第2話
第2話
暗闇の中で時間を数える。
蓮は壁に背をつけたまま、呼吸の回数で経過時間を測っていた。一分間に十六回。これまでに約二百四十回。およそ十五分。地下倉庫の空気は湿り気を帯びて重く、吸い込むたびに土と錆びた鉄の匂いが鼻腔の奥にこびりついた。コンクリートの壁からは地中の冷気が染み出している。背中に当たる壁の表面はざらつき、薄いシャツ越しでも肌を削るような粒子の感触が伝わってきた。鉄格子の向こう、通路の奥に見張りの男が二人。椅子に座った一人が煙草を吸い、もう一人が壁に寄りかかって腕を組んでいる。煙草の煙が蛍光灯の光の中を青白く漂い、格子の隙間を通って蓮のいる独房にまで届く。安い煙草だ。ベオグラードの露店で売っている無印のもの。匂いで銘柄がわかるほど、この三年で蓮の嗅覚はこの街に馴染んでいた。どちらも自動小銃を肩から提げていた。
手錠の金属が手首に食い込む。皮膚が擦れて熱を持ち、脈拍のたびにじくじくと痛む。だが痛みよりも先に、蓮の意識はタングステンワイヤーに向いていた。左袖口の裏地。指先で触れれば縫い目の膨らみがわかる。直径〇・三ミリ。手錠の鎖を断つには十分な強度。三年間、この瞬間のために残しておいた切り札。
だが、まだ使わない。
使うタイミングを誤れば、次はない。見張りの交代パターン、鉄格子の錠前の構造、通路の先にある出口の配置——すべてを把握してからだ。焦りは最も確実な死因になる。三年間の潜入で学んだことがあるとすれば、それだった。
階段を降りてくる足音。複数。重い軍靴の音に混じって、革靴の硬い響きが一つ。軍靴はコンクリートの段差に鈍く反響し、革靴だけが乾いた鋭い音を刻む。蓮はその足音だけで誰が来たかわかった。
グレゴール。
鉄格子の前に大きな影が立った。蛍光灯の逆光で顔は見えないが、葉巻の先端が赤く灯っている。キューバ産のコイーバ。グレゴールはそれしか吸わない。甘い煙が地下の湿った空気に混ざり、独特の重さで沈んでくる。その横にドラガン。剃り上げた頭に蛍光灯の光が反射して白く光っている。さらに後ろに武装した男が三人。
「立て」
蓮は従った。立ち上がると同時に、視界を走査する。ドラガンの腰にホルスター。拳銃のグリップが見える角度。ベレッタM9。安全装置は——親指の位置からして解除済み。後ろの三人は自動小銃を構えたまま。鉄格子と蓮の距離は約二メートル。
グレゴールが葉巻を咥えたまま、紫煙を吐いた。煙が鉄格子の格子の間をすり抜け、蓮の顔にかかる。目を細めたくなる衝動を押し殺す。
「三年だ、カシム——いや、霧島。三年間、俺の隣で飯を食い、酒を飲み、仕事をした。お前は優秀だった。本当に」
声に怒りはない。それが逆に危険だった。感情で動く人間は予測しやすい。冷静な人間は、計算した上で最も効果的な暴力を選ぶ。グレゴールの声は低く、穏やかですらあった。まるで旧友との別れを惜しむような——だがその目は蛍光灯の逆光の奥で、何も映していない。
「お前のパスポート、通信機器、この街での身分証。すべて回収した」
グレゴールがドラガンに顎をしゃくると、ドラガンがビニール袋を掲げた。中に蓮の偽造パスポート、暗号端末、組織内の身分証が見える。パスポートの表紙に印刷されたセルビアの紋章が、ビニール越しに歪んで見えた。三年間「カシム・ペトロヴィッチ」として生きた証拠が、透明な袋の中でただの物体に戻っている。
「港は止めた。空港も、バスターミナルも。警察署長のコヴァチェヴィッチは俺の友人だ。国境検問にもお前の顔写真を送った」
街全体が檻になった。蓮は表情を動かさず、その情報を頭に格納した。正規ルートはすべて封鎖。だが蓮の頭の中には、三年かけて焼きつけたもう一つの地図がある。密輸ルート。組織自身が使っている非正規の経路。ドナウ川沿いの廃工場から出る小型ボート。旧ユーゴ時代の軍用トンネル。その知識だけは、回収できない。
「見せしめの話をしよう」グレゴールが一歩近づいた。鉄格子越しに葉巻の熱が届く距離。葉巻の先端の灰が微かに崩れ、コンクリートの床に落ちた。「お前を殺すのは簡単だ。だが、殺すだけでは意味がない」
「裏切り者がどうなるか、組織全体に見せたいということか」
「理解が早い。さすが三年も幹部を演じた男だ」
グレゴールが指を鳴らした。乾いた音が地下に反響する。壁と天井の間で跳ね返り、二度三度と繰り返してから消えた。後ろの男の一人が鉄格子の錠を開けた。錆びた蝶番が軋み、格子が内側に開く。ドラガンが中に入ってくる。その手には——蓮は視線を固定した。鉄パイプではない。電気ショック用のスタンロッド。先端が青白く放電している。空気中にオゾンの焦げた匂いが広がった。
「明日の夜、港湾の広場で公開処刑する。それまでにお前の体を、歩けるぎりぎりの状態にしておく必要がある。歩けなければ見せしめにならないからな」
ドラガンが無言でスタンロッドを振り上げた。蓮は避けなかった。避ける余地がない——ではなく、避けないことを選んだ。今ここで抵抗すれば、見張りの体制が強化される。殴られている間に、この地下の構造を把握する方が生存確率は高い。歯を食いしばり、全身の筋肉から力を抜く。力んだ体は衝撃を増幅する。
衝撃が脇腹を貫いた。電流が筋肉を痙攣させ、視界が白く弾ける。声にならない呻きが喉の奥で潰れる。膝が折れる。コンクリートの床に倒れた衝撃で、頬に冷たい湿り気を感じた。床の表面に薄く張った水気が、焼けるような脇腹の痛みと対照的に冷たく肌を冷やした。
二撃目。背中。脊椎に沿って電流が走り、全身の筋肉が一瞬硬直する。呼吸が止まる。肺の中の空気がすべて押し出され、吸うことも吐くこともできない数秒間。だが蓮は倒れた体勢のまま、目だけを動かしていた。鉄格子の蝶番。三箇所。上と下は錆が深い。錠前の型式。マスターロックの南京錠。ピッキングは不可能だが、蝶番のピンを抜けば格子ごと外せる。通路の先に見える分岐。左に曲がる通路と、正面の階段。左の通路の先に微かに外気の流れを感じる。換気口か、あるいは——
三撃目が来る前に、グレゴールが手を挙げた。
「十分だ。顔は避けろと言ったはずだ、ドラガン」
「避けました」ドラガンの声は平坦だった。感情の起伏がまるでない。命令を実行する機械のような声。「肋骨に二発、背中に一発」
蓮は床に伏せたまま呼吸を整える。脇腹の痛みが鈍く広がり、肋骨が軋む。折れてはいない。ひびが入った可能性はある。呼吸のたびに右の肋骨の下あたりが鋭く抗議する。だがあと数発受ければわからない。
「明日の夜まで、ゆっくり考えろ」グレゴールが鉄格子の外に出た。「お前が日本に送った情報がどれだけあるか、洗いざらい吐いてもらう。その後で、広場に連れ出す」
足音が遠ざかる。階段を昇る音。革靴の音が最後まで残り、軍靴の重い足音を従えるように上へ消えていく。鉄の扉が閉まる重い反響。地下全体が一瞬びりびりと震え、天井の蛍光灯が細かく明滅した。
静寂が戻った。
蓮は床に伏せたまま、動かなかった。見張りの二人が椅子に戻る気配を耳で追う。煙草に火をつける音。ライターの蓋が閉じるカチンという金属音。壁に寄りかかるもう一人の、体重を移す衣擦れ。二人の間に交わされる短い言葉。セルビア語の方言。「面倒な仕事だ」「朝までだろ」——彼らにとって蓮は、朝まで見張ればいい荷物にすぎない。
タイムリミットができた。明日の夜。つまり約二十四時間。それが蓮に残された時間だ。
痛みを奥歯で噛み殺しながら、蓮はゆっくりと体を起こした。脇腹に走る痛みが呼吸のリズムを乱す。それでも顔には出さない。壁に背をつけ、手錠のかかった両手を膝の上に置く。見張りの方を見ない。見ていないふりをしながら、視界の端で二人の動きを捉え続ける。
煙草を吸っている男は右利き。銃を右肩に提げ、煙草は左手で持つ。吸い終わるまでの間隔はおよそ五分。灰を落とす仕草のたびに視線が手元に落ちる。壁に寄りかかっている男は左利き。銃を左肩に提げている。ときおり首を左右に傾け、頸椎を鳴らす癖がある。二人が同時に意識を外す瞬間があるとすれば——煙草の男が新しい一本に火をつけるとき。ライターを見る一瞬。そのとき壁の男が腕時計を確認する癖があるかどうか。
観察を続ける。蓮にはそれしかできない。そして、それだけで十分だった。
鉄格子の隙間から差し込む蛍光灯の光が、蓮の手首の手錠を白く照らしている。その手錠の下、皮膚に食い込む金属の冷たさの向こうに、タングステンワイヤーの存在を指先が感じている。細く、硬く、確かな感触。三年分の忍耐が、〇・三ミリの線径に凝縮されている。
二十四時間。
公開処刑まであと二十四時間。だが蓮に必要なのは、見張り二人の隙を突くための、たった一瞬だけだ。床に落ちた蓮自身の影が、鉄格子の縞模様に切り刻まれている。檻の中にいるのは蓮だ。だが檻の構造を知っているのも、蓮だ。
煙草の男が二本目に火をつけた。ライターの炎が暗い通路を一瞬だけ橙色に染める。蓮はその光の中で、壁の男が腕時計を見る仕草を捉えた。
パターンは掴めた。次の交代まで、あと何本の煙草が必要か。蓮は数え始めた。