第3話
第3話
走る。
住宅街の狭い路地を南から北へ。ブロック塀の角を右に折れ、また右。追手の足音が背後に四つ。靴底のリズムが均等に刻まれている。軍靴ではない。市販のランニングシューズ特有の、乾いた軽い接地音。だが足運びは素人のそれじゃなかった。着地から蹴り出しまでの沈み込みが極端に短い。訓練された人間の走り方だ。一定の間隔を保ちながら散開する動き。挟み撃ちの布陣。こちらの逃走ルートを読んで、先回りする人間が必ずいる。
神崎は走りながら脳内の地図を広げた。この辺りの土地勘はない。品川区東大井は管轄外だった。知らない街で追われるのは最悪の状況だ。見慣れない自販機の光が目を打つたびに、方角の確信が揺らぐ。右に曲がったのか、左だったのか。暗闇の住宅街はどの路地も同じ顔をしている。
だが、知っている街がある。
歌舞伎町。
半年間、毎日歩いた。酔いながら、あるいは素面で。免職された日も、証拠を探して徒労に終わった夜も、あの街の雑踏に紛れて呼吸を整えた。裏路地の一本一本、雑居ビルの非常階段の位置、店舗間をつなぐ抜け道。あの街の構造が体に染みついている。あそこに辿り着ければ勝てる。
問題は距離だ。品川から新宿まで直線で約十キロ。徒歩では話にならない。電車は監視カメラの巣窟。だがもう一つ、手がある。
二つ目の角を曲がった先にバイク。マンションの駐輪場に停まったホンダのPCX。白いボディに薄く汚れが乗っている。ハンドルロックだけでチェーンはかかっていない。元捜査官として褒められた行為じゃない。だが今は犯罪者の流儀で生き延びるしかなかった。
配線をいじる。指先が震えていた。寒さではない。アドレナリンが末端の血管を締め上げている。カウルの内側に手を突っ込み、イグニッションの配線を引き出す。赤と黒を直結。十二秒。エンジンがかかった。排気の生温い風がふくらはぎを撫でる。
スロットルを捻り、路地を飛び出す。背後でセダンのエンジン音が唸った。追ってくる。だがバイクなら車が入れない道を選べる。第一京浜を避け、住宅街の毛細血管のような路地を縫って北上する。信号は無視した。深夜三時、交通量はほぼゼロ。右ミラーに黒いセダンのヘッドライトが映る。一台は幹線道路で並走し、もう一台は別ルートで先回りしているはずだ。相手が無線で連携しているなら、主要交差点で待ち伏せを張れる。だからこそ幹線には出ない。路地だけを使う。
品川。五反田。目黒。渋谷を抜け、明治通りに合流。バイクのメーターが八十キロを超えた。ヘルメットなしの八十キロは暴力に近い。風が目を切り裂く。涙が止まらず、視界が滲んだ。信号の色が水彩のように広がる。それでもスロットルを緩めなかった。十五分で歌舞伎町の外縁に到達した。
靖国通りの手前でバイクを捨てた。エンジンをかけたまま路肩に寄せ、走る。ここからは徒歩だ。
歌舞伎町の裏路地に潜り込んだ瞬間、呼吸が変わった。知っている匂い。腐った排水溝、焼き鳥の残り油、安い香水。雨上がりのアスファルトが放つ湿った鉄の匂いがそこに混じる。足裏が記憶しているアスファルトの凹凸。排水溝の蓋の位置、わずかに傾いたマンホール。目を閉じていても歩ける。ここは自分の庭だ。
一番街のアーケードを横切り、ゴールデン街方面へ。背後の足音は二つに減っていた。バイクで引き離す過程で半数を振り切ったか、あるいは別の包囲点に配置転換したか。どちらにせよ、今この瞬間の脅威は二人。
路地の幅が狭まる。すれ違うのも困難な一メートル弱の隙間。雑居ビルとスナックビルの間。壁面に張りついた室外機が低い唸りを上げ、生暖かい排気が首筋を撫でた。この先に、半年前に見つけた抜け道がある。スナックビルの非常階段を三階まで上がり、隣のビルの屋上に渡れる。二つのビルの間隔は六十センチ。知らなければ絶対に使えないルート。
非常階段を駆け上がる。金属の踏み板が足の下で振動した。錆びたボルトが軋み、階段全体が微かに揺れる。手すりの鉄が夜露で濡れ、掌が滑った。三階。手すりを越え、隣のビルの屋上に飛び移る。着地の瞬間、右足首に電流のような痛みが走った。歯を食いしばり、声を殺す。膝をついて姿勢を低くし、振り返った。
追手の一人が階段を上がってくる。見えた。暗闇の中でも分かる。動きが違う。重心の低さ、腕の振り方、角を曲がる際の壁際の取り方。死角を最小限にする動線の選び方。一般の警察官とは明らかに練度が異なる。CQBの訓練を受けた人間特有の体の使い方だった。元自衛隊か、あるいは民間軍事企業の実働部隊。
追手が三階の踊り場に到達し、周囲を見回す。ビルの隙間に気づいていない。暗闇と狭さが、その六十センチの渡りポイントを完全に隠している。男の呼吸が聞こえた。荒れていない。余裕のある呼吸だった。それが逆に恐ろしかった。数秒の逡巡の後、追手は階段を降り始めた。靴底が金属を叩く音が、一段ごとに遠くなる。
神崎は屋上で身を伏せたまま動かなかった。コンクリートの冷たさが腹と胸に染みる。呼吸を殺す。十秒。二十秒。自分の心臓の音だけが鼓膜の内側で鳴っている。足音が遠ざかる。もう一人の追手も路地を走り抜ける音がして、それも消えた。
静寂が戻る。
ようやく体を起こした。右足首が熱を持っている。トランクルームから飛び降りたときの捻りが、ここにきて主張し始めていた。靴の中で足首が腫れているのが分かる。汗が冷えて体温を奪う。四月の深夜、屋上の風は容赦がなかった。薄いジャケット一枚の体を芯から冷やしにくる。
だが、生きている。USBも無事だ。ジャケットの内ポケットに手を当てる。小さな長方形の硬さが指先に返ってきた。桐生が命を賭けて残したデータ。まだ失われていない。
神崎は屋上の給水タンクの陰に身を寄せ、スマートフォンを取り出した。画面の光が暗闇に浮かび上がり、思わず手で覆った。追手に位置を知らせるわけにはいかない。バッテリー残量八パーセント。省電力モードに切り替え、先ほどコピーしたファイルを開いた。
「指示系統」フォルダの中身を、さっきは途中までしか確認できていなかった。匿名メールのやり取り。三種のコードネームと「MDE」。文面を注意深く読み返す。画面の光で指が白く浮かぶ。
暗号混じりの文章の中に、一箇所だけ平文で書かれた段落があった。契約書のドラフトらしき文面。
『MDE——Mars Defense Engineering。本契約に基づき、対象者の社会的排除に関する実行業務を委託する』
民間軍事企業。
神崎を追ってきた連中の正体に、名前がついた。Mars Defense Engineering。冤罪工作の実行部隊を担った民間軍事企業。捜査一課の内部から指示を出した人間が、この会社に神崎の排除を委託した。
先ほどの追手の動きが脳裏に蘇る。あの練度、あの統率された展開。あの余裕のある呼吸。警察じゃない。軍事訓練を受けた実行部隊。すべてが一本の線で繋がった。
スマートフォンの画面が暗くなる。バッテリー残量五パーセント。神崎は画面を閉じ、夜空を見上げた。新宿のビル群が、空を狭く切り取っている。星は一つも見えない。光害と薄い雲が夜空を灰色に塗り潰していた。
桐生が残した三つ目のフォルダ「人事異動」は、まだ開いていない。そこに何が入っているのか。冤罪工作を指示した人間の名前か。桐生が消えた本当の理由か。
確認するには、まず安全な拠点と電源が要る。そしてこの暗号化ファイルを本格的に解析できる人間。
一人だけ、心当たりがあった。
捜査一課の鑑識官。真鍋修二。かつての同僚で、デジタルフォレンジックの専門家。変わり者だが腕は確かで、神崎が冤罪をかけられた後も唯一、「証拠の作り方が雑だ」と非公式にこぼしていたと風の噂で聞いた。組織の中にいながらそれを口にする人間は、味方か、あるいは度を越した正直者か。どちらにせよ、今の神崎には必要な人間だった。
連絡を取る手段はある。真鍋が信頼に応えるかは分からない。だが選択肢はもうこれしかなかった。
屋上の縁に手をかけ、立ち上がる。足首が痛んだ。体の芯に残った冷えが、筋肉をこわばらせている。それでも足は前に出た。
MDEという名前を、頭に刻み込む。
今度はこちらが追う番だ。