第2話
第2話
扉が閉じている。
その事実が脳に染みるまで、数秒かかった。さっきまで半開きだった。錆びた蝶番が固まって、拓海が肩で押し開けた。確かにそうだった。蝶番が軋む甲高い音を、全員が聞いていたはずだ。それが今、一枚の壁のように隙間なく閉じている。
俺はゆっくりと窓に目を戻した。車がないことを、もう一度確認する。砂利の駐車スペースには何もない。轍すらない。四月の薄暗い光の中に、灰色の砂利が広がっているだけだった。
「あの、凛」
声が掠れた。玄関ホールの奥で、凛が大輝と沙耶に部屋割りの指示を出している。懐中電灯の光が天井を泳ぎ、シャンデリアの残骸に当たって砕ける。
「凛、ちょっと」
「ん? なに、蓮」
「扉、閉まってる」
凛が振り返った。その顔に浮かんだのは、恐怖ではなく怪訝そうな表情だった。
「風じゃない? 古い建物だし」
「風なんか吹いてない。それに——車がなくなってる」
一瞬、凛の目が細くなった。リーダーとしての判断が走ったのだろう。彼女は無言で窓に歩み寄り、曇ったガラスに顔を近づけた。
「……本当だ。ないね」
その声は平坦だった。動揺を押し殺しているのか、本当に動じていないのか、俺には判断がつかなかった。
「拓海、鍵持ってる?」
「ん? ああ、ポケットに——」
拓海がジーンズのポケットを探る。キーホルダーの金属音。車の電子キーを取り出して、窓の方に向けた。ロック解除のボタンを押す。反応はない。当然だ。車がないのだから。
「圏外だし、誰かが動かせるわけないよな」
拓海の声に初めてわずかな不安が混じった。
「演出でしょ」
健吾がスマホをいじりながら言った。画面の光が顔の下半分を青白く照らしている。
「凛がさ、先に仕込んどいたんじゃないの。車をどっかに隠して、扉も細工して。肝試しの演出」
「私がいつそんな暇あったの。ずっと一緒にいたでしょ」
「じゃあ蓮の見間違いだろ。暗いし」
健吾の視線が俺に向いた。その目には「また霊感ゼロが変なこと言ってる」という色がはっきりと浮かんでいた。二年間、何度も見た目だった。
「見間違いじゃない」
声が思ったより強く出た。自分でも驚いた。
「確認すればいいだろ。扉を開ければわかる」
拓海が玄関の扉に向かった。取っ手に手をかける。引く。動かない。押す。動かない。肩を当てて体重をかける。木が軋む音がしたが、扉はびくともしなかった。
「……鍵?」
「かかってないはずだけど」
凛が隣に立ち、取っ手を調べる。鍵穴はあるが、錠が降りている様子はない。それなのに扉は微動だにしなかった。まるで壁と一体化したかのように。
「窓は?」
美月が静かに言った。彼女は俺の後ろに立っていた。いつの間にか近づいていたらしい。
全員が動いた。一階の窓を片端から確かめていく。凛と拓海が左の廊下、健吾と大輝が右の廊下、美月と沙耶が玄関ホール周辺。俺は凛たちの後を追った。
左の廊下には三つの部屋があった。どれも薄暗く、埃の匂いが充満している。凛が最初の部屋のドアを開けると、かつて応接間だったらしい空間が広がった。布の被せられたソファ、壁にかかった額縁。絵は黒ずんで判別できない。
窓があった。両開きの、木枠の窓。凛が金具に手をかけ、力を込めた。
開かない。
「錆びてるだけでしょ」
凛は笑った。だがその笑みは、声と同じように硬かった。次の部屋。その次の部屋。どの窓も同じだった。引いても押しても、金具を外しても、ガラスを叩いても。窓は一枚も開かなかった。
「割れば?」
健吾の声が廊下に響いた。右側を確認し終えて戻ってきたらしい。
「そっちも全滅?」
「ああ。どれも開かない。っていうか、嵌め殺しみたいになってる。枠とガラスの間に隙間がないんだ」
拓海が近くにあった古い椅子を持ち上げ、廊下の突き当たりの窓に向かった。振りかぶる。椅子の脚がガラスに叩きつけられた。鈍い音。だがガラスは割れなかった。ヒビすら入らない。二度、三度。椅子の脚の方が先に折れた。木片が床に散らばる。
「なんだよ、これ……」
拓海が息を切らしながら呟いた。折れた椅子を放り出す。音が廊下に反響し、静寂に吸い込まれた。
六人が玄関ホールに集まった。懐中電灯とスマホのライトが、六つの光の輪を床に落としている。誰も笑っていなかった。
「整理する」
凛が言った。声は落ち着いている。彼女はこういうとき、感情を引っ込めて論理を前に出すタイプだった。
「扉が開かない。窓も開かない。割れもしない。車は消えてる。電波はない」
指を一本ずつ折りながら、事実を並べていく。その指先がわずかに震えていることに、俺だけが気づいていたかもしれない。
「仕掛けにしては手が込みすぎてる。私は何も仕込んでない。拓海も、他の誰も——でしょ?」
全員が頷く。沙耶は大輝の腕にしがみつくようにして、唇を噛んでいた。
「じゃあ何なんだよ」
健吾の声に苛立ちが混じった。恐怖を怒りに変換するタイプ。俺はそれを知っていた。
「わからない」
凛が珍しく素直に言った。
「でも、パニックになっても出口は増えない。まず二階を確認する。屋根伝いに外に出られる窓があるかもしれない。それと——」
言葉が途切れた。凛の視線が、自分のスマホに落ちている。
「時計、おかしくない?」
俺もスマホを見た。画面の右上、時刻表示。
15:47。
着いたのは何時だった。午後三時頃だったはずだ。館に入って、荷物を下ろして、扉と窓を確かめて回って。それだけで一時間以上が経つだろうか。体感では二十分か、三十分程度だった。
「私のも15:47」
美月が言った。
「俺も」 「同じ」 「……同じだ」
六人のスマホが、すべて同じ時刻を示していた。それ自体は不思議ではない。同じ時刻なのだから当然だ。だが俺が見ている間、秒の表示が動かなかった。15:47のまま、画面が静止している。
「止まってる」
俺は言った。
「全部のスマホの時計が、止まってる」
沈黙が落ちた。六つの光が揺れている。埃の粒子がその中を漂い、ゆっくりと回転していた。
耳の奥で、あの唸り声が続いている。館に入ってから一度も途切れていない。むしろ音量が上がっている。壁の中を血液が巡るような、湿った律動。
俺はまだ、そのことを誰にも言えていなかった。
「二階を見に行こう」
凛が懐中電灯を正面の階段に向けた。光の輪が古い段板を舐め上がっていく。その先は闇だった。踊り場から上は懐中電灯の光すら届かず、闇がひとつの塊のように凝っていた。
階段の上から、冷たい空気が降りてきた。地下から吹き上がるような、土と湿気の混じった冷気。季節外れどころの話ではない。真冬の隙間風よりもなお冷たい、温度という概念を逸脱したような寒さだった。沙耶が小さく息を呑み、吐いた白い息が光の中をゆっくりと這った。
美月が俺の袖を掴んだ。振り返ると、彼女の目が俺を見上げていた。
「蓮。さっきから、何か聞こえてない?」
心臓が一つ跳ねた。
「……なんで」
「顔。ずっと何かに耳を澄ませてるみたいな顔してる」
美月は「見える」側の人間だ。サークルの中でも凛と並んで感覚が鋭い。だが今、彼女は見えているのではなく、俺の顔色を読んでいるだけだ。
言えない。まだ言えない。この音が何なのかわからない。本当に聞こえているのかすら確信がない。二年間なにも感じなかった人間が、急に「壁の中から声がする」と言い出したら。健吾の嘲笑が聞こえる前に、自分自身がその言葉を信じられない。
「車酔いが残ってるだけ」
俺は嘘をついた。美月の指が袖の上で少し強くなり、それからゆっくり離れた。信じてはいない。でも追及もしない。それが美月だった。
階段を上がる。六人の足音が木の段板を踏み、軋みが連鎖していく。一段ごとに温度が下がる。三段目で息が白くなり、五段目で指先の感覚が鈍くなった。七段目で、右手の甲に鳥肌が総毛立つのを感じた。
耳鳴りが、また変わった。
唸り声の中に、別の音が混じり始めていた。規則的な打音。何かを叩いているような。壁の内側から、誰かが拳で叩いているような音。
こつ、こつ、こつ。
一定の間隔。機械的な正確さ。
足が止まった。振り返る。後ろの五人は歩き続けている。誰も聞いていない。俺の鼓膜だけが拾っている。
壁の向こうから、何かが叩いている。
——出して、と言っているように聞こえた。