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覚醒は孤島の腐臭と共に

第2話 第2話

第2話

第2話

眠れたのか、眠れなかったのか、自分でもよくわからない。

テントの中で横になったのは覚えている。寝袋に入って、目を閉じて、あの湿った咀嚼音が脳裏で再生されるたびに目を開けて——その繰り返しだった。薄いナイロン一枚の向こう側に何がいるのか、考えないようにすればするほど想像が膨らんだ。テントの生地が風で膨らむたび、何かが触れたのかと全身が硬直した。指先が冷たくなり、寝袋の中で自分の体温だけが頼りだった。耳を塞いでも、あの音は頭蓋の内側で鳴り続けた。骨を伝って届く振動のように、消せない。いつの間にか鳥の声が聞こえていて、テントの布地が白く透けていた。

朝だった。

ファスナーを開けると、湿った朝の空気が顔に当たった。潮の匂い。腐臭は——薄い。昨夜ほどではない。陽の光が林の樹冠を透かして地面にまだら模様を落としていて、焚き火の跡には白い灰が残っているだけだった。炭の欠片が朝露に濡れて黒光りしている。昨夜ここに座って笑い合っていたのが、ひどく遠い昔のことに感じられた。

昨夜の引きずり跡を確認しようと思って砂浜との境目に目をやったが、朝露で砂が湿って、跡は曖昧になっていた。完全に消えてはいない。だが、昨夜見た鮮明さはもうなかった。

「おはよー、蓮くん早いね」

美月がテントから顔を出した。寝癖のついた髪を手櫛で整えながら、眩しそうに目を細めている。

「昨日の夜、変な音しなかった?」

我ながら切り出し方が下手だと思った。美月は首を傾げた。

「音? 波の音くらいしか聞こえなかったけど」

その表情に嘘や隠し事の気配はなかった。本当に何も聞こえなかったのだ。テントの位置は俺の方が森寄りだったから、距離の差かもしれない。だが、あの音量で気づかないことがあり得るのか。

「森の方から、何かを噛むような——」

「虫じゃない? でっかい虫とか」

芽衣がテントの中から声を上げた。会話が聞こえていたらしい。「無人島だし、何がいてもおかしくないよ」

ロッジから大輝と翔太が出てきたのは、それから十分ほど後だった。拓海はまだ中で寝ているらしい。俺は朝食の準備をしながら、昨夜の一部始終を話した。腐臭のこと。咀嚼音のこと。引きずり跡のこと。

翔太がパンを齧りながら言った。「蓮って怖い話好きだっけ?」

「好きじゃない。だから言ってるんだけど」

「野生動物だろ」大輝が断定した。コーヒーを沸かしながら、こちらを見もしない。「猪とか鹿とか、この辺の島にはいるって船長も言ってた」

言ってない。船長は迎えの日時以外、ほとんど口を開かなかった。だが、訂正しても意味がないことを俺は知っていた。大輝が「こうだ」と言えば、それが場の事実になる。いつもそうだった。

「携帯、まだ圏外だ」

翔太がスマホを掲げて空に向けた。「昨日からずっと。誰か繋がった人いる?」

全員が画面を確認した。圏外。八台すべて。キャリアが違っても同じだった。

「三日間ネット断ちだと思えばいいじゃん」拓海がロッジから出てきて、欠伸をしながら言った。目の下に隈があった。「デジタルデトックスってやつ」

拓海の顔色が悪い、と思った。日焼けした肌が少しくすんで見える。唇の色もどこか青白い。昨夜トイレに行ったきりしばらく戻らなかったはずだが、本人は何事もなかったように振る舞っている。聞こうとして、やめた。聞いたところで「腹壊しただけ」と返されるのが見えていた。

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午前中、島の探索に出ることになった。大輝の提案だった。「せっかくの無人島なんだから、一周してみようぜ」。断る理由は誰にもなかった。芽衣と女子二人はビーチに残り、男五人で島の内陸部に向かった。

島は思ったより小さかった。外周はおそらく三キロもない。だが内陸に入ると、低木の密度が急に増して視界が狭くなった。頭上を覆う照葉樹の枝葉が陽光を遮り、地面は苔と落ち葉で湿っている。空気が変わった。潮の匂いが消え、代わりに土と腐葉土の匂いが鼻を満たす。その下に、微かに——あの甘さ。

俺は足元を見ながら歩いていた。獣道らしき細い筋が何本か走っている。鹿か猪か、あるいはもっと小さい動物の通り道。だが、その獣道とは明らかに異なる跡を見つけたのは、歩き始めて二十分ほど経った頃だった。

幅は昨夜見たものと同じくらい。三十センチほどの、何かを引きずった痕跡。落ち葉が左右に押し退けられ、露出した黒い土の上に、平たく擦れた筋がついている。筋は緩やかにカーブしながら、林の奥へと続いていた。獣道が細く不規則なのに対して、この跡は幅が均一で、重いものを一方向に引きずった力学が残っていた。

そして、跡の脇に——。

指の痕だった。五本の指が土を掻いた跡。間隔からして人間の手の大きさだった。爪が地面に食い込んだ部分は深く、指先に向かって浅くなっている。力を込めて、懸命に掴もうとした軌跡。掻いた方向は、引きずられた方向と逆。つまり、引きずられまいと抵抗した痕。

胃の底が冷たくなった。

「大輝」

俺は前を歩く大輝の背中に声をかけた。「これ、見てくれ」

大輝が振り返り、俺が指差す地面を一瞥した。

「倒木が転がった跡だろ。雨で流されてこうなる」

「指の痕がある。人間の手だ」

「根っこの痕だって。蓮、お前昨日の夜から気にしすぎだぞ」

大輝の声には苛立ちが滲んでいた。楽しいキャンプに水を差すな、という圧。翔太と拓海は少し離れた場所で木の実を投げ合って遊んでいて、こちらの会話は聞こえていないようだった。

「船長の態度も変だったし、魚の死骸も——」

「じゃあどうすんの」大輝が遮った。「船は三日後まで来ない。電波もない。蓮がいくら不安がっても、俺たちにできることは変わんねえだろ。楽しめよ」

正論だった。少なくとも、状況だけを見ればそうだった。大輝は正しいことを言っている。出口のない不安を口にしても場の空気が沈むだけで、何も解決しない。俺はそれを分かっていて、それでも——この跡が倒木だとは、どうしても思えなかった。

大輝はもう歩き出していた。俺は引きずり跡をもう一度見下ろし、スマホで写真を撮った。圏外でも、カメラは動く。証拠、という言葉が頭をよぎって、自分で自分に苦笑した。何の証拠だ。誰に見せるつもりだ。

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探索の帰り道、俺は隊列の最後尾を歩いていた。

前方では大輝と翔太が何か笑い合っている。拓海は大輝の少し後ろを無言で歩いていた。やはり顔色が優れない。朝よりもさらにくすんで見える。汗のかき方もおかしかった。気温は高いが、他の誰よりも大量の汗を流している。シャツの背中が濡れて肌に貼りついていた。

林を抜けかけたとき、俺は右手の茂みに視線を引かれて足を止めた。

人影が見えた。

木々の隙間、陽光のまだら模様の中に、人間の輪郭が一瞬だけ浮かんだ。立っている。こちらを——見ている。距離は三十メートルほど。逆光で顔は判別できない。だが体格と、着ているものの色に見覚えがあった。

拓海と同じ、赤いTシャツ。

心臓が喉元まで跳ね上がった。

俺は前方を見た。拓海は隊列の中にいる。大輝の三歩後ろを、背中を丸めて歩いている。

振り返った。

茂みの中には、もう誰もいなかった。木漏れ日が地面に揺れているだけだった。

立ち尽くす俺の背中を、温かい風が撫でた。風に乗って、あの甘い腐臭がまた鼻の奥に届いた。昼間なのに——昨夜より、はっきりと。舌の奥にまでまとわりつくような、重い甘さだった。

「蓮ー、何してんのー」

翔太の声が前方から飛んできた。俺は口を開きかけて、閉じた。言っても笑われるだけだ。見間違いだと言われるだけだ。

「——何でもない」

歩き出しながら、もう一度だけ振り返った。茂みは静かだった。だが、俺が見たものは光の悪戯なんかじゃなかった。あれは人の形をしていた。立っていた。こちらを見ていた。

そして——拓海は今、俺の十メートル前を歩いている。

では、あそこに立っていたのは、誰だ。

前を歩く拓海の背中を見つめた。赤いTシャツ。汗で濡れた背中。その肩が、不意にぴくりと震えた。まるで、視線を感じたかのように。だが振り返りはしなかった。拓海はただ黙って、重い足取りで歩き続けていた。

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