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死者のSMS、午前二時

第1話 第1話

第1話

第1話

午前二時、歌舞伎町。腐った排水溝の匂いが鼻をつく。

神崎蓮は雑居ビル三階の事務所で、安ウイスキーの瓶を傾けていた。デスクの上には未処理の依頼書が三枚。浮気調査、猫探し、借金取りの居場所特定。元警視庁捜査一課のエースが受ける仕事じゃない。だが今の神崎に選ぶ権利はなかった。

窓の外、ネオンが明滅する。赤、青、赤。規則的なリズムが目に刺さる。半年前まで、この街は追う側の景色だった。今は追われる側ですらない。ただの残骸だ。

グラスに残った琥珀色の液体を喉に流し込む。胃が焼ける。痛みだけが、まだ自分が生きていることを教えてくれる。

デスクの引き出しに突っ込んだままの懲戒免職通知書。日付は十月十七日。汚職——Loss Adjustmentという海外口座への不正送金。身に覚えなど一切ない。だが証拠は完璧に揃えられていた。口座の開設記録、振込履歴、偽造された承認書類。誰かが——捜査一課の人間にしかできない精度で、神崎の人生を破壊した。

妻の美咲が離婚届を置いていったのは、免職から二週間後。責めるつもりはない。刑事の妻であること自体が重荷だったのに、汚職犯の妻にまでなれとは言えない。

スマートフォンが振動した。

デスクの端で震える画面。見知らぬ番号。深夜の着信など大抵はろくでもない。酔った依頼人か、間違い電話か。無視しようとして、表示を見た。

SMSだった。

『お前が正しかった。証拠は生きている』

心臓が跳ねた。

文面そのものじゃない。送信元だ。神崎はその番号を知っている。電話帳から消したはずの、もう繋がらないはずの番号。

桐生誠一郎。

三ヶ月前、首都高でガードレールを突き破り、崖下に転落。車両は炎上。遺体は損傷が激しく、歯科記録で本人確認されたと聞いた。

恩師の番号からの、メッセージ。

「——ふざけるな」

声が出た。自分でも驚くほど低い声だった。

酔いが一瞬で醒める。グラスを置く。指が画面に触れる。返信を打とうとして、やめた。罠かもしれない。神崎を炙り出すための餌。誰かが桐生の番号を乗っ取り、反応を見ている可能性がある。

だが。

『お前が正しかった』。この言い方は桐生のものだった。いつも余計な修飾をしない。結論から入る。理由は後。部下にも容疑者にも、同じ話し方をした。

神崎はSMSのヘッダ情報を確認した。送信サーバのタイムスタンプ、経由ノード。表面的には通常のキャリア経由。偽装の痕跡はない——少なくとも、この端末で読み取れる範囲では。

次に番号そのものを調べた。キャリアの契約照会は探偵程度の権限では無理だが、裏のツテはまだ残っている。半年前に一度だけ仕事を回した情報屋に、テキストを送った。

「この番号の契約状態。死亡届が出ている人間名義のはずだ。今も生きてる回線か調べろ」

返信は四分で来た。

『回線は解約済み。ただしSMSの送信記録は存在する。予約送信。三ヶ月前にセットされたタイマー配信。つまり——』

桐生が死ぬ前に仕込んでいた。

神崎は椅子から立ち上がった。膝が軋む。三十八歳。体はまだ動く。ただし半年のブランクと安酒が確実に蝕んでいる。

デスクの裏に手を伸ばす。テープで貼りつけた小型の拳銃。合法じゃない。だが歌舞伎町で丸腰の探偵は三日で消える。

SMSの文面をもう一度読む。『お前が正しかった。証拠は生きている』。

正しかった——何が。

冤罪を主張し続けた神崎を、桐生は最後まで信じてくれた唯一の人間だった。免職後も何度か連絡をくれた。「調べている」と。「必ず見つける」と。そして三ヶ月前、死んだ。

違う。

桐生は死ぬ前に、何かを見つけたのだ。そしてその証拠を、時限式で神崎に届くように仕込んだ。万が一のための保険。桐生らしい。現場叩き上げの刑事でありながら、段取りだけは官僚のように緻密だった。

SMSの文面を拡大する。文字列の末尾に、不自然な空白があった。

肉眼ではただの余白。だがテキストエディタにコピーすると、ユニコードの不可視文字が埋め込まれていた。ゼロ幅スペースとゼロ幅接合子の組み合わせ。バイナリに変換すると——数列が現れた。

緯度と経度。

神崎の指が地図アプリを叩く。座標は都内。品川区東大井。住宅街の外れにある、小規模のトランクルーム施設。

契約者名は調べるまでもなかった。桐生は几帳面な男だ。重要な証拠物件は必ず、自分の手が届く場所に物理的に保管する。デジタルだけでは消される。クラウドは信用しない。それが桐生のやり方だった。

神崎はジャケットを掴んだ。

拳銃をホルスターに押し込む。事務所の鍵を回す。階段を降りる足音が、深夜のビルに反響した。

歌舞伎町の大通りに出る。客引きの声、酔客の笑い声、どこかで割れるグラスの音。半年間、この喧騒は神崎にとって麻酔だった。痛みを忘れさせてくれる、ぬるい毒。

だが今は違う。

腹の底で、何かが燃えていた。半年間、一度も感じなかった熱。怒りとも呼べない。もっと純粋な何か。

戦う理由。

タクシーを拾う。「品川区東大井」と告げた。運転手が不思議そうな顔をしたが、何も言わずにメーターを倒した。

後部座席で目を閉じる。桐生の声が蘇る。捜査一課に配属された日、初めて組んだ現場で言われた言葉。

——お前の目は、嘘を見抜く目だ。それを鈍らせるな。

鈍らせた。酒で。諦めで。自己憐憫で。

「もう鈍らせない」

呟きは、エンジン音にかき消された。

タクシーが首都高に乗る。窓の外を東京の夜景が流れていく。ビル群の灯りが、まるで巨大な回路基板のように見えた。その回路のどこかに、神崎を陥れた人間がいる。

二十三分で東大井に着いた。

トランクルーム施設は五階建ての無機質な建物。夜間は無人。暗証番号式のオートロック。当然、番号は知らない。だが施設の裏手に回れば、換気ダクトのメンテナンス用パネルがある。元捜査官の目は建物の弱点を自動的に探す。三十秒で侵入経路を割り出した。

パネルのネジを外す。ダクト内は狭い。肩が擦れる。ほこりっぽい空気が肺を刺した。二階まで這い上がり、内部通路に出る。

桐生が契約していそうな区画。角部屋、セキュリティカメラの死角、搬入口に近い。候補は二つ。一つ目——空。二つ目のドアの前に立つ。

ロック。四桁の暗証番号。

神崎は迷わず打ち込んだ。1-0-2-5。桐生の刑事バッジの番号。あの人は几帳面だが、暗証番号に関しては恐ろしく無頓着だった。

解錠音。正解だ。

ドアを開ける。一畳半ほどの空間。埃の匂いと、微かに残る煙草の残り香。桐生が吸っていたセブンスターの匂いだった。三ヶ月経ってなお消えないその気配に、神崎の喉が一瞬詰まった。段ボール箱が二つ。そのうちの一つを開けた。

銀色のUSBメモリ。そして一枚のメモ。桐生の筆跡。見間違えるはずがない。癖のある右上がりの文字。

『見つけたぞ』

三文字。それだけで十分だった。

桐生は掴んでいた。神崎の冤罪を仕組んだ人間を。その証拠を、ここに残した。そして万が一のとき——自分が消された場合に備えて、時限式のSMSを神崎に届くように設定した。

USBメモリを握りしめる。金属の冷たさが掌に食い込んだ。指先が微かに震えている。酒のせいじゃない。半年間ずっと凍りついていた感情が、今、一気に溶け出そうとしていた。桐生は信じていた。最後の最後まで、神崎の潔白を。その信頼の重さが、小さな金属片を通じて骨の奥まで伝わってくる。

その瞬間、ポケットの中のスマートフォンが振動した。情報屋からの追加メッセージ。

『気をつけろ。お前の位置、誰かに追跡されてる。品川方面に車が二台動いた。速い。民間じゃない』

神崎は反射的に窓のない壁際から離れ、通路を見渡した。静寂。蛍光灯の低い唸りだけが耳の奥で鳴っている。まだ来ていない。だが時間はない。

USBを内ポケットにねじ込み、来た経路を逆走する。ダクトに体を押し込んだ瞬間、施設の正面駐車場にヘッドライトの光が差し込んだ。

黒いセダンが二台。ほぼ同時にエンジンが止まる。ドアが開く音。複数の足音。統率された動き。無駄な会話は一切ない。訓練された人間だけが出す、あの乾いた靴音だった。

民間人じゃない。

神崎はダクトの中で息を殺した。USBメモリの角が、胸の内ポケット越しに心臓を圧迫している。

桐生が命懸けで残した証拠。これを持って、ここから出る。

どんな手を使ってでも。

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