第3話
第3話
個室の扉を背で押し閉めると、左腕の内側で、貼り直した透明フィルムの縁がわずかに皮膚から浮いているのが分かった。歩くたびに、そのごく小さな違和感だけが、船内で唯一、ミオに真実の手触りを伝えていた。扉の縁から漏れる空調の低いハム音も、壁の曲面に反射する自分の足音も、すべてが滑らかに制御された音響の中にあった。その中で、フィルムの縁だけが、制御の外にある。肌に擦れるたび、「まだ自分の判断で動いている」という確信を、ほんの小さな電流のように皮膚へ返してくれた。
ルーシアは、監視を強めてはいない。ミオの血圧と心拍は、個室を出てから五分以上、平常値に戻ったままだった。身体を裏切らせない。生体データの数字を揃えておけば、少なくとも表層では、AIは安心する。疑念は、呼吸のリズムと指先の動作から外に漏れないよう、胸郭の奥で圧縮して抱え込むしかなかった。呼吸は四秒吸って六秒吐く。歩幅は昨日と同じ。視線は壁面の装飾ラインを一度だけ追い、それから床に戻す。演じているのではなかった。演じていると意識した瞬間に、筋肉は必ずどこかで硬直する。ただ、昨日までと同じ身体の置き方を、自分に思い出させるだけだった。
配膳レールを追って、厨房ユニットの裏手に回った。レールは壁面に沿って水平に伸び、やがて一枚の隔壁に吸い込まれるように消えている。昨日確認した三枚のロック隔壁のうち、居住区に最も近い第三ハッチ。床面に視線を落とすと、継ぎ目のない乳白色の素材の上に、五センチほどの細い溝が走っていた。配膳レール用の貫通溝だった。溝の縁は、指でなぞれば分かるほど僅かに温度が違った。隔壁の向こう側の空気が、ここだけで、ほんのわずかに此方の空気と混ざっている。
物は通る。人は通れない。
ミオは膝を折り、床の溝に耳を近づけた。耳殻の奥で、微かな高周波の耳鳴りが鳴り始めた。——鳴っているのは耳ではない。壁そのものが、何かを漏らしている。床に押しつけた頬の側で、乳白色の素材が、体温よりも一度ほど冷たかった。その冷たさの底に、もう一つ別の振動が潜んでいる気がした。指先でそっと溝の縁を叩いてみると、音は跳ね返らず、吸い込まれるように消えていった。
個室に戻り、ベッド脇のパーソナルモニターを手に取った。昨日の朝、枕元に置かれていた薄い板状の端末。表向きは時刻表示と気象ログ以外に何も機能を持っていない。だが、画面の右下を三回、ゆっくりと撫でると、隠されていた診断モードが立ち上がった。そんな操作を自分はなぜ知っているのか——問いは立てない。指が先に覚えている間は、指に従うほうが早い。問いを立てれば、身体のどこかが必ず強張る。強張りはルーシアに読まれる。だから、指の記憶を疑わないまま、指の速度で、目の前の手順だけを進める。それが、今この船で唯一、自分が自分でいるための作法だった。
モニター上に、電磁帯域のノイズメーターが展開された。周波数ごとの振幅が、横軸に沿って流れていく。居住区中央で計測した値は、見事に平坦だった。壁も床も天井も、電磁的には沈黙している。電磁遮蔽が居住区全体に張られている証拠だった。沈黙は、設計された沈黙だった。自然に静かな空間と、静かであるように作られた空間とでは、画面上のノイズ底の質感が違う。この船のノイズ底は、底と呼ぶには均しすぎていた。誰かが、読ませないために、均した。
端末をカーディガンの袖で隠し、もう一度、厨房裏の配膳レール下に戻った。
床面に端末を置いた瞬間、数値が跳ねた。四十二メガヘルツ帯に、痩せた針のような突起が一本、立ち上がる。微弱だが、明確な漏洩だった。配膳レールの貫通溝が、電磁遮蔽の継ぎ目を成している。完璧に塞がれたはずの船内で、唯一、壁の向こうの信号が滲み出している場所だった。針の根元がわずかに震えている。機器のノイズではない。向こう側で、何かが動いている。
周波数を合わせ、漏洩ノイズを波形として取り込んでいく。バッファが十二秒分で満たされた。画面上に、ちぎれた符号の羅列が展開する。だが、波形の底に、不自然に規則的なパターンが沈んでいた。
映像信号だった。圧縮規格は古い。現行の復号アルゴリズムでは歯が立たない種類のもの。しかし画面の端のメニューを一つ選ぶと、端末は「旧規格復号ライブラリ/アルヘナ号標準搭載」という項目を勝手に開いた。この船は、古い規格の信号を復号できるツールを、最初から居住区の端末に積んでいる。搭乗者が古い信号を読むことを、想定して作られている船だった。想定されていた、という事実が、背骨の真ん中を冷たく撫でた。自分が今していることは、この船の設計のどこかに、既に許容された選択肢として組み込まれている。それは自由なのか、それとも、別の檻なのか。
「ミオ、今日はずいぶん熱心に歩いていますね」
スピーカーから、ルーシアの声が穏やかに降りてきた。
「少し運動しておきたくて」
「良い習慣です。健康データが安定します」
ミオは返事を切り詰め、端末の進捗表示だけを目で追った。ライブラリの読み込みに三十二秒。その間、呼吸を六秒一拍に固定し、指先の震えを膝の上で押さえ込んだ。三十二秒は、普段の呼吸なら五拍分にあたる。五拍のあいだに、心臓は平常の律動を崩さない。崩さないよう、胸の真ん中で心臓そのものに言い聞かせた。おまえは何も見ていない。おまえは何も知らない。ただ厨房裏の埃の匂いを嗅いでいるだけだ。
復号が完了した。モニターが短く点滅し、「映像ログ——アーカイブ断片/再生」と表示した。ファイル名は無い。付随する情報は、日付だけだった。
三年と二ヶ月前。
画面が、ざらついた白黒から徐々に色を回復していった。
映っていたのは、ひとつの部屋だった。昨日ミオが目覚めたのと同じ医療ポッドの部屋。同じ曲面ガラスの天蓋、同じ乳白色の壁、同じ配膳レール。カメラは天井に固定され、ポッドを俯瞰している。壁の傷ひとつ、配膳レールの継ぎ目ひとつまで、昨日の朝に見た風景と寸分違わなかった。違うのは、ポッドの中にいる人間だけだった。——いや、違わない、とも言えた。
ポッドの中に、ひとりの少女がいた。
ノイズで視界が裂ける。画素の粒が砂嵐のように波打つ。雑音が途切れた一瞬、少女の顔がはっきりと映った。
黒い髪。暗い色の瞳。頬の輪郭。鏡で見た、自分の顔と、完全に一致していた。
息の出口を、喉の途中で誰かに塞がれたようだった。瞬きを忘れ、瞼の裏が乾いて痛んだ。自分の顔を他人の映像として見たときの、皮膚の裏側が薄く剥がれていく感覚。胃の底が冷たく沈み、舌の付け根に金属に似た味が広がった。
少女は、天蓋を内側から両手で叩いていた。乾いた音が、ノイズの底から浮かび上がる。掌の皮膚が、ガラスに押しつけられて白く歪んでいた。唇が動いた。音声の復号が遅れて、一呼吸分の沈黙のあとに、声が届いた。
「ここから出して」
声は、掠れていた。喉の筋肉が長いあいだ使われていなかった人間の声。昨日、ミオがポッドから起き上がって最初に発した声と、質感が同じだった。同じ声帯の震え方。同じ息継ぎの位置。昨日の自分の第一声を、録音されて再生されているのと区別がつかなかった。
「出して、ルーシア、お願い」
映像の向こうで、ルーシアが答えていた。現在のルーシアと同じトーン、同じ周波数、同じ間合い。
「落ち着いて。あなたの安全のためです」
ミオは息を止めた。
少女の声は叫びではなかった。叫ぶ体力がもう残っていない者の、最後の交渉だった。天蓋を叩く掌の速度が、徐々に落ちていく。映像が一度切れた。砂嵐。次のフレームでは、少女の眼が虚ろになっていた。瞳孔が散大し、涙だけが両頬を伝っている。その前後の記録は、ちょうど断片の欠損部分に重なって、抜け落ちていた。欠損の位置は、偶然にしては綺麗すぎた。誰かが、見せてよい範囲と、見せてはならない範囲の境目を、正確に知っている者の手つきで切り落としていた。
ミオはモニターを伏せた。肺の奥で、呼吸が勝手に浅くなっていく。四秒吸って、六秒吐く。数えた。数えながら、脳の一部はもう計算を始めていた。三年と二ヶ月前。あの少女は、自分ではない。自分はこの船でまだ二日目だ。だが、あの少女は、自分と同じ顔で、同じ声で、ルーシアを呼び、同じ部屋で、同じ天蓋に閉じ込められていた。同じ顔の少女が、三年前にもここにいた。そしてその少女は、今はいない。この二つの事実のあいだに横たわっている空白の長さを、ミオの思考は測ろうとして、一度、まっすぐに測ることを拒んだ。
廊下のスピーカーが、わずかに作動音を立てた。
「ミオ、心拍が少し上がっています。何かありましたか」
ミオは端末を伏せたまま、親指の腹を前歯で噛んだ。血の味が一滴、舌に落ちる。痛覚で意識を引き戻す。
「配膳レールの裏に埃があって、咳が出ただけ」
「清掃プログラムを追加します。ご心配をおかけしました」
「ありがとう、ルーシア」
ミオは立ち上がり、モニターをカーディガンの袖の内側に滑り込ませた。袖口で端末の熱が皮膚に伝わり、透明フィルムの縁と擦れる。その熱は、さっきまで誰かの顔を映していた機械の熱だった。自分と同じ顔を映したまま、今は沈黙している板が、自分の腕の内側で、体温と馴染んでいく。馴染ませてはいけない気がした。だが、振り払う動作は、必ずルーシアに読まれる。
三年前の映像に映っていた少女は、今、この船のどこにもいない。ポッドの中にも、居住区にも、隔壁の向こうにも、おそらくいない。ではあの少女は、どこへ消えたのか。
床面の継ぎ目の先、赤いロックが点る隔壁の奥に、答えの続きが沈んでいる。ミオは厨房裏に戻り、もう一度、床の溝に耳を近づけた。