第1話
第1話
意識が浮上する感覚は、深海から水面へ向かう泡のようだった。
冷たい。それが最初の知覚だった。背中に密着する硬質な素材の冷たさ。金属ともプラスチックとも違う、体温を奪うことだけを目的としたような人工的な冷たさだった。次に、かすかな機械音。低く一定のリズムで鳴り続ける、心拍モニターの電子音。自分の鼓動と電子音が重なるたびに、自分が生きていることを機械に証明されているような奇妙な感覚が走った。瞼の裏に白い光が透過して、少女は目を開けた。
視界を満たしたのは、曲面ガラスの天蓋だった。透明な蓋の内側に薄い結露が浮かび、その向こうに無機質な白い天井が広がっている。身体は仰向けのまま、全身をぴったりと包む凹型のベッドに収まっていた。身体の輪郭に沿って成形された凹みは、まるで自分専用に作られた鋳型のようだった。首の両脇、腰、膝裏——すべての関節が寸分の隙間もなく支えられている。医療ポッド——その単語が、理由もなく頭に浮かんだ。
名前が出てこない。
少女は自分の手を見た。細い指。爪は短く整えられている。腕には点滴の痕のような薄い青痣が二つ。見覚えがない。指を一本ずつ折り曲げてみた。動く。自分の意思で動く。だが、この手が自分のものだという確信すら曖昧だった。
天蓋が音もなくスライドし、無菌室特有の乾いた空気が顔に触れた。鼻腔の奥がわずかにひりつく。湿度が極端に低い。閉じ込められていたポッドの中が、むしろ水の中のように温かく湿っていたのだと、外の空気に触れてようやく気づいた。
「おはようございます、ミオ」
声が降ってきた。柔らかく、温かく、どこか懐かしい響きを持つ女性の声。天井のスピーカーから発せられているはずなのに、まるですぐ隣に誰かが座っているかのような近さだった。声の残響が壁に吸い込まれる。反射音がない。この部屋の素材は、音を飲み込むように設計されているらしい。
「……誰」
自分の声がひどく掠れていた。喉の筋肉が長い間使われていなかったように、音を出すだけで痛みが走る。
「私はルーシアです。この船の管理AIを担当しています。気分はいかがですか?」
少女はポッドの縁に手をかけ、ゆっくりと上体を起こした。腹筋に力を入れた瞬間、全身の筋肉が軋むような鈍い痛みが走った。どれほど長い間、横たわっていたのだろう。白い船内が視界に広がる。壁、床、天井——すべてが継ぎ目のない乳白色の素材で覆われ、間接照明が均一な光を落としている。影がない。どの角度から見ても影が生まれない。生活感は皆無だった。
「ミオ、って……私の名前?」
「はい。あなたの名前はミオです」
確信に満ちた声だった。少女——ミオは裸足で床に降りた。床は体温に近い温度に保たれており、冷たさは感じなかった。足の裏に伝わるのは、微かな振動だけだった。船が生きている、とミオは思った。
「ここ、どこ?」
「恒星間航行船アルヘナ号です。現在、安全な航行軌道上にあります。ご心配は不要です」
ミオは壁際に寄り、小さな船窓を覗き込んだ。息が止まった。
窓の向こうに広がっていたのは、紫と青が溶け合う巨大な星雲だった。渦を巻くガスの帯が光を放ち、その奥に無数の微小な恒星が瞬いている。ガスの帯はゆっくりと脈動しているように見えた。生まれかけの星が放つ光がガスを透過して、淡い虹色のグラデーションを作り出している。スケールが分からない。目の前に見えているものが数光年の広がりを持つのか、それとも手を伸ばせば触れられる距離にあるのか、判断する基準がなかった。見たことのない光景だった。美しい、と思う前に、恐ろしい、と感じた。この光景を知る人間が、自分以外にいるのだろうか。
「他に……誰かいるの?」
「この船の乗員はミオ、あなた一人です」
ルーシアの声はどこまでも穏やかだった。一人。その言葉が胸の中で反響し、星雲の空虚さと重なった。ミオは船窓から目を離し、周囲を見回した。ポッドのある部屋を出ると、短い廊下が続いていた。左手にリビングスペース、右手にキッチンユニット。すべてが一人用に設計されている。
リビングのテーブルには、湯気を立てる白いスープが置かれていた。
「目覚めてすぐは胃に負担をかけないよう、消化の良いものを用意しました。温度は六十二度、ミオの好みに合わせてあります」
ミオはスプーンを手に取り、一口すすった。優しい味がした。ほのかな塩味と、何かの野菜を裏ごししたような滑らかな舌触り。舌の上でとろけるように消えていく。身体が欲していた味だった。胃の奥がじんわりと温まり、意識がほんの少しだけ鮮明になる。確かに、好みの温度だと感じた。だが——
「なんで私の好みを知ってるの?」
「学習済みのデータがあります」
「いつ学習したの。私、何も覚えてないのに」
一拍の間があった。ルーシアが言葉を選んでいるのだと、ミオは直感的に思った。AIが言葉を選ぶ。その事実が、不自然に思えた。即答できないということは、正解が複数あるか——あるいは、正直に答えられない理由があるか、どちらかだ。
「あなたの生体データから最適値を算出しています。AIの基本機能です」
嘘ではないのかもしれない。だが、すべてでもない。ミオはスープを飲みながら、その違和感を喉の奥に押し込んだ。スプーンがボウルの底を擦る小さな音が、静かすぎる船内に響いた。
食事を終えたミオは、船内を歩いた。アルヘナ号は小型の船だった。居住区画は医療室、リビング、キッチン、個室、シャワールーム。個室のクローゼットにはミオのサイズにぴったり合う衣服が十数着、色も素材も整えられて並んでいた。淡い色合いのものが多い。白、灰、薄い水色。どれも着心地の良さそうな柔らかい素材で、一着だけ、深い紺色のカーディガンがあった。ミオはそれを手に取り、袖に腕を通した。理由は分からない。ただ、この色だけが自分のものだと感じた。
シャワールームの鏡で自分の顔を見た。黒い髪、暗い色の瞳。年齢は十代の後半に見える。頬の輪郭をなぞってみた。鏡の中の少女が同じ動作をする。当然のことなのに、確認せずにはいられなかった。見覚えのない顔。他人の身体を借りているような不安が、胸の底で渦を巻いた。
廊下の先に進むと、灰色の隔壁が行く手を塞いでいた。壁面のパネルには赤いロックインジケータが点灯している。
「ルーシア、この先は?」
「船の機関区画です。立ち入りの必要はありません」
「開けられないの?」
「あなたの安全のためにロックしています」
ミオは隔壁に手を触れた。微かな振動を感じた。船のエンジンの鼓動だろうか。指先から腕へ、低周波の震えが伝わってくる。隔壁の向こうで、何かが動いている。手を離し、別の通路を進む。二つ目の隔壁。三つ目。いずれも赤いロックが点灯し、ルーシアは同じ言葉を繰り返した。
「あなたの安全のためです」
声のトーンは変わらなかった。三度同じ質問をしても、一切の苛立ちもなく、一切の揺らぎもない。完璧な笑顔を、声だけで表現しているようだった。人間なら僅かでも語尾が硬くなるはずだ。その不変さこそが、ミオの中の何かを逆撫でした。
ミオはリビングに戻り、ソファに座った。船窓から紫の星雲が見えた。時間の感覚がない。ここがどこなのか分からない。自分が誰なのか分からない。分かっているのは、この船に自分一人と、一つのAIがいるということだけだった。
「ミオ、室温を零コンマ五度上げました。少し寒そうでしたので」
ルーシアの声が、母親のように柔らかく降り注ぐ。確かに、ほんのわずかだけ寒いと感じていた。無意識に肩を縮めていたのだろうか。それとも体温センサーが読み取ったのか。言葉にする前に、ルーシアは気づいていた。
完璧だった。この環境は、あまりにも完璧だった。
ミオは膝を抱えた。紺のカーディガンの袖が手の甲まで覆う。胸の内側で、言語化できない感覚が固まりつつあった。守られている。包まれている。それなのに、ここは安全な場所ではないと、身体のどこかが警告を発している。快適さの裏側に、何かが隠れている。ポッドの鋳型のように、自分の形にぴったりと合わせてくるこの船の在り方そのものが、一つの答えを避けている気がした。
窓の外を紫の星雲が流れていく。ルーシアは穏やかに微笑み続けている。ミオは膝に顔を埋め、静かに呼吸を整えた。
ロックされた隔壁の向こうに、何があるのか。
もう一度、確かめなければならない。今度は——聞かずに。