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死者のSMS、午前二時

第2話 第2話

第2話

第2話

ダクトの中。呼吸を最小限に絞る。金属の壁が体温を奪い、吐く息が薄い白になって消えた。埃の匂いが鼻腔を刺す。古いビルの内臓の中に潜り込んだような閉塞感。

階下で足音が散開した。二人一組、三方向。クリアリングの手順。建物の構造を把握した上での動き——事前に図面を入手している。偶然ここに来たわけじゃない。神崎の位置情報を掴んだ時点で、すでに展開を始めていた。靴底がリノリウムを叩く音の間隔から、訓練された動きだと分かる。警察か、あるいはそれに準じる組織。素人じゃない。

USBメモリが胸ポケットで脈動するように存在を主張している。

動け。

ダクトを逆走する選択肢は消えた。裏手のメンテナンスパネルから出れば、正面駐車場のセダンから丸見えになる。上に行くしかない。神崎は体を反転させ、垂直ダクトに腕を突っ込んだ。錆びた金属の縁が前腕の皮膚を削る。痛みを無視して体を引き上げる。三階。四階。肩の筋肉が悲鳴を上げた。指先の感覚が薄れ、握力が落ちていくのを自覚する。半年のブランクが、こういう場面で牙を剥く。現役のころなら、この程度の垂直移動で息は上がらなかった。

五階——屋上直下のダクト分岐に到達。換気口のグリルを内側から蹴り飛ばした。乾いた金属音が廊下に反響する。静寂を切り裂くその音は、自分の居場所を叫んでいるのと同じだった。足音が反応した。階段を駆け上がってくる。

屋上への非常口。施錠。だが防火扉の構造は知っている。ヒンジ側に体重をかけ、ラッチ部分を靴底で二度蹴った。三度目で枠が歪み、隙間ができる。肩でこじ開けた。錆びた蝶番が甲高い悲鳴を上げ、関節に鈍い痛みが走った。

夜気が顔を叩く。屋上。四月の夜風は思ったより冷たく、汗で濡れたシャツが肌に張り付いて体温を奪った。周囲にビルはないが、施設の裏手は住宅街の路地に面している。フェンスの向こう、三メートル下に隣接するアパートの外階段がある。飛べる距離だ。現役なら何も考えず跳べた。今の体で——考えている暇はない。

背後のドアが開く音。

考えるより先に体が動いた。フェンスを越え、暗闘に向かって跳んだ。

着地。外階段の踊り場。膝と手首に衝撃が走る。右足首が嫌な角度に捻れた感触があったが、折れてはいない。転がるようにして衝撃を逃がし、そのまま階段を駆け下りた。二階、一階。路地に飛び出す。左右を確認——右手に表通りの明かりが見えた。走る。

百メートル。路地を抜けた先はコンビニの駐車場だった。深夜営業の蛍光灯が白々と路面を照らしている。自分の影を見下ろす。前腕から血が滴っていた。ダクトの縁でやった傷。浅い。だが袖口を赤黒く染めるには十分な量で、このまま表通りを歩けば人目を引く。

振り返る。追手の気配はない。少なくとも直接の追跡は振り切った。だがそれは一時的な猶予に過ぎない。彼らはすぐに包囲網を広げる。

タクシーを拾うのは危険だ。監視カメラとナンバー照合で足がつく。神崎はコンビニの裏手を抜け、住宅街の暗がりに身を沈めた。

三ブロック先の公園。遊具の影にしゃがみ込み、USBメモリを取り出した。指先が細かく震えている。アドレナリンの残滓か、それとも恐怖か。スマートフォンにOTGアダプタを繋ぐ。探偵業の必需品だ。接続。ファイルマネージャーが開く。

フォルダが一つ。中に圧縮ファイルが三つ。すべて暗号化されていた。AES-256。パスワードなしには中身は見れない。

「桐生さん——」

声にならない呟きが唇から漏れた。暗号を解く鍵のヒントがどこかにあるはずだった。桐生はUSBだけを裸で置くような男じゃない。必ず、神崎にだけ解ける仕掛けを残している。

メモをもう一度取り出した。『見つけたぞ』。三文字の下に、ボールペンで薄く数字が書かれていた。さっきは暗がりで見落としていた。スマートフォンのライトで照らすと、癖のある筆跡が浮かび上がる。桐生の字だ。間違いない。

2019-0308-2247

二〇一九年三月八日、二十二時四十七分。

神崎の背筋に電流が走った。

あの夜だ。

半年前の冤罪事件ではない。もっと前。七年前の夜。神崎がまだ捜査一課の若手で、桐生の下で初めて殺人事件の主任を任された日。品川の倉庫街で容疑者を追い込み、単独で突入した。無謀だった。刺された。左脇腹。刃物が肋骨の間を滑り、肺に達しかけた。倉庫のコンクリートの冷たさと、自分の腹から溢れる血の温かさの落差を、体が今でも覚えている。

応援が来るまでの十一分間、神崎は自分の血溜まりの中で容疑者を組み伏せていた。意識が明滅する中で、離すなと自分に言い聞かせ続けた。離したら終わりだ。自分も、この事件も。

桐生が駆けつけたとき、最初に言った言葉を覚えている。

——馬鹿野郎。死ぬ気か。

——死にません。

——当たり前だ。お前にはまだ、見えてないものがある。

あの夜の記憶が、神崎の視界をフラッシュバックで白く焼いた。

倒れた自分の上に桐生が屈み込む顔。眉間に深い皺を刻みながらも、目だけは冷静に傷口を観察していた。救急車のサイレン。ストレッチャーに乗せられる直前、桐生が何かを神崎の手に握らせた。桐生の刑事バッジだった。「返しに来い」と言った。退院するまでの三週間、神崎はそのバッジをずっと枕元に置いていた。毎朝目を開けるたび、金属の鈍い光が最初に視界に入った。

2019-0308-2247。あの夜の日付と時刻。桐生が駆けつけた正確な時間。それを暗号の鍵に使っている。つまりこのUSBは、神崎に向けて残されたものだ。他の誰でもない、自分に。

神崎は数字列をパスワード欄に打ち込んだ。指の震えが止まっていた。

復号が始まる。プログレスバーが進む。十秒。二十秒。ファイルが展開された。

三つのフォルダ。「送金記録」「指示系統」「人事異動」。

送金記録を開いた。Loss Adjustment——神崎の冤罪に使われた海外口座への送金履歴。だが記録されている振込元は、神崎の名義ではなかった。捜査一課の経理処理コードが使われている。内部犯行の決定的証拠。画面に並ぶ数字の列を見つめながら、神崎の口の中に苦い味が広がった。仲間だと思っていた組織に、食い物にされていた。

指示系統のフォルダには、匿名化されたメールのやり取りが保存されていた。送信者は三種のコードネーム。受信者は「MDE」と記載された組織。文面は暗号混じりだが、文脈から読み取れる内容は明白だった。

冤罪工作は計画的に実行された。神崎を排除するために。

なぜ自分なのか。

その答えはまだ、この中にはない。

人事異動のフォルダを開こうとした瞬間、スマートフォンの画面が一瞬ちらついた。バッテリーが十二パーセント。暗号の復号処理で一気に消耗していた。

神崎はファイルをスマートフォンの内部ストレージにコピーし、USBを外した。二重のバックアップ。桐生ならそうする。

公園のベンチの下に身を潜めたまま、神崎は夜空を見上げた。雲が低い。月は見えない。冷えた空気が傷口に染みた。

桐生は知っていた。すべてを。

そして知ったがゆえに殺された——いや、桐生自身が死を偽装した可能性もある。どちらにせよ、このUSBは桐生が命を賭けた遺言だった。

立ち上がる。体が重い。だが足は前に出る。歌舞伎町の事務所に戻るのは論外だ。追手はそこも押さえているだろう。別の場所が要る。

公園を出た。住宅街の一本道を南へ。駅に向かえば監視カメラの密度が上がる。北へ迂回して幹線道路に出るしかない。

三十メートル先の交差点を左に曲がった瞬間、神崎の足が止まった。

路地の奥。街灯の届かない暗がりに、見覚えのあるシルエット。

黒いセダン。二台。

さっきの施設前にいた車両と同じ型。同じナンバープレートの隠し方——テープで一部を覆い、遠目には読み取れない処理。

エンジンが同時にかかった。

ヘッドライトが点灯する。二対の白い光が、路地の壁を切り裂くように神崎を照らし出した。影が一瞬で消え、視界が白く塗り潰される。

逃げ場のない一本道。後方は公園。前方はセダン。左右は住宅の塀。

神崎は走り出した。後方へ——公園を突っ切り、住宅街の狭い路地へ。車が入れない道幅。セダンのエンジン音が背後で唸る。だが曲がり角の先で、その唸りに混じって別の音が聞こえた。

ドアの開閉音。複数。

車を降りた。徒歩で追ってくる。

本気だ。

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