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冤罪刑事の追跡夜

第1話 第1話「四十二秒の監視カメラ」

第1話

第1話「四十二秒の監視カメラ」

監視カメラが首を振る周期は、四十二秒。

槙島透はフードの下で唇を動かし、秒数を刻んでいた。深夜二時の東名高速・海老名サービスエリア。大型トラックの排気が白く漂う駐車場の隅で、自販機の明かりにも背を向けて立っている。排気の匂いに混じって、どこかのトラックの荷台から冷凍食品の甘ったるい匂いが風に乗ってくる。舌の奥に、今朝食べた賞味期限切れのパンの味がまだ残っていた。乾いた小麦粉の塊を水で流し込んだだけの朝食。それすら手に入らない日もある。四十二秒。カメラの首が左端に達する。槙島は身を屈め、トラックの影からコンクリート柱の陰へ移動した。膝が軋んだ。三年前には感じなかった痛みだ。路上生活は確実に身体を蝕んでいる。

三年前まで、俺はこの国の法を執行する側にいた。

警視庁捜査一課。殺人犯を追い、証拠を積み、法廷に送る。それが仕事だった。今は自販機の釣り銭口に指を突っ込んで小銭を探す生活だ。痩せた指が革ジャンのポケットに触れる。中には三年かけて集めた写真、ボイスレコーダーの切れ端、メモ帳三冊分の走り書き。そして今夜ようやく特定した、一台の黒いセダンのナンバー。

品川330 す 7721。

そのナンバーの車が、今夜この駐車場に来る。情報屋が命と引き換えに残した最後の一片だ。槙島は柱に背をつけ、駐車場の入口を睨んだ。四月の夜風が首筋を刺す。フードの中で、こめかみの血管が脈打っていた。

来い。

待つことには慣れている。三年間、ずっと待っていた。ゴミ箱を漁りながら、橋の下で凍えながら、一日一食のカップ麺を啜りながら——ただこの瞬間を待っていた。

復讐がしたいわけじゃない。奪われた人生を返してもらう。それだけだ。

ポケットの底に触れた指が、折り畳まれた紙片に当たる。取り出さなくても中身は知っている。娘——凛が五歳のときに描いた家族の絵。棒人間が三つ。一番大きいのが俺で、真ん中が凛で、端にいるのが美咲。三人とも笑っている。クレヨンの蝋が指の体温で少しだけ柔らかくなる。何百回も触れた紙は角が丸く擦り減っていて、折り目から千切れかけている。それでも捨てられない。これが俺に残された唯一の、かつて家族だった証拠だ。

美咲は離婚届を置いて消えた。凛は児童養護施設に送られた。一度だけ施設の近くまで行った。フェンス越しに凛の姿を見つけた瞬間、通報されかけて逃げた。あのとき凛は、こっちを見ていたのか、見ていなかったのか。今でもわからない。

二時十七分。

ヘッドライトが駐車場入口を舐めた。槙島の背筋が伸びる。黒いセダン。トヨタ・クラウン。フロントグリルの形状、間違いない。車はゆっくりと駐車場を横切り、大型車エリアの手前で停まった。エンジンが切られる。静寂が駐車場に落ちた。トラックの冷凍機が低く唸る音だけが、夜気に溶けている。

品川330——ナンバーを確認する。す 7721。

心臓が肋骨を叩く。呼吸を整える。まだ動くな。相手を確認しろ。元刑事の訓練が、逸る身体を押さえつけた。右手の指が無意識に拳を握り、爪が掌に食い込む。痛みで意識を繋ぎ止める。三年間、何度も頭の中で描いた場面だ。だが想像と現実は違う。足の裏から這い上がってくる震えを、槙島は奥歯を噛んで殺した。

運転席のドアが開いた。

革靴が地面に降りる。紺のスラックス。グレーのジャケット。左手首に銀の腕時計。男は車を降りると、周囲を一度見回してからトランクに向かった。

その横顔に、サービスエリアの照明が当たった。

槙島の血が凍った。

仁科良介。

警視庁捜査一課、現職警部補。三年前、俺の同僚だった男。事件の夜、俺のアリバイを唯一証言できる位置にいた男。「俺が証言する。大丈夫だ、槙島」。そう言った男。あの夜、仁科は俺の肩を掴んで言ったのだ。接見室のアクリル板越しに、まっすぐこちらを見て。その目を信じた。信じるしかなかった。

結局、仁科は法廷に立たなかった。証言を求める弁護士の連絡に応じず、「槙島とは当夜接触していない」と供述を変えた。なぜだ、と問う余裕もなく、俺は殺人犯にされた。

仁科がトランクを開ける。取り出したのは、段ボール箱。側面に赤いテープが貼られている。あのテープは——鑑識資料の封印だ。現職の警部補が、深夜のサービスエリアで、鑑識資料を持ち出している。

「ああ、俺だ」

仁科が携帯電話を耳に当てた。声は低く、抑えられているが、深夜の駐車場では空気を伝ってよく届く。槙島はコンクリート柱の影から半歩も動けない。心臓の音が耳を塞ぐ。だが聞き逃すわけにはいかない。耳を研ぎ澄ます。呼吸を止めた。肺の中の空気が重く淀む。

「——処分は明朝までに完了させる。場所はいつもの——」

処分。

その一語が、槙島の脳を灼いた。三年分の怒りが腹の底で煮え立つ。あの箱の中身が消されたら終わりだ。俺の冤罪を証明できる鑑識資料が、仁科の手で闇に葬られる。三年間の全てが無駄になる。凛の元に戻れる日は、二度と来ない。

仁科が電話を切った。箱をトランクに戻す。トランクの蓋が鈍い音を立てて閉まった。運転席に乗り込む。エンジンがかかった。ヘッドライトが点灯し、セダンがゆっくりと動き出す。本線への合流路に向かっている。

考えるな。動け。

槙島は走った。三列先に停めてある軽バン——二時間前にドアロックをピッキングで外し、イグニッションの配線を剥いておいた車。運転席に滑り込む。シートから染み出す他人の生活臭が鼻を突いた。剥き出しの配線を捻る。エンジンが咳き込むように目覚めた。ハンドルに手を置いた瞬間、指の震えが止まった。身体が覚えている。追跡の感覚。かつて何十回と繰り返した、容疑者を追う夜。立場が逆になっただけだ。

仁科のテールランプが合流路のカーブに消えかける。槙島はギアを入れ、アクセルを踏んだ。ヘッドライトは点けない。暗闇の中、赤い光だけを追う。

合流路の加速車線。軽バンのエンジンが悲鳴を上げる。六十、八十、百——メーターの針が震えながら上がっていく。仁科のセダンが本線に滑り込むのが見えた。

俺も本線に出る。

三車線の高速道路。深夜でも物流トラックが等間隔で走っている。仁科のクラウンは追い越し車線を百二十キロで流している。余裕のある走りだ。まだ気づいていない。

槙島はハンドルを握り直した。汗で滑る。ダッシュボードに目をやる。ガムテープで貼り付けた一枚の写真。凛の絵とは別の、施設のフェンス越しに望遠で撮った一枚。ぶれている。ピントが合っていない。それでも凛だとわかる。黄色い帽子を被って、校庭の隅でひとりでブランコを漕いでいた。あの日、シャッターを切る指が震えていたのは寒さのせいじゃない。

もう逃げない。

アクセルを床まで踏み込んだ。百二十、百三十、百四十——軽バンの車体が振動で軋む。エンジンの回転数が限界域に入る。ボンネットの隙間から焦げた油の匂いが車内に忍び込む。トラックの間を縫い、車間を詰めていく。仁科のクラウンとの距離が縮まる。二百メートル、百五十、百。

追われる側の三年間は終わりだ。

仁科のブレーキランプが一瞬光った。バックミラーで気づいたか。セダンが加速する。槙島も踏み込む。軽バンのボンネットから微かに白煙が上がり始めた。構わない。この車が壊れるのが先か、仁科を止めるのが先か。

首都高の分岐が近づいてくる。ここからは俺の庭だ。十年走り回った道。抜け道も、カメラの位置も、パトカーの待機場所も、全部頭に入っている。

仁科、お前もそうだろう。同じ課で、同じ道を走った。

だからこそ——お前の癖も知っている。

分岐の標識が夜闘の中に浮かぶ。湾岸線か、都心環状か。仁科の車がウインカーも出さずに車線を変えた。左。湾岸線方面。

その先に何がある。処分場所か。

槙島はハンドルを左に切った。タイヤが路面を噛む。遠心力で身体が右に引かれる。

そのとき、仁科のセダンの窓が開くのが見えた。携帯電話を耳に当てている。

通報だ。

来るのは味方じゃない。指名手配犯・槙島透を追う警察が来る。

残り時間は——十数分。

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