日、午前二時、横浜港第七埠頭。
現場を押さえるしかない。三島が命と引き換えに残した座標。その時刻に、その場所で、何が行われるのか——自分の目で確認する。
黒崎は便箋を裏返した。何か書いてないか確認する癖だ。右下の隅に、鉛筆で薄く書かれた一行があった。
『この人なら、と思いました。どうか』
筆跡が便箋の表と同じだ。三島絵里の字。数列を書いた後、最後に付け加えたのだろう。迷いのない、しかし震えを堪えた文字。鉛筆の線が紙に食い込んでいる。「どうか」の先にあったはずの言葉を、彼女は書かなかった。書けなかったのか、書く必要がないと思ったのか。
なぜ自分を選んだ。元捜査一課というだけなら、他にも候補はいたはずだ。現職の刑事に匿名で送る手もあった。警察に頼れない事情があるにしても、ジャーナリストという選択肢もある。
それでも三島は、看板の文字が傾いた雑居ビルの私立探偵を選んだ。理由がある。今は分からなくても、必ずある。
黒崎は写真と便箋をスマートフォンで撮影し、クラウドにアップロードした。原本は別の場所に隠す。事務所に置いておくのは危険だ。
書類用の封筒に原本を入れ直し、デスクの裏側に貼りつけた。応急処置だが、素人の家宅捜索なら見つからない。
コーヒーメーカーの電源を入れる。古い機械が喘ぐような音を立てて湯を沸かし始めた。水が管を通る微かな振動がデスクに伝わってくる。写真の人物を特定するのが先だ。榎本以外の五人。FJ、KG、そしてIG——
目線を上げた瞬間、身体が固まった。
窓の外。事務所の前の通りに、黒塗りのSUVが停まっていた。
エンジンは切れている。だがフロントガラスの内側に人影が見える。助手席と後部座席。少なくとも三人。
黒崎は窓から半歩退いた。背筋を冷たいものが走る。カーテンの隙間から覗く。
運転席のドアが開いた。黒いスーツの男が降りる。続いて後部座席から二人。全員が同じ色のスーツ、同じ短い髪型。耳にイヤピースが光っている。動きに無駄がない。訓練された人間の所作だ。
先頭の男が、ビルの入口を見上げた。四階の窓を——こちらを見ている。目が合った気がした。距離があるのに、視線の圧だけが確かに届いた。
来るのが早い。三島が殺されてまだ半日も経っていない。封筒の存在を知っている人間がいる。差出人が三島で、届け先が自分だと——最初から把握していた。郵便を監視していたか、三島のスマートフォンから情報を抜いたか。どちらにしても、組織的な動きだ。
男たちがビルの入口に消えた。
階段を上がってくる。
黒崎は封筒をデスクの裏から剥がし、コートの内ポケットにねじ込んだ。事務所の裏口——非常階段に繋がるドアに手をかける。ドアノブが手汗で滑った。握り直す。
エレベーターは故障中。階段で上がるなら到着まで約四十秒。
コンクリートの階段を革靴の底が叩く音が、下の階から響き始めた。一定のリズム。急いでいない。逃げられないと確信している足音だ。
コーヒーメーカーが、最初の一滴を落とした。