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霊感ゼロの俺だけが視える

第3話 第3話

第3話

第3話

階段を上がりきると、二階は一階よりもさらに暗かった。

 廊下が左右に伸び、等間隔に並んだ扉が闇の中に浮かんでいる。壁紙は一階と同じように剥がれかけていたが、こちらはより酷い。紙がめくれ上がった下に、黒い染みが壁一面に広がっていた。水漏れの跡だろうか。だが水の跡にしては輪郭が不自然だった。何かが壁の内側から滲み出したような、有機的なかたち。

 凛が先頭に立ち、右の廊下から順に部屋を確認していく。拓海がその横につき、懐中電灯で奥を照らした。

 最初の部屋は寝室だった。シングルベッドが二つ、壁際に並んでいる。シーツは黄ばみ、枕元に眼鏡が置いてあった。レンズの片方が欠けている。クローゼットの扉が半開きで、中には衣服がかかったままだった。虫食いの穴だらけの、古い背広。

「人が住んでたんだ、ここ」

 美月が呟いた。彼女の声は静かだったが、そこに含まれた意味は全員に届いたはずだった。廃墟ではなく、かつて誰かの生活があった場所。俺たちはその残骸の中に立っている。

 次の部屋は書斎だった。本棚が壁の三面を占め、机の上に万年筆とインク壺が並んでいる。インクは干からびて黒い塊になっていたが、万年筆のキャップは外れたままだった。書きかけの手紙でもあったのだろうか。だが紙は見当たらない。机の引き出しは全て開いていた。中は空だった。

 三つ目の部屋を開けた瞬間、全員の足が止まった。

 食堂だった。長いダイニングテーブルの上に、食器が並んでいた。皿が六枚。グラスが六つ。フォークとナイフが、几帳面に揃えられている。皿の上には何も載っていない。だが配置は完璧だった。今まさに誰かがここで食事をするかのように。

「六人分」

 健吾が言った。その声から、いつもの皮肉が消えていた。

「偶然でしょ」

 凛が言い切ったが、視線はテーブルから離れなかった。六人分の食器。俺たちも六人。偶然と呼ぶには座りが悪すぎる数字だった。

 テーブルの上に薄く埃が積もっている。だが食器の表面には埃がなかった。まるでつい最近、誰かが並べ直したかのように。

 部屋の隅に柱時計があった。振り子が止まっている。文字盤は三時四十七分を指していた。

「……三時四十七分」

 俺は呟いた。スマホの時計と同じ時刻。この館に閉じ込められた瞬間で、全てが止まっている。

 拓海が柱時計に近づき、ガラスの扉を開けて振り子に触れた。指で押す。振り子は揺れ、かちこちと音を刻み始めた。三回、四回。それから急速に減衰し、止まった。まるで見えない手に押さえつけられたかのように、不自然な急停止だった。

「なんだこれ、壊れてるわけじゃないのに」

 拓海が手を引っ込めた。その指先を、無意識に服で拭っていた。

 俺の耳の奥では、あの音がずっと鳴り続けていた。壁の中の唸り声。叩く音。館に入ってから一度も途切れていない。だが食堂に入った瞬間から、その質が変わり始めていた。唸りの輪郭が細くなり、途切れ途切れの呼吸のようなリズムを帯びていく。

 食堂を出て、廊下の奥へ進んだ。四つ目の扉は浴室だった。五つ目は物置。どちらにも窓はあったが、一階と同じく、開かなかった。

 六つ目の扉の前で、俺は足を止めた。

 止めざるを得なかった。耳鳴りが爆発した。それまで背景音のように鳴っていたものが、この扉の前に立った瞬間、鼓膜を裂くような鋭さに変わった。頭蓋骨の内側を釘で引っ掻かれるような激痛。思わず両手で耳を塞いだが、音は止まらなかった。頭の中で鳴っている。耳を塞いでも意味がない。

「蓮?」

 美月の声が遠い。棉を詰め込まれたように、くぐもって聞こえる。

「大丈夫、ちょっと——」

 大丈夫ではなかった。目の前が明滅する。こめかみに血管が浮き、心臓が耳鳴りに同期するように早鐘を打つ。呼吸が浅くなり、指先が痺れ始めた。

 この扉の向こうに、何かがいる。

 確信だった。根拠はない。霊感があるわけでもない。だが俺の体が、全力でそれを告げていた。骨が軋むような共鳴。細胞の一つ一つが壁の向こうの何かに反応して震えている。そんな、ありえない感覚だった。

 凛が扉を開けた。

 部屋は空だった。他の部屋より狭い。窓もない。壁紙すら貼られていない剥き出しの壁。漆喰が灰色に変色し、ところどころ罅が入っている。部屋の中央に何もなく、ただ冷たい空気が淀んでいた。

 だが、奥の壁だけが違った。

 他の壁は灰色の漆喰なのに、奥の壁だけが黒ずんでいた。染みとは違う。壁全体が、均一に、一段暗い色をしていた。触れてもいないのに、そこから冷気が放射されているのがわかった。手をかざさなくても、顔の皮膚が冷たさを感じ取っている。

 そして、音が聞こえた。

 壁の向こうから。

 唸り声ではなかった。もっと人間に近い音。掠れた呼気の中に、かすかな声帯の振動が混じっている。言葉にはなっていない。なりかけて、崩れている。何かを伝えようとして、伝えきれないまま途切れる。それが繰り返される。

 呻き声だ。

 誰かが、壁の向こうで呻いている。

「聞こえる」

 気づいたら声に出していた。

「壁の向こうから、声がする」

 五人が俺を見た。健吾の目が細くなり、凛の眉が上がり、美月の表情が固まった。

「声って、何が聞こえるの」

 凛が聞いた。その声は冷静だったが、俺の目をまっすぐに見ていた。嘲笑ではなかった。今この状況で、凛は全ての可能性を検討する姿勢に切り替えている。

「呻き声。人の……たぶん人の声だ。はっきりとは聞き取れないけど、壁のすぐ向こうから」

「俺には何も聞こえないけど」

 健吾が言った。だが嘲る声ではなかった。この館に閉じ込められてから、「霊感ゼロ」を笑う余裕は彼にもなくなっている。

「私も聞こえない」

 美月が目を閉じ、耳を澄ませるような仕草をした。数秒の沈黙。首を横に振る。

「何も」

 大輝も沙耶も同じだった。凛も壁に近づいて耳を傾けたが、表情は変わらなかった。

 俺だけに聞こえている。また俺だけだ。二年間なにも感じなかった人間が、この館に来てから、俺だけが何かを受信し続けている。

「ちょっと失礼」

 拓海が前に出た。黒い壁の前に立ち、右手を持ち上げる。躊躇いなく、壁に手を押し当てた。

 一秒。

 拓海の表情が変わった。

 眉が寄り、目が見開かれ、唇が引き結ばれた。壁に当てた手がわずかに震えている。三秒ほどでその手を引き剥がすように離し、二歩後ずさった。顔色が蒼白になっていた。さっきまで館の探索を先頭に立って引っ張っていた大柄な体が、明らかに萎縮していた。

「拓海?」

「冷たい」

 拓海の声は乾いていた。

「冷たいなんてもんじゃない。凍ってるわけじゃないのに、手の感覚が——指の奥まで持っていかれるような。温度じゃない。なにか別のものだ」

 拓海が自分の右手を見下ろした。手のひらを開き、閉じ、また開く。

「触ってる間、引っ張られた。手を、壁の中に。物理的な力じゃないんだけど、吸い込まれるような——うまく言えない」

 沙耶が小さな悲鳴を上げ、大輝の後ろに隠れた。健吾の顎が強張っている。凛は壁を見つめたまま動かなかった。

 美月が俺の隣に立った。肩が触れるほど近くに。

「蓮の声、まだ聞こえてる?」

「……ああ」

 聞こえていた。拓海が壁に触れた瞬間から、呻き声の音量が上がっていた。まるで反応したかのように。壁の向こうの何かが、触れられたことを感知して、より強く声を発している。

 呻き声の中に、新しい音が混じり始めた。

 こつ、こつ、こつ。

 昨日、階段で聞いたのと同じ叩く音。だが今度はもっと近い。もっとはっきりしている。壁のすぐ裏側から、拳で叩いているような音が響いている。間隔が徐々に短くなっていく。

 こつこつこつこつこつ——

「出してくれ」

 声が、聞こえた。

 呻きではなかった。言葉だった。掠れ、歪み、人間の喉から出ているとは思えないほど干からびた声だったが、確かに日本語だった。

 壁の向こうから、誰かが言っている。

 ——出してくれ。

 俺の背筋を、液体窒素を流し込まれたような冷たさが駆け下りた。足が床に縫い止められたように動かない。呼吸が止まる。

 叩く音が、ぴたりと止んだ。

 静寂。

 六人の誰も動かなかった。俺以外には声も叩く音も聞こえていないはずなのに、この部屋の空気が変質したことだけは全員が感じ取っていた。温度がさらに下がった。吐く息が白い。四月だということを忘れそうになる、底なしの冷気。

 そして、壁が鳴った。

 今度は全員に聞こえた。低く、重い振動。建物全体が軋むような音の中に、あの叩く音が混じっている。壁の表面に、髪の毛ほどの細い罅が一本、ゆっくりと走った。

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