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冤罪刑事の追跡夜

第2話 第2話「通報という一語」

第2話

第2話「通報という一語」

通報。その一語が頭蓋の内側で跳ね返る。

槙島は奥歯を噛んだ。逃走本能が背骨を駆け上がる。三年間、警察の気配を感じるたびに走ってきた。路地に、地下に、人混みに。身体が覚えている——追われる獣の反射。心臓が肋骨の裏で暴れ、視界の端が白く滲む。アクセルから足を離しかけた。

離すな。

自分の声が、頭の中で反響した。三年前の自分とは違う声だった。あの頃より低く、あの頃より乾いている。

左手がダッシュボードの下に伸びる。配線を束ねたビニール袋の奥、グローブボックスの底に押し込んだポータブルラジオ。三年前に質屋で買った旧式の広帯域受信機。塗装の剥げたボディに指が触れた瞬間、冷たい金属の感触が掌に刺さる。周波数を合わせる指は、かつて何百回と繰り返した動作を正確に再現した。

152.81MHz。警視庁系の無線。

ノイズが車内に満ちる。ザザ、ザザ、と砂嵐のような音。槙島は音量を絞り、耳を寄せた。仁科のクラウンは追い越し車線を百三十キロで飛ばしている。距離は約八十メートル。深夜の首都高に入り、オレンジ色のナトリウム灯が等間隔で車内を染めては消える。光と闇が交互に顔を撫でるたび、バックミラーに映る自分の顔が別人のように見えた。

無線が割れた。

『——湾岸署から本部、東名上り海老名SA付近で不審車両の通報あり、通報者は現職、品川330す7721——』

仁科は自分のナンバーを伝えていない。通報内容は軽バンの追跡だけだ。つまり仁科は、自分が鑑識資料を持ち出している事実を隠したまま、槙島だけを排除しようとしている。

『——追跡車両は白の軽バン、ナンバー不明、東名から首都高方面へ移動中——』

槙島の頭が冷えた。仁科の狙いが読める。パトカーを呼び寄せて槙島を捕まえさせ、自分は証拠を処分する。指名手配犯が高速で暴走すれば、射殺も許容される状況が作れる。仁科にとっては一石二鳥だ。

残り時間を計算する。海老名からの通報なら、最寄りの高速隊は大黒。距離と配備状況から逆算して、ここに到達するまで——十二分、いや、深夜の配置なら十五分。十五分で仁科を止めなければ、全てが終わる。槙島はステアリングを握り直した。汗で滑る掌を、ジーンズの腿で一度だけ拭った。

無線がもう一度鳴る。

『——了解、大黒高速隊より二台出動。湾岸線合流地点で待機態勢——』

やはり大黒だ。二台。南行きの合流を押さえに来る。仁科が湾岸線に入ったのは偶然じゃない。追手を呼びやすいルートを選んでいる。元は同じ課だ。パトカーの待機ポイントも知っている。

だが俺も知っている。

槙島はハンドルを微調整した。湾岸線の構造が頭の中で立体的に展開する。この先、大井南の分岐。そこを過ぎると東京港トンネル。トンネル内は片側二車線に狭まる。追い越しが困難になる区間だ。その手前で仕掛けなければ、大黒の高速隊と鉢合わせる。

仁科のクラウンが車線を変えた。走行車線に寄る。減速はしていない。わざと視界から外そうとしている。三車線の高速道路で、トラックを盾にする動き。捜査一課の追跡回避訓練そのままだ。

槙島は追い越し車線を維持した。あえて並走しない。仁科の視界から消える。トラックの影に入り、クラウンの位置をテールランプの反射光だけで追う。狩る側の技術。追い詰める側の呼吸。三年間封じ込めていた刑事の感覚が、錆びた機械のように軋みながら蘇る。指先の震えが止まっていた。代わりに、視界が研ぎ澄まされていく。路面の反射、ガードレールの角度、前方車両の挙動——すべてが情報として脳に流れ込む。

大井南の分岐標識が見えた。

仁科が動いた。ウインカーなし。急な車線変更で分岐路に飛び込む。だが向かったのは湾岸線の直進ではない。左に逸れた。臨海副都心方面。

想定外のルートだ。

槙島の目が細まる。湾岸線をまっすぐ行けば、横浜方面。仁科が電話で言った「いつもの場所」は横浜の臨海部だと踏んでいた。だが仁科は都心に向かっている。処分場所を変えたのか。いや——槙島は無線の内容を反芻した。大黒高速隊が湾岸線合流で待機する。仁科はそれを知っている。通報者本人だ。待機ポイントを迂回し、別ルートで横浜方面に抜けるつもりだ。

臨海副都心から首都高湾岸線に再合流するルートが一つある。

有明JCT。

あそこで11号台場線に入り、レインボーブリッジを渡って芝浦。そこから1号羽田線に乗り換えれば大黒の待機地点を完全に迂回できる。所要時間は約十二分。遠回りだが、パトカーを避けるには合理的なルートだ。

合理的すぎる。仁科は計算して走っている。焦りがない。

十年前の記憶が、不意に脳裏を横切った。捜査会議で仁科が地図を広げ、逃走経路を三手先まで読んで見せたときの、あの静かな自信。同じだ。あの頃と何も変わっていない。変わったのは、その能力が向けられる先だけだ。

ならば、こちらも計算で返す。

槙島は分岐を直進した。仁科を追わない。

湾岸線を直進し、東京港トンネルを抜ける。トンネルを出た先の大井JCTで1号羽田線に乗る。仁科が有明経由で芝浦に出てくるなら、1号羽田線の合流地点で先回りできる。距離は短いがトンネル区間で速度が出せない。仁科の迂回ルートと、ほぼ同じ時間で着く計算だ。

ギャンブルだ。仁科が有明に向かわなければ、完全に見失う。

だが槙島には根拠があった。仁科良介という男を、十年見てきた。合理的で、計画的で、感情で動かない男。パニック時でも最適解を選ぶ。それが仁科の強さであり、同時に——読みやすさだ。最適解が一つしかないとき、仁科は必ずそれを選ぶ。迷わない人間は、迷わないからこそ予測できる。

東京港トンネルに入る。天井のLED照明が白い光の帯になって流れる。トンネルの壁が迫り、軽バンのエンジン音が反響して轟く。排気の匂いが換気口から車内に忍び込み、喉の奥を焼いた。速度計は百四十キロを指している。この車の限界が近い。ボンネットの隙間から白煙が断続的に漏れている。ハンドルに伝わる振動が、さっきより明らかに大きい。エンジンマウントが悲鳴を上げている。オーバーヒートまで、あと何分持つか。計器盤の水温計の針が、赤いゾーンの縁で痙攣するように揺れていた。

無線が鳴った。

『——大黒高速隊、対象車両を補足できず。湾岸線合流地点に車両なし。捜索範囲を拡大——』

パトカーが空振った。仁科の迂回が成功している。ということは、仁科は予想通り有明方面に逸れた。

槙島の口角が僅かに上がった。笑ったのではない。確信だ。

トンネルを抜ける。夜気が車内に流れ込む。湾岸の潮の匂いが混じった冷たい風が、汗ばんだ首筋を撫でた。前方に大井JCTの分岐が見える。ここで1号羽田線に入る。合流地点まで約四キロ。仁科がレインボーブリッジを渡り終えるまでの時間を逆算する。ほぼ同着。いや、仁科は芝浦JCTの合流で減速を強いられる。その数秒が差になる。

1号羽田線に入った。都心方面。片側二車線の狭い高速道路。左右にビルの壁が迫る。夜の東京の無数の窓が、消灯した暗い目で見下ろしている。

芝浦JCTの合流が近づく。

槙島は走行車線に寄り、速度を百キロまで落とした。合流路の先を見る。レインボーブリッジ方面からの車線が、右から本線に注ぎ込む地点。そこに——。

ヘッドライトが現れた。黒いクラウン。

読み通りだ。

仁科のセダンが合流路から本線に滑り込んでくる。槙島の軽バンとの距離は、わずか三十メートル。仁科が気づくより先に、槙島はその横顔を視認した。ナトリウム灯の下、強張った顎の線。十年前と同じ横顔だった。ただし、あの頃は——あの横顔は、犯人を追う側にあった。

仁科がこちらに気づいた。ブレーキランプが点灯し、すぐに消える。バックミラー越しに、仁科の顔が見えた気がした。驚愕か、恐怖か——いや、あの男はそんな顔をしない。計算が狂った苛立ち。それだけが、あの瞳に浮かんでいるはずだ。

槙島はアクセルを踏み込んだ。三十メートルが二十メートルに縮まる。

二台の車が、深夜の1号羽田線を併走する。かつて同じ課で、同じ事件を追い、同じ正義を信じた二人の男。一人は裏切り、一人は堕ちた。

仁科のクラウンの窓が、ゆっくりと開いた。

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