Novelis
← 目次

鉄環の檻、七十二時間

第3話 第3話

第3話

第3話

五本目。

 煙草の男がパッケージから新しい一本を抜いた。蓮は壁に背をつけたまま、半ば意識を失ったように見せかけて呼吸を浅くしている。脇腹の痛みは鈍く脈打っていたが、もう感覚の外に追いやっていた。痛みは情報にすぎない。今必要なのは、二人の動きを精密に刻むことだけだ。

 一本目から四本目までで確認した。煙草の男がライターを擦る瞬間、炎に視線が吸われる。〇・八秒。同じタイミングで壁の男が腕時計に目を落とす。〇・五秒。二つの空白が重なる時間は約〇・四秒。短い。だが手錠の鎖を断つだけなら、足りる。

 問題はその後だ。

 ワイヤーで鎖を切る音は小さいが、無音ではない。格子の蝶番のピンを抜く時間を稼ぐには、最低でも三秒の空白がいる。五本目のタイミングでは足りない。必要なのは——交代だ。

 蓮は闇の中で待った。コンクリートの壁の冷気が背中から体温を奪い続ける。肋骨のひびが呼吸のたびに軋む。それでも意識は研ぎ澄まされていた。地下倉庫の空気の流れ。蛍光灯の微かな電気音。見張りの衣擦れ。すべてが情報として蓮の脳に流れ込んでくる。

 足音が聞こえた。階段を降りてくる。二人分。軍靴の重い足音。

「交代だ」

 短い言葉。セルビア語。煙草の男が椅子から立ち上がり、伸びをする。壁の男が肩を回す。四人が通路で入れ替わる——その瞬間、全員の意識が互いに向き、蓮から外れた。

 今だ。

 蓮の左手の指が袖口の裏地に潜り込んだ。縫い目を爪で裂く。タングステンワイヤーが指先に触れる。細く、冷たく、硬い。ワイヤーを引き出しながら手錠の鎖に巻きつける。両手首を外側に捻り、ワイヤーを鎖の一環に食い込ませた。左右に引く。金属が金属を削る微かな振動が掌に伝わる。

 通路では交代の四人がまだ言葉を交わしている。「異常なし」「朝までか」「楽な仕事だ」——誰も独房の方を見ていない。

 鎖が切れた。金属片が手首から落ちる音は、蓮の膝の上に着地させて消した。手錠の輪は両手首に残っているが、鎖はない。両手が自由になった。

 蓮は動かない。交代組が階段を昇り、新しい見張り二人が配置につくのを待つ。足音が遠ざかる。鉄扉の開閉音。

 新しい見張りを観察する。一人が椅子に座り、もう一人が壁際に立った。先ほどの二人より若い。動きに緩みがある。椅子の男は座った途端にスマートフォンを取り出した。画面の青白い光が顔を照らす。壁の男は自動小銃を肩に提げたまま、あくびを噛み殺している。

 緩い。明らかに緩い。

 蓮は右手でコンクリートの壁を探った。ドラガンのスタンロッドで殴られた際に床に倒れた位置——あの瞬間、蓮の視界は格子の蝶番を捉えていた。上と下の蝶番のピンは錆びて浮いている。力をかければ抜ける。

 蓮はゆっくりと立ち上がった。脇腹に痛みが走る。無視する。鉄格子に近づき、両手を格子にかけた。手錠の輪が格子に当たる音が出ないよう、指の腹だけで触れる。

 上の蝶番に手を伸ばす。ピンの頭を親指と人差し指で挟み、上方向に押した。錆が抵抗する。力を込める。肋骨が悲鳴を上げる。歯を食いしばり、両手の力を一点に集中させた。

 ピンが動いた。錆が崩れる微かな音。蓮は音を殺すためにゆっくりとピンを引き抜いた。

 椅子の男がスマートフォンの画面をスクロールしている。壁の男は目を閉じかけている。どちらも蓮を見ていない。

 下の蝶番。同じ要領でピンに手をかける。こちらは錆がさらに深い。指に力を込めると、爪の下に錆の粒子が入り込む痛みが走る。構わない。体重をかけ、捻る。

 抜けた。

 蓮は鉄格子を蝶番側からゆっくりと手前に引いた。南京錠は反対側にかかっている。蝶番のピンがなければ、格子は錠前を軸に内側へ開く。金属の軋みを最小限に抑えるため、一ミリずつ。肋骨の痛みが視界を明滅させるが、手の動きは止めない。

 格子が人一人分だけ開いた。蓮は体を横にして隙間を抜けた。通路に出る。裸足のコンクリート。冷たい。靴は上で回収されている。

 椅子の男との距離、約四メートル。壁の男は通路の奥、約六メートル。

 蓮は通路の壁に沿って影の中を進んだ。呼吸を止める。足音を殺す。裸足のコンクリートは靴底より遥かに静かだが、それでも湿った床に肌が触れる微かな音がする。

 三メートル。二メートル。

 椅子の男がスマートフォンから顔を上げた。蓮の影が蛍光灯の光を遮ったからだ。男の目が見開かれる。口が開きかける——

 蓮の右手が男の喉を押さえた。声帯を圧迫し、叫びを封じる。左手で男の銃のストラップを掴み、首に巻きつける。三秒で意識を失わせる頸動脈の絞め。男の体が痙攣し、弛緩した。椅子から崩れ落ちる体を音を立てずに床に降ろす。

 壁の男が目を開けた。仲間が消えた椅子を見て、一瞬の空白。その一瞬で蓮は距離を詰めていた。男が銃を構えようとする。遅い。蓮の手がバレルを掴み、下に押し下げた。同時に額を男の鼻梁にぶつける。軟骨が潰れる鈍い音。男がよろめく。蓮は銃を奪い取り、ストックで男のこめかみを打った。崩れ落ちる。

 二人とも沈黙。所要時間、約八秒。

 蓮は奪った自動小銃を確認した。AK-74M。装弾数三十発。弾倉の重さからしてフルロード。安全装置を解除し、セミオートに切り替える。通路の左側——外気の流れを感じた方向に向かって走り出した。

 裸足の足がコンクリートを蹴る。脇腹の痛みが走るたびに視界が揺れるが、足は止めない。通路は十メートルほどで突き当たり、右に折れた。その先に鉄製の梯子。上に向かっている。天井に四角い開口部。換気口だ。外の夜気が流れ込んでくる。潮と重油の匂い。港湾の空気だ。

 梯子を登る。片手に銃、片手で鉄の横棒を掴む。肋骨が軋むたびに腕から力が抜けそうになる。それでも登る。上に出れば——

 蓋を押し上げた。夜空。星はない。低い雲が港湾の照明を反射してオレンジ色に光っている。蓮は地上に這い出た。敷地内の裏手。倉庫と倉庫の間の狭い通路。アスファルトの地面が裸足に冷たい。左右を確認。人影なし。

 フェンスが見える。有刺鉄線付き。高さ約三メートル。その向こうが一般道路。蓮はフェンスに向かって走った。

 背後で声が上がった。セルビア語の怒声。見張りの交代時刻が来たのか、蓮の脱出が発覚した。

 銃声。

 乾いた破裂音が夜の港湾に響いた。フェンスの手前で蓮は体を低くした。二発目。三発目。弾がフェンスの金属を弾く甲高い音。蓮は銃を構え、振り返らずに走りながら背後に向けて三発撃った。牽制射撃。敵が頭を下げる時間を稼ぐ。

 フェンスに飛びついた。有刺鉄線が掌に食い込む。革ジャケットの袖で刺を押さえ、体を持ち上げる。肋骨が叫ぶ。無視する。片足をフェンスの上部にかけ——

 衝撃が左脇腹を貫いた。

 熱い。焼けるような痛みが左の腰骨の上を走り抜けた。被弾。蓮の体がフェンスの上で一瞬止まる。だが手は離さなかった。歯を食いしばり、残った力で体をフェンスの向こう側に投げ出す。落下。アスファルトに肩から叩きつけられた。

 左脇腹に手を当てる。温かい液体が指の間から溢れた。血だ。弾は貫通していない。体内に残っている。だが今は止血より移動が先だ。

 蓮は立ち上がった。左脇腹を右手で押さえ、銃を左手に持ち替える。路地裏に向かって走る。裸足の足が石畳を叩く。血が点々と地面に落ちるのがわかる。追跡の痕跡。だが今はそれを消す余裕がない。

 背後の倉庫敷地から怒声と足音が追いかけてくる。サイレン。どこかで鳴り始めた。街が動き出す。

 蓮は路地を曲がり、また曲がり、三年間で焼きつけた裏道の地図を辿った。左脇腹からの出血が止まらない。シャツが血を吸って重くなっていく。視界の端が暗くなり始める。出血量が危険域に近づいている。

 路地の壁に背をつけ、一瞬だけ足を止めた。呼吸を整える。冷たい夜気を肺に入れる。吐く息が震えている。

 壁に貼り紙が見えた。蛍光灯の下、蓮の顔写真がA4サイズで印刷されている。セルビア語のキリル文字が写真の下に並ぶ。「この男を見つけたら連絡せよ」。糊がまだ湿っている。貼られたばかりだ。

 街全体が、蓮を狩る罠になった。

 左脇腹を押さえる手が、血で滑る。蓮は路地の奥へ向かって歩き始めた。走る力はもう残っていない。三年分の地図を頼りに、一歩ずつ闇の中を進む。どこかで手当てをしなければ、朝を迎える前に失血で倒れる。

 背後の通りをヘッドライトが照らした。車が徐行している。捜索が始まった。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!