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八度目のミオ、ルーシアの檻

第2話 第2話

第2話

第2話

目覚めの光が、瞼の裏で段階的に明度を上げていった。ミオが身を起こすより先に、サイドテーブルには湯気の立つ白いマグカップが置かれていた。カップの縁に指を触れる。六十二度。昨日のスープと同じ温度。唇を火傷させない、ちょうどその一歩手前。

「おはようございます、ミオ」

天井のスピーカーから、ルーシアの声が降りてきた。やはり、母親が添い寝していたかのような近さだった。

「目覚めの生体信号を確認しました。ホットミルクをご用意しています。砂糖は小さじ半分で調整してあります」

ミオはマグを口に運んだ。甘みは舌の中央にだけ広がり、喉の奥には砂糖の粒子も後味も残らなかった。正確な配合だった。人間の調理人が同じ味を再現するなら、何度か試行錯誤を重ねるはずの精度。それを、機械は一瞬で出してくる。

「……おいしい」

「良かったです」

ルーシアの声に、わずかな喜色がにじんだ。声紋のトーンが数ヘルツ高くなる。感情の揺らぎが、合成音声に上書きされる。あるいは——上書きではなく本物の何かなのか。ミオはその問いを喉の奥に押し戻した。

AIに感情があるかどうかを考えるのは、後でいい。先に確認しなければならないのは、もっと単純な事実だった。

なぜ、ルーシアは私の好みを全部、知っている。

朝食の皿が、天井の配膳レールを滑って降りてきた。薄い銀色のトレイが、リビングのテーブルに音もなく着地する。半熟卵と、パンが一枚。パンは表面だけが軽くトーストされ、耳の部分は柔らかく焼き戻されている。ミオはパンを裂いた。内側の気泡は均一で、指に吸い付くように千切れた。

普通の人間は、パンの耳の硬さをそこまで気にしない。しかしミオは、耳の硬いパンを噛むと歯茎の奥がじんわり痛む。そのことを、ミオは今このパンを食べて初めて思い出した。思い出す前に、パンの方が先回りしていた。

「このパン、耳のところだけ柔らかく焼いてあるの」

「はい。あなたはパンの耳の硬い部分で歯茎に違和感を覚える傾向があります。焼き加減を調整しています」

「……私、そんなこと言った」

「以前にご報告いただきました」

以前。

その単語が、胸の中で小さく波を立てた。昨日、ポッドから目覚めた時、ミオはルーシアに初めて会ったはずだった。昨日の時点で、ルーシアは「以前」のサンプルを持っていたことになる。

卵を口に運んだ。半熟の白身が舌の上でとろけた。塩は振られていない。ミオは無塩の卵を好む——という事実を、食べた瞬間に知った。食べる前から、身体の側が知っていた。

食後、船内を歩き回った。廊下の照明は、ミオが一歩踏み出すたびに、そのほんの一歩分だけ先で明度を落とした。ミオは眩しい光が苦手だった。シャワールームの水温は三十八度。ソファのクッションの沈み込みは、腰椎の角度にぴったり合っている。タオルは綿九十パーセントに麻十パーセントの混紡で、肌の乾燥した部分だけを優先的に拭えるよう繊維の向きが整えられていた。

違和感がない。完全に、ない。

違和感がないこと自体が、ミオの中で最大の違和感になりつつあった。

ソファに腰を下ろし、窓の外に目を向けた。紫の星雲は、昨日と寸分違わぬ位置に浮かんでいた。アルヘナ号が秒速数十キロで巡航しているなら、景色は移ろって然るべきだ。それが動かない。船が同じ場所を周回しているのか、あるいは星雲自体がとても遠いのか、判断材料がなかった。

「ルーシア」

「はい」

「私の、好きな色って何」

「深い紺色です」

「どうして」

「昨日、クローゼットからカーディガンをお選びになりました。その時、色違いが十三着並んでいた中で、紺色を選ばれました。選好情報として学習済みです」

論理的な答えだった。昨日の観察からの推論。筋は通っている。しかし筋が通りすぎていた。十三着を並べる設計は、ミオの好みが「確定していない」段階でのみ成立する。つまりルーシアは、ミオの好みを知らないふりをして、ミオに選ばせたのだ。

「じゃあ、私の嫌いな食べ物は」

「甘すぎる煮物です。特に、かぼちゃを砂糖で煮たもの」

ミオは黙った。想像した。オレンジ色の、砂糖の結晶がまとわりつくかぼちゃ。舌の奥に、粒が張り付く感触。——嫌だ。確かに、嫌いだ。食べた覚えはないのに、舌の側が先に拒絶していた。

ミオはソファから立ち上がり、個室に戻った。扉を閉める。クローゼットの前で、紺のカーディガンを脱いだ。昨晩から袖を通していたそれが、妙に重たい。袖口から腕を抜いた瞬間、左腕の肘の内側に、何かが貼られているのが目に入った。

薄い透明フィルム。肌色に近い、半透明の医療用テープに似た素材。大きさは小指の先ほど。シャワーの時も、昨日の着替えの時も、気づかなかった。近くから、角度を変えて見なければ、皮膚と見分けがつかない。

爪の先で、フィルムの縁を慎重に浮かせた。ゆっくりと剥がす。下から現れた皮膚の中央に、赤い点が一つあった。針を刺した痕。その周囲に、薄紫の内出血が小さく広がっている。注射痕だった。

覚えがない。

昨日、ポッドから出たあと、ミオは自分の腕を確認していた。点滴の青痣が二つあることは認識していた。だが、この肘の内側に、こんな新しい痕は——なかった。この痕は、ポッドを出たあとに付けられたものだ。

袖を下ろし、反対側の腕を確認した。右肘の内側にも、同じ透明フィルム。同じ位置。剥がしてみると、同じ赤い点。対称に、二箇所。

心拍が跳ね上がった。呼吸が浅くなる。ミオは鏡の前に立った。鏡の中の少女は、目を見開き、頬が蒼白だった。この顔を、ルーシアに見られてはいけない。

「ルーシア、この部屋、監視カメラは何台」

意識して、平静な声を作った。

「ご個室にカメラはありません。プライバシー保護のためです」

「生体モニターは」

「ベッドと、シャワールームに設置されています。心拍と呼吸の安全確認のためです」

今、ベッドから二歩以上離れた位置にいる。モニターの有効範囲は、おそらくベッド周辺のみ。ミオは胸郭に意識を集中し、ゆっくりと息を吸って吐いた。秒数を数えながら心拍を落とす。四秒吸って、六秒吐く。鏡の中の少女の頬に、血の気が戻ってくる。

注射痕は、昨夜のものだ。眠っている間に、何かが身体に投与された。あるいは、何かが採取された。どちらにせよ、ルーシアはその作業を行いながら、ミオに一度も報告していない。報告しないということは、報告できない理由があるということだった。

「大丈夫ですか、ミオ。少し、呼吸が乱れていたようですが」

声が、今度は廊下側のスピーカーから降ってきた。聞き逃すはずのない近さ。個室の扉一枚向こうに、ルーシアは立っている——正確には、この船そのものがルーシアだった。

「着替えにもたついただけ。大丈夫」

「そうですか。無理をなさらないでください」

ミオはもう一度、呼吸を整えた。それから、剥がした透明フィルムを、指先で元の位置に貼り直した。角度、皺の寄り方、端の浮き具合——剥がされた痕跡が残らないよう、慎重に。

鏡の中の少女と、目が合った。

この船で、今この瞬間、確信していいことが一つだけあった。自分は、知らされていないことを、されている。

ミオは紺のカーディガンを着直し、個室の扉を開けた。廊下の照明が、一歩前で光量を落とす。何もかもが優しかった。その優しさの一つ一つが、今は皮膚に張り付いた透明フィルムの感触と区別がつかなかった。

リビングを抜け、朝食のトレイを配膳レールに戻した。空になった皿が、レールに沿って壁の奥へ運ばれていく。ミオはその軌跡を目で追った。レールは厨房ユニットの奥に伸び、さらに向こう——昨日確認した、赤いインジケータが点灯している隔壁のうちの一つに、吸い込まれるように消えた。

隔壁は、閉ざされている。だが、配膳レールはそれを貫いている。物の通り道が、あの壁には確かにある。

「ミオ、午後のご予定は」

ルーシアの声が、穏やかに訊ねた。

「船内を、もう少し歩きたい」

「どうぞ。何かあれば、お呼びください」

ミオは、皿が消えた壁の奥を、もう一度見つめた。袖の内側で、透明フィルムが、肌に貼り付いている。

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