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朽葉の井戸

第2話 第2話

第2話

第2話

朝食の席で、祖母は昨夜のことには一切触れなかった。

味噌汁の湯気が立ち上る向こうに、祖母の横顔がある。箸を動かす所作は正確で、音を立てない。まるで何十年も同じ動作を繰り返してきた機械のように。私も箸を取った。白米を口に運ぶ。昨日よりは、味がわかる。出汁の塩気。漬物の酸味。生きている人間の感覚が、少しずつ戻り始めていた。

「今日から、屋敷のことは使用人に何でも聞きなさい」

祖母はそれだけ言って、膳を下げさせた。

使用人は三人いた。いずれも四十代から五十代の女性で、名前を教えてもらったはずだが、彼女たちは自分の名前を名乗ろうとしなかった。私が「お名前は」と聞いても、「お気遣いなく」と目を伏せるだけだった。そして私のことを、決して名前では呼ばなかった。

「お嬢様、お茶をお持ちしました」

「お嬢様、お風呂の用意ができております」

「お嬢様、お部屋の掃除に入ってもよろしいでしょうか」

お嬢様。その呼び方には距離があった。親しみを拒む距離ではなく、もっと別の——触れてはならないものに対する、慎重な間合いのようなもの。私は十五歳の、両親を亡くしたばかりの子供だ。憐れんでくれてもいい。同情してくれてもいい。けれど使用人たちの態度には、そのどちらもなかった。あるのは緊張だった。私の一挙一動を見逃すまいとする、静かな緊張。廊下ですれ違うとき、彼女たちは必ず壁際に寄って道を譲った。頭を深く下げたまま、私が通り過ぎるのを待つ。その姿勢が、敬意というよりも恐怖に見えるのは、私の思い過ごしだろうか。

屋敷は広かった。母屋だけでも部屋がいくつあるのか把握できない。廊下が枝分かれし、階段が予想しない場所に現れ、同じ廊下を歩いているはずなのに見覚えのない襖の前に出る。方向感覚が狂う造りだった。意図的にそう造られたのか、増改築を繰り返した結果なのかはわからない。ただ、この屋敷が訪問者に優しくないことだけは確かだった。

二日目の午後、私は迷った。

厠を探して廊下を歩いていたはずが、気づけば見知らぬ一角に入り込んでいた。母屋の東側、二階の奥。廊下の突き当たりに、他とは違う襖があった。取っ手の金具が外されている。開けるなということだろうか。けれど襖自体に鍵はなく、枠に手をかけると簡単にずれた。

中は、空だった。

八畳ほどの和室。畳は残っているが、それ以外には何もない。箪笥も、文机も、鏡台も。人が暮らしていた痕跡が、家具ごと抜き取られている。窓には障子ではなくカーテンの跡があった。カーテンレールだけが残り、布は取り払われている。陽が直接射し込んで、埃が金色に舞っていた。

異様だったのは、壁だった。

砂壁の上に壁紙が貼られていた形跡がある。だが、その壁紙が剥がされていた。丁寧に剥がしたのではない。引っ掻くように、むしるように。爪の跡が壁紙の断片に残っている。四方の壁すべてが同じ状態だった。特に窓のない北側の壁が酷い。壁紙どころか砂壁の表層まで削り取られ、下地の竹小舞が覗いている箇所があった。

誰がこんなことをしたのか。なぜ。

壁に近づいて、剥がし跡に指を添えた。爪の幅。人間の指の幅と一致する。五本の筋が平行に走り、途中で力が入ったのか深く抉れている。何かを探していたのか。それとも、壁の向こうに出ようとしていたのか。北側の壁の向こうには何がある。方角を考える。北——屋敷の奥のほう。西の離れとは違う方角だが、この壁の裏が何に面しているのか、この屋敷の構造ではわからなかった。

「お嬢様」

背後から声がして、心臓が跳ねた。

使用人の一人が立っていた。いつからそこにいたのか。足音は聞こえなかった。彼女は私の背後で、襖の前に正座していた。顔を上げない。

「こちらのお部屋は——」

「誰の部屋だったんですか」

遮るように聞いた。使用人は一瞬だけ沈黙し、それから感情のない声で答えた。

「雪乃お嬢様の、お部屋でございました」

母の名前だった。

「なぜ、こんなに何もないんですか。壁は——」

「存じません。ずっと以前からこのままです」

嘘だ、と思った。この使用人がいつから朽葉家にいるのかは知らない。だが「存じません」と言ったときの声の固さは、知らないのではなく言えないのだと告げていた。

「お部屋にお戻りになりませんか。お茶の用意ができております」

促されるまま部屋を出た。廊下を歩きながら振り返ると、使用人は母の部屋の襖をきちんと閉め直していた。その手つきが、まるで何かを封じ直すように丁寧だった。

---

その夜。

時刻はわからない。深夜であることだけは確かだった。窓の外は墨を流したような闇。昨夜と同じ、厚みのある静寂が屋敷を包んでいる。

眠りの縁にいた意識が、音に引き戻された。

足音だった。

廊下を歩く足音。一定の間隔で、板を踏む音が近づいてくる。素足ではない。足袋か、薄い靴下。硬い床板の上を、ゆっくりと、一歩ずつ。体重の乗った、確かな歩行の音。左から右へ。私の部屋の前の廊下を、誰かが通り過ぎようとしている。

息を止めた。

足音が、部屋の前で止まった。

障子一枚を隔てた向こう側に、誰かが立っている。障子紙に影は映らない。廊下に明かりがないから。けれど、気配がある。こちらを向いている気配。障子の桟の隙間から、視線が差し込んでくるような圧力があった。

五秒。十秒。十五秒。

足音が再び動き出した。今度は遠ざかっていく。右へ、右へ。廊下の奥のほうへ。やがて、聞こえなくなった。

呼吸を再開した。額に汗が浮いている。布団を握る指が白くなっていた。

使用人の誰かだろうか。夜回りをしているのかもしれない。古い屋敷だ、火の元の確認をしているのかもしれない。けれど——部屋の前で立ち止まる必要があるだろうか。あの間は何だったのか。

翌朝、朝食の席で聞いた。

「昨夜、廊下を歩いている方がいましたけど」

使用人の手が止まった。味噌汁の椀を持ったまま、一瞬だけ凍りついた。

「夜中に廊下を歩く者はおりません」

祖母が答えた。箸を置きもせず、私の顔も見ず。

「お嬢様方のお部屋がある棟は、夜は施錠いたします。誰も通れません」

施錠。私の部屋があるこの棟は、夜になると外から鍵をかけられている。それは私を守るためなのか、それとも——。

「夢でしょう」

祖母はそう締めくくった。味噌汁を一口含み、何事もなかったように朝食を続けた。使用人たちは誰も、私と目を合わせなかった。

夢ではない。あの足音は確かに聞こえた。廊下の板を踏む重さも、立ち止まったときの沈黙も、現実の質量を持っていた。

けれど、それを証明する手段が私にはなかった。

---

午後、もう一度母の部屋に行った。

今度は一人で、誰にも気づかれないように。廊下を何度か曲がり、二階の東奥に辿り着く。襖を開ける。昨日と同じ空の部屋。剥がされた壁紙。竹小舞の覗く壁。

北側の壁の前にしゃがみ込んだ。爪跡をもう一度見る。五本の筋。力任せに引っ掻いた跡。壁紙の残骸が床の際に溜まっている。よく見ると、その破片の裏に何か書かれていた。鉛筆の薄い文字。壁紙に直接書きつけたものだ。紙が小さすぎて、断片的にしか読めない。

「——こえ——」

「——だめ——きいて——」

「——にし——」

壁紙の裏側に書いてある。つまり、壁に貼った後から書いたのではなく、壁紙を貼る前に——いや違う。壁紙を剥がした人物は、書いた本人だ。書いた後で、その上から壁紙を貼って隠した。だが結局、自分で剥がした。いや、剥がしたのは別の誰かかもしれない。書いた文字を見つけるために、壁紙を引き剥がした。

母が書いたのか。母が剥がしたのか。それとも——。

背筋を何かが這い上がった。

振り返る。部屋の入口。誰もいない。けれど、廊下の空気が揺れた気がした。足音はしない。しないのに、誰かがそこにいた残響だけがある。

壁紙の破片をそっと拾い上げ、制服のポケットに入れた。

部屋を出るとき、閉めたはずの襖が、半分だけ開いていた。

私が開けたのか。最初から閉め切っていなかったのか。思い出せない。思い出せないことが、一番怖かった。

自室に戻り、ポケットの破片を畳の上に並べた。五つの欠片。裏返して、鉛筆の文字を読む。

「声がきこえる」

「だめ、きいてはだめ」

「にしの」

最後の欠片だけ、文字が途切れていた。「にしの」——西の。西の離れ。

母は知っていた。この屋敷の中にある何かを。壁紙の裏に書き残すほどの切迫感で。けれど、それを誰かに伝えることはできなかった。あるいは、伝える相手がいなかった。

昨夜の足音が蘇る。

あの足音の主は、夜ごとこの廊下を歩いているのだろうか。私の部屋の前で立ち止まり、障子の向こうからこちらを窺い、そしてまた歩き去っていく。それを、母も聞いていたのだろうか。この部屋で。この壁の前で。

窓の外で、鴉が一声鳴いた。

西の離れの屋根が、夕陽に赤黒く染まっている。昨日と同じ景色。けれど今日は、あの建物がこちらを見ているように感じた。雨戸の閉ざされた窓が、瞼を閉じた目のように並んでいる。

今夜もあの足音は来るだろう。そしてまた、私の部屋の前で止まるだろう。

壁紙の欠片を握りしめたまま、私は暮れていく空を見ていた。

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