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奉納児の子守唄

第1話 第1話

第1話

第1話

深夜二時のモニターの光だけが、六畳一間を青白く照らしている。

私——霧島奏は、都市伝説フォーラム『ヨミノクチ』の投稿画面を見つめたまま、冷めたコーヒーに口をつけた。苦い。砂糖を入れ忘れたのはいつものことだ。舌の上に残る渋みが、疲労で鈍くなった感覚をわずかに研ぎ澄ます。先週上げた記事——「深夜の交差点に立つ女」のアクセス数は二百三十七。コメントは四件。そのうち二件は罵倒で、一件はbotの広告リンクだった。

残りの一件だけが、まともな感想だった。「続きが読みたい」。たったその五文字が、私をこの仕事に繋ぎ止めている。

フリーランスの都市伝説ライター。名刺にそう刷ったとき、印刷所の店員が一瞬だけ眉を動かしたのを覚えている。まともな職業だと思われていないのは分かっている。けれど、他に何ができるというのだ。学歴は高卒、職歴は短期バイトの羅列、身寄りはない。施設を出てからの十年間、私はずっとこうだった。

画面の右上に通知のアイコンが灯った。ダイレクトメッセージ。送信者の名前は空欄で、アカウントの作成日は今日の日付になっている。

開いた。

『██村の生贄伝承を取材しないか。座標を送る。報酬は記事の出来次第で応相談。』

それだけだった。添付ファイルは一つ、テキストファイルに緯度と経度の数列が記されている。句読点も改行もない、無機質な数字の羅列。まるで機械が吐き出したような、温度のない文面だった。

██村。伏せ字のまま送られた村の名前。こういう手口はよくある。匿名で大袈裟なネタを振り、ライターが食いつくのを面白がる愉快犯。あるいは、アフィリエイトサイトへの誘導。

閉じようとして、指が止まった。

生贄、という言葉が引っかかったのではない。座標だった。私は仕事柄、怪談の現場とされる場所を地図で確認する習慣がある。コピーした数列をGoogleマップに貼り付けると、画面は山深い一帯を表示した。道路はない。建物のアイコンもない。衛星写真に切り替えても、濃い緑が広がるだけだ。等高線の間隔は狭く、急峻な山肌が連なっていることを示している。人が暮らすような場所には見えなかった。

けれど座標は、確かに存在する一点を指していた。

私は数年前から、自分の過去を調べることを諦めていた。児童養護施設「あおば園」に入所したのが三歳。それ以前の記憶は、ない。霧のかかった水面のように、手を伸ばしても何も掴めない。

施設の記録は退所時にコピーをもらっている。段ボール箱の底に突っ込んだまま、もう何年も開いていなかった。

押入れから引っ張り出し、茶色く焼けた書類の束をめくる。段ボールの蓋を開けた瞬間、埃とカビの混じった匂いが鼻を突いた。古い紙の匂い。施設の資料室で嗅いだのと同じ、時間が腐りかけたような甘さだった。入所申請書、健康診断の記録、予防接種の履歴。どれも事務的な文字が並ぶだけで、読んでいると自分が一個の「案件」として処理されていたことを思い知らされる。担当職員の筆跡は几帳面で、どの書類にも同じ青いボールペンのインクが使われていた。顔も声も思い出せない誰かが、淡々と私の人生を記録していた。その事実が、今さらのように胸を軋ませた。

目当ての書類は、すぐに見つかった。入所時の調書。氏名、生年月日、入所年月日、保護の経緯——そして、出身地の欄。

黒い。

マジックで塗り潰されている。それも雑にではなく、何度も重ねて、下の文字が絶対に読めないように。他の欄はすべて活字のまま残っているのに、出身地だけが執拗に消されていた。指先を近づけると、周囲のインクとは明らかに質感が違う。油性の、分厚い塗膜。誰かが意図を持って、念入りに、この情報を葬ったのだ。

これまで気づかなかったのか。いや、気づいていたのかもしれない。気づいて、見ないふりをしていたのだ。自分の出自に何か異常があるという事実を認めたくなくて。

指先で黒い塗り潰しをなぞった。インクはとうに乾き切って、紙と一体化している。光に透かしても、何も見えなかった。爪で端を引っ掻いてみたが、インクは剥がれず、紙の繊維だけがけば立った。デスクライトの角度を変えて、斜めから光を当ててもみた。黒いインクの表面が鈍く光るだけで、その下に隠された文字は一画たりとも浮かび上がらない。

匿名のメッセージをもう一度読む。██村。伏せ字。黒塗り。

偶然だ、と思った。思おうとした。けれど指は勝手にキーボードに伸びて、返信を打っていた。

『詳細を教えてください。』

送信してから、心臓が跳ねた。喉の奥に酸っぱいものがこみ上げる。これは仕事だ。ただの取材だ。そう自分に言い聞かせながら、私は座標の数列を手帳に書き写した。ペンを握る指が微かに震えていた。文字が歪む。書き直す気にはなれなかった。

返信はなかった。メッセージの既読もつかない。送信者のアカウントを確認すると、すでにページが存在しないことを示すエラーが表示された。

消えている。アカウントごと。

私は手帳に書き写した座標を見つめた。三十五度、百三十六度から始まる数列。山の中だ。地図には道すらない。

普通なら、ここで諦める。怪しい匿名メッセージ、消えたアカウント、地図に載らない場所。どう考えても罠か悪戯だ。ライター仲間なら全員がそう言うだろう。

けれど私には、その「普通」が通用しない理由があった。

もう一度、入所記録の黒塗りに目を落とす。二十五年間、この黒い染みの下に何があるのかを知らずに生きてきた。知らないまま死ぬのだと、どこかで諦めていた。

それが今、たった一つの座標で揺らいでいる。

私は翌朝の始発の時刻を調べ始めた。最寄り駅から、座標に最も近い町までの経路。片道四時間半。乗り換えは三回、最後のローカル線は一日に五本しかない。登山用の装備が要る。充電器、録音機材、カメラ。水と食料は現地で調達できるか——いや、地図に何もないなら持参するしかない。

クローゼットの奥から防水のトレッキングシューズを引っ張り出した。去年の取材で一度だけ履いた安物だが、ソールはまだ生きている。リュックに詰め込みながら、ヘッドランプの電池を確認した。点灯する。細い光が天井を舐めて、すぐに消した。

冷静に準備リストを組み立てている自分に気づいて、少しだけ笑った。怖くないのかと聞かれたら、怖い。けれどそれ以上に、知りたかった。

自分が何者なのか。どこから来たのか。なぜ、出身地だけが塗り潰されなければならなかったのか。

手帳を閉じ、リュックを引っ張り出す。明日の朝は早い。

ベッドに横になっても、眠りはなかなか来なかった。目を閉じると、黒塗りの四角がまぶたの裏に浮かぶ。あの下に何が書いてあるのか。それを知ったとき、私は——。

窓の外で野良猫が鳴いた。甲高い声が夜の静寂を裂いて、すぐに止んだ。時計の秒針だけが、暗闘の中で規則正しく刻み続けている。

スマートフォンが震えた。通知を確認する。フォーラムからではない。地図アプリだった。開いた覚えのないアプリが起動している。画面には、あの座標がピンで刺されていた。

私が保存したのではない。

背筋に冷たいものが走った。部屋の温度が下がったわけではない。それなのに、腕に鳥肌が立っている。薄い掛布団を引き寄せたが、冷えは肌の表面ではなく、もっと深いところから滲み出しているようだった。

ズームインすると、衛星写真の解像度が上がった。木々の隙間に、何かが見える。灰色の、四角い影。建物だ。地図上には何の表記もないのに、確かにそこに、人が作った構造物がある。一つではなかった。灰色の影は数えるほどだが、木々の間に点在して、かつてそこに集落があったことを静かに主張していた。

地図にない村が、衛星の目には映っている。

私は画面を閉じられなかった。暗い部屋の中で、スマートフォンの光が顔を照らしている。その光の向こうに、山の中の灰色の影が、じっと私を待っているような気がした。

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