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朽葉の井戸

第3話 第3話

第3話

第3話

三日目の朝、私は屋敷の中を歩き回ることにした。

迷うのが嫌なのではない。むしろ逆だ。この屋敷の構造を把握しなければ、自分がどこにいるのかすらわからないまま暮らすことになる。母の部屋の壁紙に残されていた言葉が、ポケットの中で小さく折り畳まれている。「声がきこえる」「だめ、きいてはだめ」「にしの」——その断片を握るたびに、指先に紙の脆さが伝わった。崩れそうなほど古い。母がこれを書いたのはいつなのか。十六の頃か、それとももっと前か。

朝食後、使用人たちが台所で片付けをしている隙に、母屋の一階を端から歩いた。玄関から右手に居間、奥に台所と風呂場。左手に客間が二つ続き、その奥に——仏間があった。

重い引き戸を開けた瞬間、空気が変わった。線香の匂いではない。もっと乾いた、埃と漆の入り混じった匂い。蝋燭は灯っていない。薄暗い室内に、仏壇が鎮座していた。黒檀の大きな仏壇。金箔の装飾は控えめだが、木自体が深い光沢を放っている。何世代にもわたって磨き続けられた艶だった。

仏壇の前に正座した。扉は開いている。中央に本尊。その左右に、位牌が並んでいた。

多い。

一つ、二つと数えるような数ではなかった。大小さまざまな位牌が、仏壇の段を埋めるように置かれている。奥の段にも、さらに奥にも。手前の新しいものから奥の古いものへ、時間が遡るように並んでいた。これだけの位牌があるということは、朽葉家は相当に長い歴史を持つ家なのだろう。それ自体は不思議ではない。

不思議だったのは、戒名だった。

手前の位牌から順に読んでいく。仏教の戒名は読み慣れないが、構成にはある程度の規則がある。院号、道号、戒名、位号。その中に含まれる文字から、おおよその性別や年齢が推測できることがある。位号が「信女」であれば女性。「大姉」も女性。男性を示す「居士」「信士」がないわけではなかった。あった。けれど、若い女性のものが、異様に多かった。

「信女」の位牌を数えた。手前から五つ。さらに奥に三つ。その奥にも。全部で——数えるのをやめた。数えるほどに、指先が冷えていく気がした。古い家では子供が早くに亡くなることは珍しくなかった時代もある。けれどこれは子供ではない。「信女」は成人前後の若い女性に用いられることが多い。十代後半から二十代。同じ家で、これほどの数の若い女性が。

そしてもう一つ。

仏壇の周囲に、写真が一枚もなかった。

普通、仏壇には遺影を飾る。額に入れた故人の写真を仏壇の上や横に立てかける。それがない。位牌だけが無言で並んでいる。顔のない死者たち。どんな顔をしていたのか、どんな表情で笑ったのか、それを示すものが何一つない。

仏間の壁にも写真はなかった。床の間にも。掛け軸が一幅かけてあるだけで、家族写真の類は見当たらない。思えば、この屋敷に来てから一枚も写真を見ていない。玄関にも、廊下にも、居間にも。

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「写真がありませんね」

昼食の席で、私は祖母に言った。

祖母の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。煮魚の身をほぐす手が空中で静止し、すぐにまた動き出す。その間、一秒にも満たない。けれど私は見逃さなかった。

「仏壇にも、お部屋にも。この家のどこにも、写真が一枚もないんです」

「ああ」

祖母は煮魚を口に運び、咀嚼し、飲み込んでから答えた。一連の動作が終わるまで待たされた。急いでいないのではなく、答えを整えているのだと感じた。

「うちは写真を撮らない家系なのです。代々、そういう風習で」

「風習、ですか」

「昔の人は、写真に魂を抜かれると信じていたでしょう。その名残です。古い家にはよくあること」

声は穏やかだった。けれど、祖母の目は私を見ていなかった。味噌汁の表面を見つめている。湯気が祖母の顔の前で揺れ、表情を曖昧にしていた。

「位牌が多いですね。若い女性の」

今度は箸が止まらなかった。祖母は食事を続けながら、何でもないことのように答えた。

「山の暮らしは厳しいものです。昔は医者も遠かった。若くして亡くなる者は珍しくなかった」

嘘だとは言い切れない。事実かもしれない。けれど事実だとしても、それはすべてを説明してはいない。若い男性の位牌が極端に少ない理由を、山の暮らしでは説明できない。厳しい環境なら男女を問わず命を落とすはずだ。なぜ女ばかりが。

私がそこまで考えていることを、祖母は気づいているだろうか。気づいていて、なお、この程度の説明で済ませようとしているのか。

問い詰めることもできた。けれど、直感がそれを止めた。今はまだ早い。この屋敷で、正面から問いを投げても答えは返ってこない。壁紙の裏に文字を隠さなければならなかった母のように、ここでは真実は表に出てこないのだ。

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午後、廊下で若い女性とすれ違った。

三人の使用人とは違う。二十代前半か、もう少し若いか。髪を一つに束ね、地味な紺色の作業着を着ている。廊下の雑巾がけをしていたらしく、バケツを脇に置いてしゃがんでいた。私が近づくと顔を上げた。

目が合った。

他の使用人たちとは違った。彼女は目を逸らさなかった。私の顔を見て、一瞬だけ息を呑んだ。それから、慌てて頭を下げた。

「お嬢様、失礼いたしました」

「あなたは——」

「千歳と申します。先月から、こちらでお世話になっております」

先月から。つまり、私が来る少し前に雇われた。この屋敷で、千歳だけが自分の名前を名乗った。それだけで、彼女が他の使用人たちとは異なる存在であることがわかった。

「千歳さん」

「はい」

「この家のこと、何か知っていますか」

唐突な質問だった。けれど千歳は驚かなかった。むしろ、いつかそう聞かれると思っていたような顔をした。バケツの水が、かすかに波立っている。千歳の手が、無意識にバケツの縁を握っていた。

「何か、とおっしゃいますと」

「仏壇の位牌のこと。若い女の人が多いこと。写真が一枚もないこと」

千歳は立ち上がった。廊下の左右を見た。誰もいないことを確かめるように。それから、声を落とした。

「あまり、聞いて回らないほうがいいですよ」

「どうして」

「前のお嬢様も、同じことを聞いていました」

前の。お嬢様。

言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。前のお嬢様。私の前に、この屋敷にもう一人、「お嬢様」と呼ばれる存在がいた。

「前の——どういう意味ですか」

千歳は答えなかった。代わりに、もう一度廊下の奥を見た。その視線の先に、何かの気配がある。足音はしない。けれど空気が微かに動いた。誰かが角の向こうに立っている——そんな感覚。

「お部屋にお戻りになってください」

千歳の声が変わっていた。さっきまでの、目を逸らさない率直さが消えている。使用人の声に戻っていた。顔を伏せ、バケツを持ち上げ、足早に廊下の反対側へ去っていく。束ねた髪が背中で揺れた。

一人残された廊下で、私は千歳が見ていた方角を見た。

角の向こうには誰もいなかった。けれど、床板が微かに温かかった。ついさっきまで、誰かの足がそこにあったかのように。

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自室に戻り、障子を閉めた。

畳の上に座ったまま、千歳の言葉を反芻する。前のお嬢様も同じことを聞いた。同じことを。位牌の数。写真の不在。若い女たちの死。それを問うた「前のお嬢様」は、今どこにいるのか。千歳は先月から雇われたと言った。けれど「前のお嬢様」のことを知っている。誰かから聞いたのか。それとも——。

ポケットの中の壁紙の欠片に手を触れた。「声がきこえる」。母はこの屋敷で何かを聞いた。位牌に名前だけを残して消えていった若い女たちも、同じものを聞いたのだろうか。

窓の外が暗くなり始めていた。西の離れの輪郭が、夕闇に溶けかけている。

今夜もまた、廊下に足音が来るだろう。そしていつか、足音は立ち止まるだけでは済まなくなる。障子を開ける。敷居を跨ぐ。私の耳元で、何かを囁く。

「前のお嬢様」が聞いたのと同じ声を、私もいずれ聞くことになる。

仏壇の位牌が、瞼の裏に浮かんだ。顔のない死者たちの列。その列の一番端に、まだ文字の刻まれていない空白の位牌が一つ、用意されているような気がしてならなかった。

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