第1話
第1話
潮の匂いに混じった、あの甘さを——俺はまだ、うまく言葉にできない。
大学三年の夏。俺、桐生蓮がこの島に来たのは、自分の意思じゃなかった。アウトドアサークル「コンパス」の夏キャンプ。幹事を押し付けられたのは、いつも通り俺だ。船の手配、食材の買い出し、テントの数の確認。誰かがやらなきゃいけない雑務を、断れない人間がやる。それだけのことだった。
チャーター船が島の桟橋に着いたとき、八人の中で最初に荷物を運び始めたのも俺だった。クーラーボックス、テント一式、炭の袋。大輝が「蓮、それ先に運んどいて」と言い、美月が「ありがとー」と軽く手を振る。拓海と翔太はもう砂浜で騒いでいて、芽衣たち女子三人は自撮りに夢中だった。
誰も海を見ていなかった。
俺は二往復目の荷物を桟橋から持ち上げたとき、足元の海面に目を落とした。透明度は高い。底の砂が見えるくらいだ。だが、波打ち際に寄せられた海藻の隙間に、小さな魚の死骸がいくつも引っかかっているのが見えた。腹が裂けている。内臓が飛び出して、妙に黒っぽく変色していた。
——暑さのせいか。
そう思おうとした。けれど、数が多すぎた。桟橋の左手の砂浜にも、右手の岩場にも、同じように腹の裂けた魚が散らばっている。打ち上げられてから時間が経っているのか、鱗がまだらに剥がれて、銀色の皮膚の下の肉が赤黒く覗いていた。裂け目の形が不自然だった。鳥についばまれたのとも、岩にぶつかったのとも違う。何か鋭いもので、丁寧に腹を開かれたような——そんな切り口に見えた。
チャーター船の船長は、俺たちを降ろすと足早に船を出した。「三日後の朝に迎えに来る」とだけ言って。振り返ると、船長の横顔が一瞬だけこちらを向いた気がした。表情は逆光で読めなかった。ただ、桟橋に長く留まることを避けるような、あの素早さだけが妙に引っかかった。エンジン音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺はスマートフォンを確認した。
圏外。
画面の左上に表示された二文字が、妙に重たかった。再起動しても同じだった。電波を掴もうとするアンテナのアイコンが、数秒おきに空振りを繰り返している。三日間。この島に、俺たちだけ。その事実が、急に輪郭を持って腹の底に落ちた。
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キャンプ地はビーチから少し入った林の手前の開けた場所で、朽ちかけたロッジが一棟あった。過去に管理キャンプ場として使われていた名残らしい。電気は通っていないが、雨風はしのげる。ただ、ロッジの壁板は何枚か外れかけていて、窓ガラスも半分ほど割れていた。中に入ると、埃と湿気の混じった古い木の匂いがした。床板を踏むたびにぎしりと軋む。人が最後にここを使ったのは、何年前だろう。テントは二つ。男四人がロッジ、女子三人がテント、余った一人——つまり俺が、もう一つのテントで一人で寝る。いつものことだ。
「蓮、火起こしよろしく」
大輝が言った。百八十センチ超えの体格に日焼けした肌。声がでかくて、判断が速くて、人の中心に自然と立つ男。嫌いじゃない。ただ、大輝の隣にいると自分の輪郭が薄くなる気がして、少しだけ息苦しい。誰かに必要とされるのは「蓮、これやっといて」の文脈だけで、それ以外の場面で名前を呼ばれることは少なかった。
「了解」
俺は炭に火をつけ、網を乗せ、食材を並べた。肉が焼ける音と、缶ビールを開けるプシュという音。笑い声。波の音。どこにでもあるバーベキューの風景だった。
「蓮くん、食べてる?」
美月が紙皿を差し出してきた。焼きとうもろこしが一本。俺がまだ何も食べていないことに気づいたのは、八人の中で彼女だけだった。
「ありがとう」
受け取って、かじった。甘い。粒が弾けて汁が口に広がる。けれど、その甘さが鼻の奥にある別の甘さと混ざって、一瞬、えづきそうになった。
潮の匂いじゃない。もっと重くて、湿っていて、喉の奥に貼りつくような——腐敗の甘さ。浜辺の魚の死骸から漂っているのか。風向きのせいか。焚き火の煙が顔にかかるたびに一瞬消えて、風が変わるとまた戻ってくる。
「なんか変な匂い、しない?」
俺が言うと、隣にいた翔太が鼻をひくつかせた。
「潮の匂いっしょ。無人島なんだから」
「いや、そうじゃなくて……もっと甘い感じの」
「バーベキューの匂いだろ」拓海が笑った。「蓮、お前さっきからビビりすぎ。幹事の仕事で疲れてんじゃね?」
周囲に笑いが起きた。悪意はない。ただ、俺の違和感が空気に溶ける瞬間だった。いつもこうだ。俺が何かを言っても、場の温度は変わらない。声は届いているのに、意味は届かない。笑いが収まった後、美月だけが小さく首を傾げて俺を見ていた。何か言いたげな唇が開きかけて、大輝の乾杯の声にかき消された。
それでも、匂いは消えなかった。
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バーベキューが終わり、焚き火だけが残った。時刻は十時を過ぎていた。芽衣たちはテントに引き上げ、大輝と翔太はロッジで酒の続きを始めた。拓海は少し前から姿が見えなかったが、「トイレだろ」と誰も気にしなかった。
俺は火の番をしていた。薪を一本くべると、炎が揺れて影が跳ねる。林の輪郭が赤く浮かんで、またすぐ闇に沈む。頭上を仰ぐと、東京では見たことのない数の星が散らばっていた。美しいはずだった。だが、その圧倒的な星空の下に広がる島の暗さが、美しさよりも先に孤立を突きつけてきた。
風が止まった瞬間、匂いが濃くなった。
甘い腐臭。さっきまでは焚き火の煙に紛れていたそれが、風がなくなった途端、はっきりと鼻腔を満たした。生ゴミを三日間放置した袋を開けたときのような、だがもっと生々しい甘さ。果物が発酵して崩れていく過程の、あの粘りつく匂いに似ていた。胃の底がじわりと持ち上がるのを感じて、俺は口元を手の甲で押さえた。
俺は立ち上がり、林の方を向いた。
焚き火の明かりが届くのはせいぜい十メートル先まで。その向こうは完全な闇だった。街灯のない闇がどれほど濃いか、東京に住んでいると忘れる。手を伸ばしても指先が見えなくなるような、厚みのある暗闇。視界を奪われると、代わりに聴覚が研ぎ澄まされていく。背中で焚き火が燃える音。遠くで繰り返す波の音。自分の鼓動。
虫の声がしていた。それ自体は普通だ。無人島の夜なのだから。
だが、虫の声の隙間に、別の音が混じった。
最初は聞き間違いだと思った。波の音か、風で木の枝が擦れる音か。けれど、耳を澄ますほどに、それは規則的に繰り返されていた。
——くちゃり。
湿った何かを噛み潰すような音。柔らかいものを歯で裂いて、咀嚼する音。人間が暗がりで食事をしているような——だが、こんな時間にこんな場所で、誰が何を食べている。
「拓海?」
声に出してみた。返事はない。虫の声だけが応えた。
咀嚼音は、止まっていた。
俺が声を出した瞬間に止まったのか、それとも元々聞き間違いだったのか。判断がつかない。数秒間、息を詰めて闇を見つめた。背筋を汗が一筋、ゆっくりと伝い落ちた。気温はまだ高いはずなのに、肌が粟立っていた。焚き火がぱちりと爆ぜて、俺は肩を跳ねさせた。
「……気のせいか」
呟いて、焚き火の前に座り直した。薪を一本足す。炎が勢いを取り戻し、周囲が少しだけ明るくなる。
その明るさの端、ちょうど光と闇の境目あたりの地面に、俺はあるものを見つけた。
砂の上に、何かが引きずられた跡。幅はおよそ三十センチ。キャンプ地から林の中へ、一直線に伸びている。人間の足跡ではない。何か重いものを——あるいは誰かを——引きずっていったような、平たく均された砂の筋。筋の両脇に、爪か指のようなものが砂を掻いた痕が点々と残っていた。
心臓が速くなった。こめかみの血管が脈打つのを感じる。立ち上がって跡を追おうとして、足が動かなかった。闇の奥を覗き込むことへの、原始的な恐怖が膝を縫い止めていた。
そのとき、林の奥から音が返ってきた。
くちゃ、くちゅり。
さっきと同じ音。だが今度は、はっきりと聞こえた。距離にして五十メートルもないだろう。何かが、何かを、噛んでいる。歯と歯の間で繊維を引き裂き、唾液の混じった音を立てながら、ゆっくりと咀嚼している。
俺は動けなかった。声も出なかった。ただ焚き火の前で座ったまま、拳を膝の上で握りしめ、闇の中の湿った音を聞いていた。炎の熱が顔の右半分だけを焼いて、左半分は夜気に冷やされている。その温度差が、自分の体の輪郭だけを異様にはっきりと意識させた。
やがて音は遠ざかり、虫の声だけが戻ってきた。
夜風が吹いて、腐臭がまた俺の鼻を撫でた。さっきより、近い。