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喰らい様の調査録

第2話 第2話

第2話

第2話

「お前が——」

霧島の声が途切れた。電波ではない。霧島自身が言葉を飲み込んだのだ。受話口の向こうで唾を嚥下する音が聞こえた。

「……いい。電話じゃ話せない。とにかく今すぐその建物を出ろ。いいな、一哉。走れ」

通話が切れた。

スマートフォンの画面が暗転し、廊下にヘッドライトの光だけが残った。コンクリートの壁に反射する白い円。その中に自分の影が落ちている。

走れ、と霧島は言った。

だが走る理由がわからなかった。さっきの——壁を這っていた何かは消えた。指先の湿り気も乾き始めている。録音データを回収し、機材を片付けて帰ればいい。報酬は三万円。交通費込み。明日の昼にはレポートを書いて納品する。いつもの手順だ。

305号室に戻り、レコーダーを拾い上げた。バックパックに収める。カメラのストラップを首にかけ直す。

そのとき、背後の空気が変わった。

温度ではない。湿度でもない。密度だ。振り返るまでもなく、廊下に何かがいると身体が理解していた。さっきと同じ——いや、さっきとは違う。あの粘着質な足音はしない。代わりに、かすかな震えが空気を伝わってくる。

振り返った。

ドアの向こう、廊下の中央に、それは立っていた。

壁を這う姿勢ではなかった。二本の足で床に立ち、両腕を胴体に巻きつけるようにして、自分自身を抱きしめている。耳の後ろまで裂けた口が開閉を繰り返し、歯の隙間から白い息が漏れていた。四月の夜気にしては冷たすぎる呼気。

口裂けは、震えていた。

全身を痙攣させるように。関節が異常な角度に曲がった四肢がかたかたと鳴り、壁にぶつかるたびに黒い染みを残した。

ヘッドライトの光を当てると、あの黒い穴のような目が俺を捉えた。

瞳孔が収縮した——ように見えた。恐怖で。

十メートル先に立つ怪異が、五歳の子供のように怯えている。

「……何だ、お前」

声を出したのは自分だった。反響が廊下を満たし、口裂けの身体がびくりと跳ねた。後退する。壁に背をぶつけ、ずるずると崩れ落ちる。裂けた口の端から透明な液体が垂れた。涎なのか涙なのか判別がつかない。

俺は一歩も動いていない。305号室のドア枠に手をかけたまま、廊下を見ている。それだけだ。なのに口裂けは、俺が近づいてくるかのように後退を続ける。

異変に気づいたのは、自分の呼吸がなくなっていたからだ。

吸っていない。吐いてもいない。なのに苦しくない。胸郭が動いていないことを意識して初めて、身体の異常を認識した。心拍数を確認する。腕時計の画面。

数値が表示されていなかった。

——ではなく、表示されている。0。

心拍数、0。

腕時計が壊れたのだと思った。だが画面は正常に動作している。秒数のカウントは進み、時刻表示も狂っていない。心拍センサーだけが、脈拍を検出していない。

手首に反対の手を当てた。

脈がない。

首筋に指を押し込む。頸動脈。何も打っていない。胸に手を当てる。肋骨の下に心臓があるはずの場所。静かだった。何も動いていない。

——俺は死んでいるのか。

その疑問が浮かんだ瞬間、腹の底から何かがせり上がってきた。

飢餓だ。

食事を三日抜いたような、胃袋が背骨に張りつくような飢えではない。もっと根源的な渇き。細胞の一つ一つが口を開けて何かを求めているような、全身が空洞になったような感覚。そしてその空洞が、廊下の奥で震えるものを、欲していた。

足が動いた。

また自分の意思ではなかった。膝が勝手に伸び、靴底がリノリウムの床を踏む。一歩。二歩。三歩。腕がゆっくりと持ち上がり、指が開く。さっきと同じだ。あの録音が終わる直前に、俺の手が暗闇に向かって伸びた、あの感覚。

だが今度はレコーダーのビープ音はない。

口裂けが叫んだ。今度は声があった。甲高く、細く、ガラスを引っ掻くような音が廊下を貫いた。窓ガラスが共鳴して震え、壁のタイルが一枚、乾いた音を立てて剥がれ落ちた。

五メートル。

口裂けの輪郭がぶれ始めた。実体が薄れている。闇に溶けようとしている。逃げるのではなく、自分自身を消そうとしているように見えた。

四メートル。

三メートル。

俺の指先が、裂けた口の端に触れた。

冷たい。氷の表面に指を当てたときの、あの突き刺すような冷たさ。だがその奥に、かすかな熱があった。体温ではない。もっと別の——存在そのものの温度。

口裂けの身体が、砕けた。

物理的に壊れたのではない。霧になった。白い粒子の群れに分解され、俺の指先から手のひらへ、手のひらから腕へ、腕から胸へ、雪崩れ込むように流れ込んできた。

声が聞こえた。口裂けの声ではない。自分の身体の内側から響く、聞いたことのない振動。低く、深く、満足げな唸り。

飢えが満たされていく。

空洞が埋まっていく。

最後の霧の粒が胸の中に消えたとき、俺はリノリウムの床に膝をついていた。

最初に変わったのは、視界だった。

暗闇が消えた。ヘッドライトの光が煩わしいほど明るい。消す。頭のスイッチを切ると、廊下は闇に戻るはずだった。

戻らなかった。

見える。壁の罅の一本一本が見える。天井のコンクリートに走る微細な亀裂が見える。三十メートル先の非常口の錆びたネジ山が見える。蛍光灯の管の内側に溜まった虫の死骸の数が数えられる。

暗闇が、昼になっていた。

次に来たのは音だ。建物全体が歌い出したかのように、あらゆる音が押し寄せてきた。一階のエントランスで風がコンクリートの角を叩く振動。屋上の排水溝を流れる雨水の軌道。隣のB棟で野良猫が毛繕いをする舌の音。二百メートル先の幹線道路を走るトラックのエンジンの回転数まで、層になって聞き分けられた。

そして匂い。廃団地の腐敗臭の下に、コンクリートに染みた四十年分の生活の残滓が重なっていた。醤油、線香、石鹸、血液、土、雨。何百人もの人間がここで生き、ここを去った痕跡が、分子レベルで嗅ぎ取れた。

自分の身体が、別のものになっている。

膝をついたまま両手を見た。見た目は変わらない。五本の指。爪。手相。三十一年間見慣れた自分の手だ。だが内側が違う。骨の一本一本に通っていたはずの重さが消え、代わりに、何かが脈打っている。心臓ではない。心臓はまだ止まったままだ。それとは別の、もっと古い鼓動が、身体全体を巡っている。

立ち上がった。膝が笑っている。吐き気がする——いや、吐き気に似た何かだ。胃の中身を戻したいのではなく、身体そのものを裏返したい衝動。皮膚の内側と外側の境界が曖昧になったような不快感が全身を覆っている。

壁に手をついた。コンクリートの粒子の配列が指先から読み取れた。ここに触れた最後の人間の体温の残滓すら感じ取れた。

何だ、これは。

何が起きた。

あれを——口裂けを、俺は、喰ったのか。

考えがまとまらない。ヘッドライトを消した廊下を、暗視のように見通せる視界が情報を叩き込んでくる。処理しきれない。人間の脳が受け取る設計になっていない量の感覚データが、毎秒流れ込んでいる。

スマートフォンが鳴った。

画面の文字が針の先ほどの距離からのように鮮明に見えた。霧島。

出る。

「出ろと言っただろう、まだ中にいるのか」

霧島の声に怒りはなかった。あるのは焦燥と、その下に張りついた恐怖。声帯の震え方、呼吸の間隔、唾液を飲む頻度——電話越しに、霧島の感情が手に取るように読めた。こんな精度で人の声を聞いたことはない。

「霧島。俺の身体がおかしい」

「……何があった」

「口裂けがいた。それが俺の中に入った。心臓が止まってる。暗闇が見える。全部聞こえる。全部匂う」

長い沈黙。紙をめくる音。キーボードを叩く音。霧島が資料を確認している。

「一哉、一つだけ聞く。お前、今——腹が減ってるか」

腹の底に残る、あの充足感。空洞を埋めた後の、温かい残響。だがその奥に、まだ余白があった。満たされきっていない隙間。もう一口、もう一体——

「……減ってない。さっき喰ったから」

受話口の向こうで、霧島が椅子から立ち上がる音がした。

「今からそっちに行く。動くな。誰にも会うな。——鏡を見るな」

通話が切れた。

鏡を見るな。その言葉が耳に残った。

305号室に戻った。窓ガラスに自分が映っている。見るなと言われた。だが新しくなった目は、暗闇の窓ガラスに映る像を勝手に拾い上げる。

輪郭は俺だった。

影だけが、違った。

ヘッドライトを消した室内で、月明かりすら届かないはずの部屋の中で、俺の足元に落ちた影が——微かに、笑っていた。

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