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影灯会 — 堕ちた刑事の最後の矜持

第1話 第1話

第1話

第1話

靴音が一つ、多い。

歌舞伎町の雑踏に紛れていても、三日も続けば嫌でも分かる。黒崎遼は煙草に火を点けながら、ガラスに映る背後の人影を捉えた。男。身長百七十五前後。黒のブルゾン、スニーカー。距離は約十五メートル。近すぎず、遠すぎない。教科書通りの尾行距離だ。

素人じゃない。

初日は気のせいだと思った。二日目に確信に変わり、三日目の今夜、黒崎はようやく相手の癖を掴みかけていた。人混みの中で一定の距離を保つ技術。信号が変わるタイミングで自然に歩調を合わせる呼吸。どこかで訓練を受けた人間だ。問題は、誰に雇われているのか——それだけだった。

交差点を渡り、風俗ビルの看板が乱立するネオン街へ折れる。足音がついてくる。黒崎はポケットに手を入れたまま歩調を落とした。酔客の群れに紛れ、路地の角を曲がる。一本裏に入ると喧噪が嘘のように遠のいた。居酒屋の排気口から脂の匂いが噴き出している。焼き鳥の煙が路地全体を霞ませ、換気扇のモーター音が低く唸っている。雨上がりのアスファルトが、ネオンを反射して薄く光っていた。水溜まりを踏むたびに赤や青の光が足元で砕けた。

角を曲がった瞬間、黒崎は足を止めた。壁に背をつけ、息を殺す。背中にコンクリートの冷たさが伝わる。どこかで猫が鳴いた。ビルの隙間から吹き込む風が、煙草の匂いを路地の奥へ運んでいく。

五秒。十秒。

自分の心拍を数える。落ち着いている。捜査一課にいた頃、張り込みで何百時間もこうして息を殺した。身体が覚えている。

靴音が近づく。角から男の肩が覗いた。

黒崎は一歩踏み出し、男の視界に入った。

「——」

男の目が見開かれる。一瞬の硬直。虹彩の奥に走った動揺を、黒崎は見逃さなかった。だがすぐに歩調を取り繕い、何食わぬ顔で通り過ぎようとした。すれ違いざま、男の呼吸が微かに乱れるのが分かった。整髪料の匂い。清潔だが安い。組織の人間が使う類のものだ。

その足運び。重心の移動。踵から着地せず、拇指球で地面を捉える歩き方。元自衛隊か、それとも——

黒崎は追わなかった。相手の技量は確認した。下手に刺激すれば面倒が増える。煙草の煙を吐き出して、裏路地を反対方向へ抜けた。三日間の尾行。目的が分からないうちは、こちらから手札を見せる必要はない。

——

事務所に着いたのは午前一時を回った頃だった。

新宿三丁目の雑居ビル、四階。「黒崎調査事務所」と印字された安っぽいプレートが入口に貼ってある。プレートの端が剥がれかけていて、「事」の字が少し傾いている。エレベーターは故障中の札がぶら下がったまま三ヶ月。階段を上がるたびに蛍光灯がちらつく。二階と三階の間で完全に消えている箇所があり、そこだけ闇が澱のように溜まっていた。

鍵を開けると、事務所は出たときのままだった。スチールデスクの上に散らばった浮気調査の報告書。飲みかけの缶コーヒー。灰皿に溜まった吸い殻の山。窓の外では深夜のネオンがカーテンの隙間から細い光を投げ込み、デスクの書類を青白く照らしていた。エアコンは入れていない。四月だが、ビルの上階は昼間の熱がこもって、じっとりと生温い。

三年前まで、黒崎遼は警視庁捜査一課の主任だった。検挙率トップ。年間最優秀捜査員の表彰も受けた。あの頃の自分が今の自分を見たら何と言うだろう。考えるだけ無駄だ。戻れない場所を振り返る暇があるなら、目の前の仕事を片づけるほうがいい。

今は雑居ビルの片隅で、不倫相手の身元確認と家出人の所在調査を請け負っている。月の売上は家賃を払えるかどうか。

デスクに腰を下ろす。スプリングの壊れた椅子が軋んだ。留守番電話の赤いランプが点滅していた。

一件。

依頼の電話は滅多に来ない。まして深夜に。嫌な予感が首筋を這い上がる。黒崎はネクタイを緩めながら、再生ボタンを押す。

ノイズ。息遣い。そして——

「黒崎さん、ですか」

女の声だった。若い。震えている。背後に車の走行音。外から掛けている。声の奥に、夜風に揺れる木の葉のような、かすかな擦過音が混じっていた。公衆電話ではない。屋外で携帯を握りしめている。

「三島と申します。三島絵里。あの——ご存知ないと思いますが、あなたのことは調べました。元捜査一課のかただと」

声が途切れた。嗚咽を堪えているのが分かる。録音越しでも伝わる、喉の奥を締め付けるような呼吸の揺れ。泣いているのではない。泣くことすら許されない状況にいるのだ、と黒崎は直感した。

「私はもう長くないかもしれません。明日——いえ、今日中に、封筒が届くはずです。速達で送りました。中身を見ていただければ分かります」

沈黙。録音のノイズだけが流れる。遠くでサイレンが鳴っている。救急車だ。その音が遠ざかり、また静寂が戻る。

「お願いです。あの人たちを——止めてください。私にはもう、あなたしか」

プツ、と音が切れた。通話終了。

タイムスタンプは午後十一時四十二分。二時間前だ。

黒崎は煙草に火を点け、天井を見上げた。染みだらけの天井。前のテナントが残していった画鋲の穴が、星座のように点在している。

依頼人は山ほど見てきた。泣く者、怒る者、嘘をつく者。だがこの声には、どのカテゴリにも当てはまらない切迫感があった。

死を覚悟した人間の声だ。

その声の質感を、黒崎は知っている。捜査一課の人間なら一度は聞いたことがある。自分の命の終わりを受け入れた者だけが出す、妙に澄んだ響き。怒りでも悲しみでもない。諦念の先にある、ある種の静けさ。あの声の持ち主たちの多くが、その後二度と声を発することがなかった。

封筒。明日届く。

再生ボタンをもう一度押した。二度目を聞き終え、三度目。声の特徴を記憶に刻む。年齢はおそらく二十代後半から三十代前半。標準語だが、微かにアクセントが揺れる。地方出身。緊張で元の訛りが出かけている。「止めてください」のイントネーションに東北の影がちらついた。語尾の「か」がわずかに上がる。宮城か、岩手か。

携帯の番号を表示させた。非通知。逆探は無理だ。警察にいた頃なら通信記録を引けたが、今の自分には何の権限もない。

もう一つ気になることがある。「あなたのことは調べました」——どこで、誰から情報を得た。元捜査一課だと知っているなら、三年前の不祥事も知っているはずだ。それでもなお自分を選んだ。

つまり、警察には頼れない相手ということだ。

黒崎はデスクの引き出しから手帳を取り出した。三島絵里。名前を書き留める。ボールペンのインクが掠れた。力を込めて、もう一度なぞる。

「明日の朝、か」

煙草の煙が蛍光灯に巻きついて消えた。

——

目が覚めたのは午前七時。事務所のソファで仮眠を取っていた。首が痛い。革が擦り切れたソファの上で、コートを掛けただけの浅い眠りだった。夢は見なかった。留守電の声が頭の中でループしていたから、脳が眠ることを拒否していたのかもしれない。

スマートフォンが鳴っている。ニュースのプッシュ通知。

画面をタップした瞬間、黒崎の動きが止まった。

『新宿区内のマンションで女性の遺体発見 住人の三島絵里さん(29)か 警視庁が捜査』

写真が添えられていた。マンションの入口に張られた規制線。鑑識の白い防護服が出入りする。見覚えのある光景だ。かつては自分があの規制線の内側にいた。

黒崎は画面を握りしめたまま、留守電を見た。赤いランプは、もう点滅していない。

胃の底が冷たくなる感覚があった。怒りではない。後悔でもない。もっと原始的な何か——自分がもう少し早く気づいていれば、という仮定が身体の内側で凍りつく感触。

ドアの郵便受けに、何かが差し込まれる音がした。

速達の封筒だ。

宛名は手書き。「黒崎遼様」。丁寧だが、文字の端が震えている。差出人——三島絵里。

消印は昨日。彼女がまだ生きていた、最後の数時間。

黒崎は封筒の重みを手のひらで確かめた。軽い。だが中に入っているものが、この先の自分の人生を変えることになるとは、このときまだ知らなかった。

封を切る指が、かすかに震えていた。

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