第3話
第3話
二日目の夜は、初日よりも暗かった。
雲が出ていた。昨夜あれほど圧倒的だった星空が厚い雲の層に覆われて、焚き火の光だけが世界の全てだった。炎の輪の外側は墨を流したような闇で、三メートル先の地面すら判別できない。風は弱く、湿度だけが高かった。肌に貼りつく夜気の中に、あの甘い腐臭がまた混じっている。昨日より薄いのか、それとも俺の鼻が慣れてしまったのか——どちらにせよ、それが消えていないという事実だけが確かだった。
焚き火を囲んでいるのは七人。昼間の探索の後、午後は各自が思い思いに過ごした。海で泳ぐ者、ロッジで昼寝する者。俺は一人でキャンプ地の周囲を歩き、引きずり跡の続きを探したが、林に入ると落ち葉が厚くなって痕跡を追えなくなった。地面に膝をついて葉を掻き分けてみたが、湿った腐葉土の匂いが鼻腔を刺すばかりで、手がかりは何も見つからなかった。拓海はロッジの隅で一日中横になっていた。夕食のバーベキューにも顔を出したが、肉を一切れ口にしただけで箸を置いた。「腹の調子悪い」と言って。その顔色は朝よりもさらに悪く、唇の色が紫がかって見えた。額にうっすらと汗が浮いているのに、腕には鳥肌が立っていた。
「水、汲んでくる」
拓海が立ち上がったのは、九時を少し回った頃だった。島の南側、キャンプ地から歩いて五分ほどの場所に小さな湧き水がある。昨日の探索で見つけたポイントだった。拓海は空のポリタンクを片手に、懐中電灯を持って闇の中に歩いていった。懐中電灯の白い光が木の幹を舐めるように揺れながら遠ざかり、やがて林の奥に吸い込まれて消えた。
俺は拓海の背中が見えなくなった瞬間から、時間を数えていた。
十分。焚き火の薪が一本燃え尽きた。誰も拓海の不在に触れない。
二十分。大輝が缶ビールを開ける音がした。翔太が芽衣に絡んで笑いを取っている。美月がマシュマロを串に刺して火に翳している。日常の延長。この島に来てから二日目の夜が、ただの夏キャンプの一夜として消費されていく。
三十分。
「拓海、遅くないか」
俺が言うと、大輝がビール缶を傾けたまま首を横に振った。
「水汲みに三十分くらいかかるだろ。暗いし」
「五分の距離だぞ。往復でも十分あれば——」
「酔っ払って途中で寝てんじゃねえの」翔太が笑った。「あいつ昼間からずっとぐったりしてたし」
「だから余計に心配なんだけど」
言い返した自分の声が、思ったより鋭かった。焚き火の周りの空気が一瞬だけ固まった。全員の視線が俺に集まり、それから散った。大輝が鼻で息を吐いた。
「蓮。また昨日の夜みたいな話か?」
違う、と言いかけて、言葉が詰まった。違わないからだ。昨夜の咀嚼音、引きずり跡、昼間の森で見た人影。全部が繋がっているように思えて、でもそれを口にすれば「考えすぎ」の一言で片づけられる。大輝の目は焚き火の光を反射して橙色に光っていたが、その奥にあるのは苛立ちだった。怖がっている俺への苛立ちではなく、怖がらなければならないかもしれないという可能性そのものへの苛立ち。
「——俺、探しに行く」
立ち上がった。膝が少し震えていた。闇の中に一人で踏み出す恐怖は、昨夜焚き火の前で凍りついたときと同じ種類のものだった。だが拓海の青白い顔と、森で見た赤いTシャツの人影が、恐怖より先に足を動かした。
「俺も行くよ」
美月が立ち上がった。予想していなかった。「蓮くん一人じゃ危ないし」
「じゃあ俺も」翔太が面倒くさそうに腰を上げた。大輝に目配せしてから。「三人いりゃ十分だろ。大輝はここで女子見ててくれ」
大輝は何も言わなかった。ただビール缶を握ったまま、焚き火の炎を見つめていた。
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懐中電灯は二本。俺と翔太が一本ずつ持ち、美月が俺の少し後ろを歩いた。
光の輪が照らす範囲は狭い。直径二メートルほどの白い円が地面を這い、その外側は完全な暗黒だった。足元の落ち葉を踏むたびに乾いた音が響いて、それが自分たちの存在を周囲に告げている気がして、無性に不安になった。
「拓海ー!」
翔太が叫んだ。声が木々に吸い込まれて、反響もなく消えた。返事はない。虫の声すら、この辺りでは薄かった。
湧き水のポイントに着いたのは、キャンプ地を出て七分後だった。岩の隙間から染み出す細い水流が、苔むした窪みに小さな水溜まりを作っている。
ポリタンクがあった。横倒しになって、水は入っていない。蓋が外れて二メートルほど先に転がっていた。まるで急に手を放したように。
「拓海、ふざけんなよー。どこにいんだよー」
翔太が懐中電灯を振り回しながら周囲を照らした。木の幹、下草、岩。動くものは何もない。
俺は地面を照らしていた。湧き水の周りの泥に足跡がある。スニーカーの底のパターン——拓海のものだろう。足跡はポイントまで来て、そこから不規則に乱れている。歩幅が急に広がり、方向が定まらなくなっている。走ったか、あるいは何かから逃げたか。そのどちらであっても、ここで何か異常なことが起きたという事実は動かない。
足跡を追って懐中電灯を動かした先に、光が何かを捉えた。
スマートフォンだった。画面を下にして泥の上に落ちている。拾い上げると、背面のケースに見覚えがあった。拓海のものだ。画面は割れていなかったが、泥が付着して汚れている。電源は入っていた。ロック画面に時刻が表示されている。
そしてケースの縁に——暗い赤色が、べったりと付着していた。
「蓮くん、それ……」
美月の声が震えていた。俺はスマホを裏返し、光を当てた。赤黒い液体がケースの角から側面に流れた痕跡。泥の上にも、同じ色の染みが点々と散っている。雨ではない。今日は降っていない。
血だった。
「翔太」
声を抑えた。震えを隠せなかった。「これ、血だ」
翔太が駆け寄ってきて、スマホを覗き込んだ。数秒、無言だった。翔太の喉仏が上下に動いた。懐中電灯を持つ手が小刻みに揺れて、光の円が地面の上で痙攣するように震えていた。
「……怪我したのか? 転んで」
「転んだだけでスマホを放り出すか?」
「じゃあ何だよ」翔太の声が裏返った。「何だって言うんだよ、蓮」
俺にも分からなかった。分からなかったが、ここに留まっていてはいけないという直感だけが、腹の底で警鐘を鳴らしていた。血痕は点々と林の奥に続いている。拓海が自分で歩いて行ったのか、それとも——。
そのとき、音が聞こえた。
茂みの奥。懐中電灯の光が届かない暗がりの、さらに向こう側から。
「——こっち」
拓海の声だった。
三人とも息を止めた。美月が俺の腕を掴んだ。その指先が氷のように冷たかった。
「拓海?」翔太が一歩踏み出そうとした。俺は咄嗟に翔太の肩を掴んで止めた。
「待て」
「何でだよ、拓海じゃんか——」
「黙って聞け」
声が、おかしかった。
音程は拓海だった。声質も、低くて少しかすれた感じも、間違いなく拓海のものだった。だが、抑揚が——壊れている。人間が言葉を発するとき、無意識に起伏がつく。「こっち」なら、最初の「こ」がやや高くなるのが自然だ。だが今の声は平坦だった。一音一音を等間隔に並べただけの、感情のない配列。テープレコーダーを遅く再生したような、言葉の形だけを模した音。
もう一度、聞こえた。
「こっち」
同じ音程。同じ間隔。同じ平坦さ。寸分違わず、まったく同じ「こっち」が、暗闇の奥から繰り返された。人間は同じ言葉を二度続けて、一字一句同じ抑揚では言えない。感情があるから。呼吸があるから。揺らぎがあるから。
あれは、言葉を使っているだけで、喋ってはいない。
「……戻るぞ」
俺の声は掠れていた。美月が小さく頷いた。翔太は茂みの方を凝視したまま動かなかった。
「翔太」
「だって、拓海が——」
三度目の声が来た。
「こっち」
今度は、近かった。五メートルと離れていない茂みの裏側。枝葉が微かに揺れた。何かがこちらに向かって動いている。ゆっくりと。一定の速度で。
俺は翔太の腕を引いた。美月の手を取った。そして走った。懐中電灯の光が激しく揺れて、地面と木の幹と闇が交互に点滅する。背後で枝を踏む音がした。一つ。二つ。不規則な間隔で、だが確実に、何かが後を追ってきている。
振り返らなかった。振り返れなかった。ただ光の揺れる先だけを見て、枝に頬を引っ掻かれながら走った。美月の息が切れて、翔太が足をもつれさせて、それでも三人とも止まらなかった。
焚き火の光が見えたとき、俺の手の中には、まだ拓海の血のついたスマートフォンが握られていた。