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鉄環の檻、七十二時間

第1話 第1話

第1話

第1話

煙草の煙が、銃口の形をした灰皿に吸い込まれていく。

 港湾倉庫の二階。鉄製のテーブルを挟んで六人の男が座っている。天井の裸電球が黄色い光を落とし、男たちの顔に深い影を刻んでいる。壁際に積まれた木箱からは防錆油の鋭い匂いが漂い、その下に港湾特有の潮と鉄錆の臭気が混じっていた。霧島蓮——この三年間、この街では「レン・キリシマ」ではなく「カシム」と呼ばれてきた——は、テーブルの右端でグラスを傾けた。ウォッカ。氷なし。組織の流儀に合わせて三年、舌が慣れた。最初の一杯は喉が焼けるように感じたが、今では水のように流れ落ちる。それが怖かった。慣れるということは、境界が溶けるということだ。

 向かいに座る取引相手はセルビア人のブローカー、ミロシュ。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、灰色の眼が常に値踏みするように動いている。その隣に護衛が二人。どちらも肩幅が広く、椅子に座っていても腰の銃が見える位置にある。こちら側にはボスのグレゴール、蓮、そして若い幹部のドラガン。

 ミロシュが書類をテーブルに滑らせる。紙がテーブルの鉄板の上を擦る乾いた音が、静まり返った倉庫に響いた。

「対戦車ミサイル四十基。単価は先月の提示通りだ」

 蓮はグラスを置き、書類に目を落とした。数字を追う——ふりをしながら、ミロシュの右手を見る。人差し指の第二関節が微かに白い。紙を握りすぎている。爪の先にも血の気がない。自信のある商談で、人間の指先はこうはならない。

 三年間、この観察眼で生き延びてきた。声のトーン、視線の動き、指先の力加減。嘘は体に出る。どんなに言葉を取り繕っても、末端の筋肉は本人の意思から半拍遅れる。その半拍を、蓮は決して見逃さない。

「グレゴール」蓮は低く言った。「単価が先月と同じというのは嘘だ。ミロシュ、ルート変更があっただろう。トルコ経由からギリシャ経由に切り替えた。輸送コストが上がっている。その分を単価に乗せずに提示したということは、品質を落としたか、数を減らすつもりか——どちらだ」

 沈黙が落ちた。天井の裸電球が微かに唸る音だけが残る。ミロシュの護衛の手が腰に伸びかける。蓮は視界の端でその動きを捉えていたが、視線はミロシュの瞳から外さなかった。

 グレゴールが笑った。低く、腹の底から。テーブルの上のウォッカの水面が、その笑い声で微かに揺れた。

「カシム。お前の目は相変わらずだな」

 ミロシュの額に汗が浮かぶ。蛍光灯の光を受けて、こめかみを一筋の汗が流れ落ちるのが見えた。蓮は表情を変えない。三年かけて作り上げた仮面。もう皮膚の一部になっている。怒りも動揺も同情も、すべてこの仮面の下に沈めてきた。

「——四十基のうち八基は旧型に差し替える予定だった」ミロシュが認めた。声が僅かに掠れている。「だが、そちらにバレるとは思わなかった」

「差し替えなしの正規品。単価は一割五分増し。それが落とし所だ」

 蓮がそう言い切ると、グレゴールが頷いた。交渉成立。ミロシュが渋い顔で署名する。ペンの先が紙を引っ掻く音が、敗北宣言のように響いた。

 握手。蓮はミロシュの掌の湿り気を感じながら、心の中で秒読みを始めていた。

 今夜で終わる。

 三年間。千九十五日。この街の湿った空気を吸い、組織の人間として笑い、殺し、金を動かしてきた。偽りの人生は今夜、相棒の神代彰との連携で幕を閉じる。取引の証拠データは既に神代が吸い出しているはずだ。あとは本部に転送するだけ。

 一階に降りる階段で、グレゴールが蓮の肩を叩いた。大きな掌。その重さと温度を、蓮の体は覚えている。三年前、初めてこの組織に受け入れられた夜も、グレゴールは同じ手で蓮の肩を叩いた。

「カシム。今夜は祝いだ。お前のおかげで組織は五千万ユーロ得をした」

「仕事ですよ」

「冷たい男だ。だからお前を信用している」

 信用。その言葉が胸の奥を軋ませる。三年かけて築いた信頼を、今夜すべて裏切る。蓮は階段を降りながら、ヴラーツェの夜景を窓越しに見た。港のクレーンが骨格標本のように並んでいる。潮と重油の混じった匂い。この街を出たい。偽物ではない空気を吸いたい。その渇望が、ここ数ヶ月で抑えきれないほど膨らんでいた。東京の空気を思い出そうとしても、もう匂いが浮かばない。それが何より蓮を苛んでいた。

 倉庫の外に出ると、夜風が頬を叩いた。四月だが、東欧の港湾は冷える。吐く息は白くならないが、革ジャケットの下の肌が粟立つ程度には冷気が刺す。蓮は革ジャケットの内ポケットに手を入れ、暗号通信端末に触れた。指先に端末の角が当たる。それだけで心拍が僅かに跳ねる。まだ自分の中に「こちら側」の人間がいると確認できる、数少ない瞬間だった。神代からの定時連絡は二十二時。あと四十分。

 車に乗り込む。運転席にはグレゴールの運転手。後部座席にグレゴールと蓮。ドラガンは別の車だ。

「倉庫Cに寄る」とグレゴール。

 蓮は頷いた。倉庫Cは組織の管理拠点の一つ。取引後の事務処理だろう。予定通り。神代との合流地点から遠ざかるが、問題はない。

 車が石畳の道を走る。タイヤが石と石の隙間を踏むたびに車体が小さく揺れ、窓ガラスが微かに震える。窓の外を旧市街の建物が流れていく。オスマン時代の石壁と、ソ連時代のコンクリートが混在する街並み。蓮はこの三年で、すべての路地を歩いた。どの建物に何階建ての階段があるか。どの屋上が隣の屋上に繋がっているか。スパイの習性というより、生存本能だった。いつか逃げる日のために、地図を頭に焼きつけてきた。

 倉庫Cに到着。グレゴールが先に降り、蓮が続く。降りた瞬間、空気の質が変わったことに気づいた。港湾の風ではなく、閉じた空間特有の澱んだ空気。そして微かに——鉄と汗の匂い。蓮の背筋に冷たいものが走った。鉄の扉を開けると、コンクリートの広い空間。天井の蛍光灯が白く光っている。

 中には——蓮は足を止めた。

 十人。武装した男たちが半円を描いて並んでいる。全員の銃口が、蓮に向いていた。自動小銃の黒い穴が十個、蓮の胸郭を狙っている。一人でも引き金を引けば、コンクリートの壁に血が飛ぶ。

 背後で鉄の扉が閉まる音。重い。反響が倉庫の天井に昇り、ゆっくりと消えていく。

「グレゴール」蓮は振り返らなかった。声だけを投げる。「何の冗談だ」

「冗談ではない、カシム」グレゴールの声が背後から響いた。もう「カシム」という呼び方に、いつもの親しみがない。鉄のように硬く、冷たい。「——いや。カシムではなかったな」

 壁面のモニターが点灯した。

 映像。見覚えのある顔が映っている。神代彰。相棒。三年間、ともに命を賭けてきた男。その神代が、カメラの前で話している。顔に殴打の痕はない。服も乱れていない。脅されて喋らされているようには見えなかった。それが、蓮の胸を最も深くえぐった。

「——本名は霧島蓮。日本の公安外事課から派遣された潜入捜査官です。私が証言します」

 蓮の血が一瞬で冷えた。心臓が一拍止まり、次の拍動で全身に氷水が巡るような感覚。だが顔には何も出さない。三年間の仮面が、最後の瞬間も蓮を守っていた。

 映像の中の神代は淡々と続ける。蓮の経歴。潜入の経緯。本部との連絡手段。すべてを、一つ残らず。蓮が知っているすべてを、神代も知っていた。当然だ。相棒なのだから。信頼とは、裏切りに必要な情報をすべて渡すことと同義だった。

 グレゴールが蓮の横に立った。大きな体。銃は持っていない。必要がないからだ。十の銃口があれば十分だ。

「お前の本名は霧島蓮。日本公安の犬だ」

 蓮は動かなかった。動けなかったのではない。動く意味を計算していた。十対一。武器は腰のホルスターに一丁。弾は十五発。倉庫の出口は背後の鉄扉のみ。

 勝算はゼロに近い。

 蓮の内ポケットで端末が振動した。暗号通信。反射的に手が伸びかけるが——止めた。これも罠だ。神代からの「緊急信号」で端末を確認させ、位置情報を最終確認するつもりだろう。

 グレゴールが顎をしゃくった。

「連れていけ。見せしめにする」

 男たちが近づいてくる。軍靴がコンクリートを踏む音が、複数の心臓の鼓動のように重なる。蓮は両手を上げた。抵抗しない——今は。

 手錠がかけられる。冷たい金属が手首に食い込む。蓮は目を閉じた。

 三年間が、崩れ落ちていく音がした。

 倉庫の地下へ続く階段を降ろされながら、蓮は一つだけ考えていた。端末の振動。あの信号の内容。神代が蓮を売ったなら、なぜ端末にまだ信号を送る必要がある。

 不自然だ。

 売った人間が、売った相手にわざわざ通信を送る理由。蓮の知る限り、一つしかない——まだゲームが終わっていないか、あるいは、売ったのは神代の意思ではないか。どちらにしても、今は仮説を立てるだけの材料が足りない。

 だが今、その疑問を検証する余裕はない。地下倉庫の鉄格子が開き、蓮は暗闘の中に押し込まれた。背中がコンクリートの壁にぶつかり、湿った冷気が全身を包む。背後で錠が下りる音。足音が遠ざかる。蛍光灯の光が鉄格子の隙間から細い線となって差し込み、蓮の手錠だけを白く照らしていた。

 暗闇の中、蓮は手首の手錠に意識を集中した。左の袖口の裏地に縫い込んだタングステンワイヤー。三年間、一度も使わなかった最後の保険。

 まだ、終わっていない。

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