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帳の目、探偵の目

第1話 第1話

第1話

第1話

歌舞伎町の空気は、腐った果実と排水溝の甘い悪臭が混ざり合っている。どこかの店から漏れ出すスピーカーの重低音が、ビルの壁に反射して輪郭を失い、街全体が一つの巨大な心臓のように脈打っていた。客引きの声。酔客の笑い声。タクシーのクラクション。それらが混ざり合って、この街だけに流れる時間を作り出している。

午前二時。雑居ビルの屋上で、氷室蓮司は双眼鏡を構えていた。風はない。四月の夜気がコンクリートから立ち上る微かな熱を含んで、首筋に纏わりつく。腹ばいの姿勢を二時間続けた体は、肘と肋骨がコンクリートの凹凸を正確に記憶していた。冷たさはとうに消え、体温で温まった接地面だけが妙に生々しい。口の中に溜まった唾を飲み込むと、乾いた空気に灼かれた喉が痛んだ。

向かいのビル、七階。カーテンの隙間から漏れる蛍光灯の青白い光。そこに、標的がいるはずだった。

氷室は姿勢を変えずに待つ。屋上の縁に腹ばいになり、双眼鏡のレンズだけを建物の影から覗かせる。こういう仕事は慣れている。人間を見つける。居場所を特定する。それだけだ。護衛だの保護だのは他の誰かがやればいい。自分の仕事は観察すること。見ること。見つけること。それ以上でもそれ以下でもない。そう自分に言い聞かせ続けて、もう十二年になる。

——三日前のことを思い出す。

事務所のドアを叩いたのは、二十代後半の女だった。桐生凛。黒いコートに身を包み、化粧は薄く、目の下に隈。どこにでもいる疲れた女に見えた。ただ一点を除いて。

目だ。

凛の目には、演技では出せない種類の恐怖が宿っていた。氷室はこれまで数えきれないほどの依頼人を見てきた。金のために嘘をつく奴。復讐のために泣く奴。同情を引くために震えてみせる奴。そのどれとも違った。あの目は、何かを見てしまった人間の目だった。見なければよかったものを見て、それでも目を逸らすことができなかった人間の目。瞳孔がわずかに開いたまま固定され、まばたきの間隔が不規則に乱れている。体が発する無意識の警報信号を、氷室は見逃さなかった。

「ある人物の居場所を突き止めてほしいんです」

凛はそう言って、写真を一枚テーブルに置いた。指先が微かに震えていた。写真の角が少し折れている。何度もポケットから出し入れしたのだろう。四十代の男。鋭い目つき。特徴のない顔。スーツの襟元だけが写った背景からは、撮影場所の手がかりは読み取れない。

「所在確認だけか」

「はい。見つけていただければ、あとは別の方が——」

「護衛を引き継ぐ、と」

凛は頷いた。その動作はぎこちなく、首の筋肉が強張っているのが見て取れた。報酬は前払いで三百万。所在確認だけの仕事にしては破格だった。普通なら怪しむ。氷室も怪しんだ。だが、あの目が引っかかった。

「なぜ警察に行かない」

凛の唇が一瞬だけ歪んだ。笑おうとしたのか、泣きそうになったのか、その境界線上の表情だった。

「行けません。それだけは——行けないんです」

理由は聞かなかった。聞いても嘘が返ってくるだけだと、経験が教えていた。

恐怖の奥に、もうひとつ別の感情が見えた。覚悟だ。何かを賭けている人間の目。全財産か。人間関係か。あるいは——命そのものか。

氷室は金に興味がないわけではない。だが、動機はそこじゃなかった。あの目の奥にある真実を、ただ見たかった。観察者としての本能が、彼を動かした。真実は常に、人間の目の奥に隠れている。言葉は飾れる。表情は作れる。だが目だけは——目の奥の微細な筋肉の動きだけは、意志では制御できない。

「引き受ける」

そう答えた自分を、今さら悔いても仕方がない。

双眼鏡の視界が揺れる。

向かいのビル七階、カーテンが動いた。人影が窓際に立つ。氷室は呼吸を止め、ピントを合わせた。レンズの中で焦点が合い、ぼやけた輪郭が鮮明な顔貌へと変わる。写真の男だ。間違いない。四十代、鋭い目、頬骨の高い顔。額に薄く汗が光っている。男は窓の前に立ち、こちらの方角を——

妙だ。

男が動かない。窓際に立ったまま、まるでカメラの前でポーズを取るように静止している。両手は体の横に自然に下ろされ、表情には緊張の色がない。逃亡中の人間の振る舞いじゃない。追われている人間は窓から離れる。光を避ける。人目を遮る。それが本能だ。動物が茂みに身を隠すのと同じ、種の記憶に刻まれた生存本能。

なのにこの男は、見せている。

自分の姿を、誰かに。

胃の底が冷えた。十二年のキャリアで培った直感が、サイレンのように鳴り始める。氷室の背筋を冷たいものが走った。双眼鏡から目を離す。暗闇に慣れた視界が、屋上の全体像を捉え直す。出入口は一つ。非常階段に繋がる鉄扉。来たときは閉まっていた。鉄扉の塗装は剥げかけ、蝶番には錆が浮いていた。開けば音がする。そう確認したはずだった。

今、その扉が五センチ開いている。

音はしなかった。蝶番に油を差した。つまり、こちらが来ることを知っていた。最初から。

金属音。

扉が押し開かれ、二つの人影が屋上に滑り出てきた。革靴の底がコンクリートを叩く乾いた音。足運びに迷いがない。暗闇の中でも配置を把握している動き方。訓練を受けた人間の足音だ。二人とも大柄で、片方はジャケットの内側に手を入れている。肩幅の広い輪郭が、背後のビルの明かりに黒く浮かび上がった。

氷室は双眼鏡を静かに地面に置いた。立ち上がらない。腹ばいのまま、相手との距離を測る。八メートル。走れば三秒。視界の端で、二人の足の位置を確認する。重心のかけ方。どちらの手が自由か。呼吸のリズム。

「ご苦労さん、探偵」

低い声が夜気を裂いた。声の主は左側の男。四角い顎に短い髪。笑っていた。唇の片側だけが持ち上がる、愉悦を隠さない笑い方だった。

「お前がここに来るまでが、こっちの仕事だった」

意味を理解するのに、一秒もかからなかった。

所在確認の依頼。破格の報酬。逃げない標的。すべてが繋がる。一本の線になって、氷室の脳裏を貫く。標的の男は囮だ。本当に追い詰められていたのは——

俺か。

三百万は餌だった。凛の恐怖は——あれは何だった。演技か。本物か。今はどちらでもいい。考えるのは生き延びてからだ。

氷室の思考が加速する。二人の立ち位置。ジャケットの膨らみ。扉の向こうにもう一人いる可能性。屋上のフェンス。隣のビルとの距離。四メートル。飛べる。下を見るな。距離だけ見ろ。

右側の男が一歩踏み出した。靴底がコンクリートの砂粒を擦る音が、異様に大きく聞こえた。「大人しくしてくれると助かるんだがな。上からの指示は『無傷で回収』だ」

回収。物みたいに言う。

氷室は答えなかった。答える代わりに、地面に置いた双眼鏡を掴み、左側の男の顔面に向けて投げた。金属とガラスの塊が夜気を切り裂いて飛ぶ。

男が反射的に腕を上げた瞬間、氷室は跳ねた。腹ばいから一気に立ち上がり、フェンスに向かって走る。三歩。四歩。コンクリートを蹴る足裏の感覚が脳に直結する。フェンスの上部パイプを掴み、体を振り上げる。靴底が金属を蹴る感触。冷たいパイプが掌に食い込む。腕の筋肉が軋む。肩の関節が悲鳴を上げる。

背後で怒声。

「止まれ!」

止まらない。フェンスを越え、夜の空気の中に身を投げる。一瞬の浮遊感。内臓が浮き上がる感覚。眼下にネオンの光が散らばり、風が耳元で唸る。四メートル下の隣のビル屋上が迫る。着地の衝撃が膝から腰に突き抜けた。足首が捻れかける。転がる。受け身。肩と背中でコンクリートの衝撃を分散させる。すぐに立つ。右膝に鈍い痛みが走ったが、動ける。それだけでいい。

階下から足音が聞こえた。非常階段を誰かが駆け上がってくる。軽い足音。革靴じゃない。氷室は身構えた——が、現れたのは黒いコートの女だった。

桐生凛。息を切らし、目を見開いている。額に汗が浮き、髪が頬に張り付いていた。三日前と同じ恐怖の目。だが今は、そこに切迫した何かが加わっていた。罪悪感だ。氷室にはそれが読めた。

「逃げて——」

凛の声が震える。呼吸が荒く、言葉の合間に喘ぎが混じる。

「あなたが標的なの」

氷室は凛を見た。三秒。それだけで十分だった。彼女の恐怖は本物だ。同時に、その言葉の意味も本物だ。瞳孔が開き、唇の血の気が失せている。これは演技じゃない。三日前と同じ——いや、三日前よりもさらに深い恐怖が、彼女の全身を支配していた。

護衛依頼は最初から罠だった。そして凛は——それを知っていた。知っていて、依頼に来た。知っていて、今ここにいる。

問い詰めるのは後だ。

背後のビルから男たちがフェンスを越えようとする気配がした。金属のフェンスが軋む音。罵声が風に乗って届く。氷室は凛の腕を掴み、非常階段へ引きずるように走り出した。凛の腕は細く、コートの布越しに伝わる体温は驚くほど冷たかった。

歌舞伎町のネオンが、眼下で無関心に瞬いている。

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