第3話
第3話
霧島が来るまでの時間を、俺は305号室の隅で過ごした。
壁に背を預け、膝を抱えて座る。姿勢だけを見れば怯えた子供のようだが、恐怖はない。いつもと同じだ。ないのだ、何も。ただ身体が発する情報の洪水を処理することに、脳の全容量を割いていた。
心臓は動かない。呼吸もしていない。なのに意識は明瞭で、むしろ三十一年間の人生で最も鮮明だった。腐った畳から揮発する酢酸の分子が鼻腔の受容体に触れる感覚まで自覚できる。天井の隅に張った蜘蛛の巣が空気の対流で揺れる振幅、壁の内側を移動するネズミの爪音の周波数、そのすべてが意味を持つ信号として流れ込んでくる。こんな解像度で世界を知覚する生き物は、人間ではない。
窓ガラスを見ないようにしていた。霧島に言われたからではない。さっき映った影の笑みが、見間違いだと思いたかったからだ。
見間違いだとわかっている。影が笑うはずがない。口裂けを体内に取り込んだショックで、視覚野が異常な信号を生成したのだろう。合理的な説明はいくらでもつく。
——つくのに、窓ガラスに目を向けられない自分がいた。
階段を上がってくる足音が聞こえた。革靴。重い歩幅。右膝をわずかに庇う癖のあるリズム。霧島だ。二百段以上ある階段を駆け上がってきたらしく、心拍が百三十を超えている。呼吸は荒いが乱れてはいない。鍛えた身体だ。ただし掌に滲む汗の塩分濃度が通常より高い——緊張している。
ドアが開いた。
霧島は懐中電灯で室内を照らし、俺を見つけると数秒間動かなかった。光が俺の顔を直射している。眩しくない。この目にはもう、光量の閾値が存在しないらしい。
「……目を見せろ」
言われるまま顔を上げた。霧島が息を呑んだ。
「瞳孔が開いてない。この光量で収縮ゼロか」
懐中電灯を下ろし、霧島は俺の正面にしゃがんだ。五十代半ば、白髪の混じった短髪。警察を辞めてからも崩れなかった姿勢の良さが、今夜は微かに傾いている。左手に革の書類鞄を抱えている。あれだけ急いで来たのに、資料を持ってきている。この男はいつだってそうだ。感情より情報を優先する。だからこそ十年、俺の傍にいられたのだろう。
「心臓が止まってる」
俺が言うと、霧島は首を横に振った。
「止まってない。お前の心拍は今も正常に動いてる。ただし計測できないだけだ」
意味がわからなかった。
「都市伝説データベースに"喰らい様"っていう項目がある。知ってるな」
知っている。調査員として何百という怪異のデータを扱ってきた中で、喰らい様は特殊なカテゴリに分類されていた。他の怪異を捕食する怪異。記録上、最も危険度が高い存在。ただし目撃情報はゼロ。元資料の出典も不明。都市伝説の中の都市伝説として、研究者の間では半ば架空のものとして扱われていた。
「その元資料を手に入れた。三日前だ」
霧島が書類鞄を開き、クリアファイルに入った紙束を取り出した。コピーだ。原本はどこかに保管してあるのだろう。一枚目は手書きの日本語で、万年筆の筆跡が古い。二十年以上前の文書に見えた。
「読め。三枚目の下段」
三枚目をめくった。新しくなった目が、薄暗い室内でもインクの滲みまで読み取る。報告書のような形式で、日付、場所、観察者名が記されている。日付は二〇〇〇年七月十四日。場所は東京都——
住所に見覚えがあった。
俺が五歳まで住んでいた団地の所在地だ。
視線が下段に落ちる。観察対象の欄に、三文字の名前が書かれていた。
柊一哉。
「被害者リストじゃない」
霧島の声が低く、硬い。
「観察記録だ。お前は五歳の時点で、すでに対象として観察されていた。"喰らい様の本体として最も適合率の高い個体"——原文のままだ」
紙が手の中で震えた。俺の手が震えているのではない。紙そのものが振動している。いや——室内の空気が震えていた。俺を中心に、同心円状に広がる微細な振動。窓ガラスが低い音を立て、壁の剥がれかけたタイルが二枚、三枚と床に落ちた。
「落ち着け」
霧島の声には命令の響きがあった。元刑事の声だ。その一言で空気の振動が止まった。俺自身が震源だったのだと、遅れて理解した。
「……俺が喰らい様だと言いたいのか」
「違う。お前が喰らい様の"器"として選ばれた人間だと言ってる。この資料を書いた人間が誰かはまだわからない。だが少なくとも二十六年前、お前がまだ五歳のときに、誰かがお前を特定し、経過を記録していた」
恐怖を感じない体質。あらゆる怪異現象を前にしても変動しない心拍数。調査員として何百件もの現場を踏んで、一度も心理的影響を受けなかった異常な耐性。
それが生まれつきの個性ではなく、喰らい様の器としての特性だったのだと。
否定したかった。
だが腹の底に残る、あの充足感が否定を許さなかった。口裂けを喰らったときの、空洞が埋まる感覚。あれは人間の身体が起こす反応ではない。知っている。身体がそれを知っている。三十一年間ずっと空腹だった器が、初めて食事を摂ったときの、あの当たり前のように収まった感覚を——否定できるはずがなかった。
「資料はまだある」
霧島がクリアファイルの奥から別の紙束を取り出そうとして、手を止めた。
「だが今夜はここまでにする。お前の状態が安定してからだ」
「安定って何だ。心臓が止まった人間の安定って」
「止まってないと言っただろう。お前は生きてる。脈が計測できないのは——」
霧島が言葉を切った。俺の背後を見ている。目が、僅かに見開かれた。瞳孔が急速に収縮する。恐怖の反応だ。この男の恐怖を見るのは、十年で初めてだった。
「一哉。後ろの壁を見ろ。ゆっくりだ」
振り返った。
305号室の白い壁に、俺の影が落ちている。霧島の懐中電灯を背に受けて、輪郭ははっきりしていた。座った姿勢の俺の影。頭があり、肩があり、膝がある。
ただし、形が合っていなかった。
俺は膝を抱えて座っている。だが壁に映る影は、立っていた。両腕を身体の横に垂らし、こちらに背を向けるようにして直立している。俺が身じろぎしても、影は動かない。固定されたように壁に張りついたまま、俺とは無関係に存在している。
見ていると、影の輪郭が滲んだ。肩の線が崩れ、頭部が左右に揺らぐ。溶けかけた蝋人形のように形が歪み——
首が、回った。
影の首だけが百八十度回転し、こちらを向いた。顔はない。黒い平面のシルエットに顔の造作はない。なのに見られている感覚だけが、皮膚の上を這った。毛穴のひとつひとつが開き、産毛が逆立つのを知覚する。恐怖ではない。恐怖を感じる回路は今も沈黙している。では何だ。この皮膚を泡立たせる感覚は——認識だ。影が俺を見ているのではなく、俺の中にある何かが、影を通して自分自身を見ている。
霧島が立ち上がる音がした。
「出るぞ。今すぐだ」
俺は壁から目を離せなかった。影が笑っている。口はないのに、笑っている。窓ガラスに映ったときと同じだ。見間違いではなかった。あれは最初から——
霧島の手が肩を掴んだ。強い力で引き起こされ、305号室を出た。廊下を歩く。階段を下りる。エントランスを抜け、敷地のフェンスの隙間を通り、街灯のある道路に出た。
四月の夜風が顔に当たった。湿度六十三パーセント。風速二・四メートル。気温十二・七度。勝手に数値が浮かぶ身体が疎ましかった。
霧島が車のドアを開け、俺を助手席に押し込んだ。エンジンをかける。廃団地が遠ざかっていく。バックミラーに映るC棟の五階、305号室の窓。月明かりに照らされたガラスの向こうに——
何かが立っていた。
俺の形をした、俺ではないもの。
バックミラーから目を逸らす。助手席の足元に自分の影が落ちている。ダッシュボードの計器の光を受けて、ごく普通の形をしている。さっきの歪みはない。
「霧島」
「何だ」
「俺は——まだ人間か」
霧島は答えなかった。信号が赤に変わり、ブレーキランプが車内を染めた。赤い光の中で、足元の影が一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、指先を動かした。