第2話
第2話
非常階段を駆け下りる。足元は暗い。非常灯は切れているのか、それとも最初から設置されていないのか。コンクリートの段差が不規則で、一段ごとに足首が軋む。手すりの錆びた鉄が掌を削る感触だけが、方向を教えてくれた。錆の粉が指の腹にこびりつき、血の匂いに似た金属臭が鼻腔を刺す。
凛の足音が半拍遅れて追いかけてくる。ヒールじゃない。スニーカー。ゴム底がコンクリートを蹴る、乾いた軽い音。走ることを想定していた。最初から。その事実が、氷室の中で冷たく積み上がっていく。
五階。四階。三階。
踊り場を折り返すたびに、階下から上がってくる空気の温度が変わる。ビルの体温を感じる。古い雑居ビル特有の、埃と煙草とカビの入り混じった匂い。
頭上で扉が開く音。金属が壁にぶつかる鈍い衝撃音が吹き抜けを伝って落ちてきた。追手がこのビルに入った。階段の吹き抜けに足音が反響する。二人分。重い。速い。靴底が硬い——革靴か、タクティカルブーツか。どちらにせよ、走り慣れた人間の足音だった。
「裏口は」
凛が息の合間に答える。「一階、厨房を抜けた先」
知っている。このビルの構造を。それも最初から。
二階の踊り場で氷室は凛の肩を掴み、階段から引き離した。肩甲骨の薄さが掌越しに伝わる。小さい体だ。だが筋肉は緊張していても硬直していない。恐怖で固まっていないということだ。防火扉を押し開ける。蝶番が軋み、錆びた悲鳴を上げた。飲食店のバックヤード。段ボールと業務用冷蔵庫の隙間を縫う。厨房は閉店後で暗かったが、換気扇がまだ回っていた。低い唸りが天井から降ってくる。油と焦げたニンニクの残り香。床のグリストラップが足首を掬いかける。凛の腕を引いて避けさせた。凛は声を上げなかった。掴まれた腕の方向に即座に体を預ける。訓練された動き——とまではいかないが、少なくとも人に身体を預けることに慣れている動きだった。
裏口の鉄扉を蹴り開けると、路地裏の湿った空気が顔を叩いた。昼間の熱気が冷えきれずに地面から立ち上る、生温い湿気。雨上がりの匂いがした。
幅一メートルほどの路地。両側をビルに挟まれ、頭上にはむき出しの配管と室外機。室外機のファンが断続的に唸り、温風を吐き出している。足元にはゴミ袋と水溜まり。黒いビニール袋の隙間から甘ったるい腐敗臭が漂う。歌舞伎町の裏側——表通りのネオンが届かない、この街のもうひとつの顔だった。
左に曲がる。右に曲がる。氷室は路地の分岐を記憶から辿った。十二年、この街で人を探してきた。地図に載らない抜け道は体が覚えている。壁の落書き、配管の形、排水溝の位置。暗闇の中でも指先と足裏が道を知っている。
背後の足音が遠ざかる。追手は階段を下り続けている。一階に着く頃には、こちらは二ブロック先にいる。
だが安心はしない。相手はこちらの行動を予測してビルに先回りしていた連中だ。歌舞伎町の地理を知っている。合流地点を設定しているかもしれない。時間の問題だ。
路地を抜け、雑居ビルの隙間を縫い、ラブホテル街の裏手に出た。ここは客の出入りが多く、監視カメラの死角も多い。人の流れに紛れられる。ラブホテルの看板が赤と紫の光を路面に落とし、行き交う人影を匿名の輪郭に変えている。
氷室は速度を落とし、凛を薄暗いビルの壁際に押し込んだ。
壁に背中を打ちつけた凛が、小さく呻く。だが抵抗はしなかった。氷室の目を真っ直ぐに見返している。街灯の届かない影の中で、凛の瞳だけが微かな光を拾って濡れたように光っていた。恐怖はまだそこにあった。だがそれだけじゃない。覚悟。三日前にも見た、あの覚悟の色。
「話せ」
「——何を」
「全部だ」
凛の唇が震える。視線が一瞬だけ横に逸れ、すぐ戻った。逸れた先には何もない。壁とゴミ袋だけだ。逃げ場を探したのではない。言葉を探したのだ。
「私は——『帳』の人間だった」
帳。聞いたことがある。裏社会の噂話程度に。監視を生業とする組織。実態は誰も知らない。都市伝説に近い存在だと思っていた。
「末端の情報整理要員。ターゲットの行動パターンを分析して、報告書にまとめる仕事。二年やった」
凛の声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落とすことで、かろうじて言葉を繋いでいる。呼吸が浅い。走った疲れだけではない。言葉を吐くたびに、何かを手放しているような息遣いだった。
「三ヶ月前、私はあるファイルにアクセスした。権限外のファイル。そこに——」
凛が言葉を切った。唇を噛む。下唇の皮膚が白くなるほど強く。氷室は待った。
「——あなたの名前があった」
「俺の」
「氷室蓮司。回収対象リスト。優先度は最高位」
意味が掴めない。回収。さっき屋上の男も同じ言葉を使った。「帳」が俺を回収したがっている。理由は——
「なぜだ」
「わからない。ファイルの核心部分は暗号化されていて、私のレベルでは——」
「それで組織を裏切った? 見ず知らずの俺のために?」
凛が首を横に振った。
「あなたのためじゃない」
声が硬い。さっきまでの震えが消えている。これが本音を語るときの声だと、氷室は思った。
「ファイルにアクセスした時点で、私は終わりだった。帳は内部の閲覧ログを全て記録している。権限外アクセスは即粛清対象。逃げるしかなかった。あなたに接触したのは——」
「俺を囮にして、組織の目を分散させるため」
凛が黙った。肯定の沈黙だった。視線を逸らさなかったのは、せめてもの誠意のつもりなのか、それとも観察を続けているのか。
氷室は凛から手を離し、一歩下がった。怒りはなかった。あるのは冷えた納得だけだ。理屈は通る。組織に追われる人間が、同じく組織に狙われている人間に接触する。追手のリソースが分散する。合理的だ。
「結果的にあなたを罠にはめた。それは事実。でも——」
「依頼料の三百万はどこから出た」
「帳から持ち出した運営資金の一部」
「大した度胸だ」
皮肉ではなかった。組織の金を盗み、組織の標的に接触し、その標的を餌にして逃げる。末端の情報整理要員にしては手際が良すぎる。この女は見た目以上にやる。
「それで、俺の名前があったファイル。コピーは」
凛がコートの内ポケットに手を入れた。小さなUSBメモリ。黒い樹脂製の、どこにでもある安物。だがそこに入っている情報の重さは、この街のビル一棟分に匹敵するだろう。
「暗号化されたままだけど、持ち出した」
氷室はUSBを受け取らなかった。まだだ。今はまず、この場所から動く必要がある。
ポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認しようとした。画面を点灯させた瞬間——凛の手が伸びて、氷室の手首を掴んだ。細い指だが、力は強い。爪が皮膚に食い込むほどの。
「消して」
凛の声が鋭い。さっきまでの告白の声とは別人のように硬く、速い。
「帳の監視網は三層構造。顔認証カメラ、交通系ICの履歴追跡、そして基地局測位。そのスマホ、電源が入っている限り基地局に位置を送り続けている。ここに来るまでの移動経路は全部記録されてる」
氷室の指が止まった。
「あの二人と接触した時点で、あなたの端末IDは帳のデータベースに登録された。今この瞬間も、百メートル単位であなたの位置が——」
言い終わる前に、氷室はスマートフォンを地面に叩きつけた。アスファルトの上で画面が砕け、基板が露出する。それを踵で踏み潰した。ガラスの破片が散る。もう一度。液晶の残骸が路地の水溜まりに沈んだ。光の粒子が水面で一瞬だけ揺れて、消えた。
凛が自分のポケットを示す。「私のは依頼に行く前に捨てた」
やはり、この女は準備していた。
通信手段を失った。地図もない。連絡先もない。二人だけで歌舞伎町の闇の中に立っている。追手は三層の監視網を持ち、こちらは何も持っていない。
——いや。
氷室は路地の先を見た。ネオンの光が届かない暗がり。その向こうに、この街の裏側を知り尽くした十二年分の記憶がある。
「ついてこい」
凛に背を向けて歩き出す。信用はしていない。だが観察する価値はある。この女が何を隠しているのか。「帳」が俺に何を求めているのか。そして——回収対象リストに載った俺自身が、何者なのか。
歌舞伎町の夜は深い。だがこの街の裏道なら、夜明けまでに人間二人を呑み込んで消すことができる。
氷室は歩調を速めた。背後で凛の足音が、迷いなくついてくる。