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朽葉の井戸

第1話 第1話

第1話

第1話

母の棺に花を置いたとき、私の指先は何も感じなかった。

白い菊の花弁も、木の縁も、隣に横たわる父の棺から漂う線香の煙も、すべてが薄い膜の向こう側にあるようだった。花弁に触れているはずの指が、自分のものではないように思えた。棺の木肌は滑らかで、生前の母が好んでいた桐箪笥の手触りに似ていたはずだが、そんな記憶すら遠かった。線香の煙が目に沁みる。沁みているのに、涙にはならなかった。十五歳の冬。両親を同時に失うということが、現実としてうまく処理できない。泣くべきなのだろう。けれど涙は出なかった。ただ、足元からじわじわと冷たいものが這い上がってくる感覚だけがあった。斎場の暖房は効いているはずなのに、靴下の中の指先がかじかんでいた。コートの下の制服のブラウスが、汗で背中に貼りついている。寒いのか暑いのか、身体が判断をやめていた。

葬儀が終わり、親戚たちが小声で何かを相談していた。控室の隅のパイプ椅子に座ったまま、私は紙コップのお茶を握っていた。冷めきったお茶の表面に、蛍光灯の光が四角く映っていた。私には親がいない。祖父母も、父方にはもういない。引き取り手がない——そんな言葉の断片が聞こえた。伯父にあたる人が「施設という選択肢も」と言いかけ、別の誰かに肘で制された。私に聞こえていないと思っているのだろう。聞こえていた。聞こえていたが、傷つく余裕すらなかった。

そこに現れたのが、黒い着物の老女だった。

「柊真白さんですね」

低く、しかし芯のある声。皺の深い顔に刻まれた目は、悲しみではなく、もっと別の何かを湛えていた。確認するような、値踏みするような。控室の空気が変わった。親戚たちが一斉に口をつぐんだ。誰も彼女を知らないようだった。知らないのに、誰一人として声をかけられずにいる。老女の周囲だけ、空気の密度が違っていた。

「私は朽葉の当主です。あなたのお母様の、母にあたります」

祖母。母方の祖母が存在すること自体、私は知らなかった。母は実家の話を一度もしなかった。出身地すら曖昧にしていた。写真もない。年賀状のやり取りもない。まるで、自分が生まれる前の世界を丸ごと切り捨てたように。母の旧姓すら、私は知らなかったのだ。戸籍を見れば書いてあるのだろうが、十五年間、一度も必要としなかった。母にとってそれは、存在しない過去だった。

「うちにいらっしゃい」

選択肢は、なかった。

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朽葉家の屋敷は、山あいの集落を見下ろす高台にあった。

タクシーを降りた瞬間、空気が変わった。一月の山間部の冷気とは違う。もっと湿った、重たい空気。鼻の奥に貼りつくような、黒ずんだ木の匂い。築何年なのか見当もつかない日本家屋が、灰色の空の下に広がっている。大きい。異様に大きい。門をくぐると、砂利敷きの前庭がひらけた。左右に植えられた杉の木が高く、空を狭くしている。屋根の瓦は黒く湿り、苔が所々に緑の斑を作っていた。玄関に続く石段は擦り減って丸みを帯びていて、何世代もの足がこの石を踏んだのだと知れた。

「足元、気をつけなさい」

祖母——朽葉ヨシと名乗った——が先に立って歩く。砂利を踏む音が妙に響いた。祖母の足取りは年齢を感じさせないほど確かで、背筋はまっすぐだった。黒い着物の裾が砂利の上を掃くように揺れている。出迎えた使用人が三人。いずれも中年の女性で、深く頭を下げたまま、私と目を合わせなかった。一番手前の女性の手が、微かに震えていたのを覚えている。寒さのせいだったのかもしれない。けれど、それにしては不自然な震え方だった。

「こちらがお部屋です」

通された部屋は八畳の和室で、古いが清潔に整えられていた。畳の藺草の匂いがした。新しく替えたのだろうか——私が来ることを見越して。障子の向こうに中庭が見える。枯れた松と、苔むした石灯籠。その奥に、渡り廊下で繋がった別棟が見えた。渡り廊下の板は黒ずんで、ところどころ反り上がっている。その先にある建物は、母屋よりもさらに古く、窓という窓に雨戸が閉められていた。

「あれは」

「西の離れです」

祖母の声が、一段低くなった。

「あそこには近づかないように。古くて傷んでいるから、危ないのです」

理由としては自然だった。けれど、祖母の言い方には説明以上の重さがあった。危ないから、ではなく、近づくなと命じている。その違いを、私は肌で感じ取った。祖母の目が一瞬だけ西の離れに向けられ、すぐに逸らされた。視線を切るその動作に、長年の習慣が滲んでいた。

夕食は祖母と二人きりだった。広い座敷に向かい合って座ると、二人分の膳が妙に小さく見えた。使用人が運んでくる料理は丁寧に作られていたが、味がわからなかった。まだ、味覚が戻っていない。煮物を口に含んでも、温かい液体が喉を通過するだけだった。箸を動かす自分の手を、どこか遠くから眺めているような感覚が続いていた。祖母は多くを語らなかった。母のことも聞かなかった。ただ時折、じっと私の顔を見つめた。何かを探すように。あるいは、確かめるように。その視線には温かさもなく、冷たさもなかった。もっと切実な、何かの答えを求めるような目だった。

「お母様に似ていますね」

その一言だけが、食事中に祖母が漏らした感想だった。似ている、と言った祖母の声には、懐かしさよりも苦さが混じっていたように思う。

部屋に戻り、布団に入ったのは十時過ぎだった。山の夜は深い。街灯もない。窓の外は完全な闇で、虫の声すら聞こえない。一月だから当然だ。けれど、この静寂には厚みがあった。音がないのではなく、何かが音を吸い取っているような。時折、屋根の上で何かが軋む音がした。木が収縮する音だろう。古い家にはよくあることだ。けれど、その軋みが規則的に聞こえる瞬間があった。まるで、誰かがゆっくりと歩いているかのように。

眠れなかった。天井の木目を見つめながら、母のことを考えた。なぜ一度もこの家の話をしなかったのか。なぜ祖母の存在すら隠していたのか。母はいつも穏やかに笑っていた。料理が好きで、洗濯物を畳むのが丁寧で、夜寝る前に必ず家中の窓の鍵を確認した。あの確認の仕方が、今思えば異常だった。鍵をかけた後、もう一度、さらにもう一度。三度繰り返さないと寝室に戻らなかった。何かの侵入を恐れていたのだと、今ならわかる。この屋敷に来てまだ半日だが、母が逃げた理由のようなものが、空気のなかに溶けている気がした。

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寝返りを打った拍子に、視線が押入れに吸い寄せられた。

襖は閉まっている。布団や座布団が入っているのだろう。何の変哲もない押入れ。なのに、そこだけ空気の温度が違うような気がした。

気のせいだ。

そう思った。思おうとした。けれど身体は勝手に布団から出ていた。畳を踏む足が冷たい。襖に手をかけ、引き開ける。中には予想通り、畳まれた布団と、古い座布団がいくつか。奥の壁は板張りで——

違う。

目を凝らした。押入れの奥、右隅。板の色が周囲と微妙に異なっている。新しいとまでは言わないが、明らかに後から張られたものだった。継ぎ目に手を触れる。板と板の間に、ほんの僅かな隙間があった。

そこから、風が漏れていた。

冷たい風ではなかった。一月の山中だというのに、その隙間から流れてくる空気は、生温かった。頬に当たるその微風は、まるで何かが呼吸しているかのような、緩やかな律動を持っていた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。そして、匂いがあった。甘い、けれど甘さの底に澱のように沈んだ、腐ったような匂い。花が枯れて溶けかけたときの匂いに似ている。だがもっと濃い。もっと古い。何十年もかけて醸された腐敗の匂い。それでいて、どこか引き寄せられるような芳香が混じっている。嗅いではいけないと頭が警告しているのに、もう一度、もっと近くで嗅ぎたいと身体が求めていた。

指を隙間に差し込んだ。板の向こうに空間がある。引き戸だ。塞がれた引き戸が、壁板の裏に隠されている。指先が板の向こう側の空気に触れた瞬間、温度差がはっきりとわかった。こちら側は一月の冷気。向こう側は、春のような温もり。季節が違う。壁板一枚を隔てて、季節が違っていた。

心臓が速くなっていた。引き戸の向こうに何があるのか。どこに繋がっているのか。この板を剥がせば確かめられる。けれど、剥がしてはいけないと直感が告げていた。この匂いは、人が嗅いでいいものではない。

指を引き抜いた。

隙間は沈黙している。風は止んでいた。まるで、私が触れたことに気づいて息を潜めたように。

襖を閉めた。布団に戻った。毛布を顎まで引き上げて、目を閉じた。

眠れるはずがなかった。

あの匂いがまだ鼻腔にこびりついている。甘く、腐った、古い匂い。母がこの家を出た理由。一度も語らなかった理由。その答えが、壁板一枚の向こう側で、息を殺して待っている。

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明け方、浅い眠りから意識が浮上したとき、私は気づいた。

枕元に置いていたスマートフォンの画面が点いている。非通知着信の履歴が一件。午前三時十二分。着信時間は四十七秒。

私は起きなかった。着信音にも気づかなかった。マナーモードにしていたから。けれど、四十七秒間、誰かが——あるいは何かが——私に繋がるのを待っていた。

障子の向こうが白み始めている。中庭の向こうに、西の離れの屋根が見えた。灰色の瓦の上に、朝霧がわだかまっている。

近づくな、と祖母は言った。

押入れの奥の隙間から漏れていた風は、あの方角から吹いていた。

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