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喰らい様の調査録

第1話 第1話

第1話

第1話

俺が怖いと思ったことは、一度もない。

それが異常だと気づいたのは、たぶん中学のときだ。肝試しで墓地に忍び込んだ夜、全員が悲鳴を上げて走り出したのに、俺だけ石段に座ったまま缶コーヒーを飲んでいた。怒られた。泣いている女子もいた。でも、何が怖かったのか本当にわからなかった。

それから十五年。柊一哉、三十一歳。職業、都市伝説調査員。

名刺にはそう刷ってあるが、大抵の人間は苦笑するか、目を逸らす。元恋人の彩香は別れ際に「あんたの人生、ずっとピントが合ってない」と言った。反論できなかった。反論する感情が湧かなかったから。

今夜の現場は、川崎市の北端にある廃団地だ。

築四十年、住人が全員退去してから八年。取り壊し予定が二度延期されている五階建ての公営住宅が三棟、街灯のない敷地に並んでいる。依頼主はオカルト系のウェブメディアで、報酬は三万円。交通費込み。

「……C棟、三階から上を重点的に。特に305号室で足音がするって投稿が複数ある」

スマートフォンに表示した依頼書を読み上げ、録音用のICレコーダーを胸ポケットに差す。もう一台はバックパックの外ポケット。カメラは首から下げた一眼と、予備のコンパクト。光源はヘッドライトとハンドライト。

装備だけは堅い。なにしろ、恐怖でパニックを起こす心配がないぶん、準備に意識を全振りできる。それが俺の唯一の取り柄だった。

敷地のフェンスには「立入禁止」のプレートが針金で括りつけてある。その横に人ひとり通れる隙間。雑草を踏むと、湿った土の匂いが靴底から立ち上がった。四月なのに妙に冷たい空気が足元を這う。踏み込むたびに枯れた茎が折れる乾いた音が響き、どこか遠くで野良猫が一声鳴いて黙った。敷地全体を覆う沈黙は、人が住まなくなった場所だけが持つ独特の重さだった。

C棟のエントランスに立つ。自動ドアのガラスは割られ、フレームだけが歯の抜けた口のように開いている。ヘッドライトを点ける。白い光が廊下を舐め、壁面のタイルが浮かび上がった。黄ばんだ掲示板に「ゴミ出しは火曜と金曜」の紙がまだ貼ってある。

階段を上がる。二階。三階。各フロアの蛍光灯は当然ながら消えている——と思ったが、三階の廊下だけ、薄く点いていた。

漏電か。あるいは非常電源が生きているのか。等間隔に並んだ蛍光灯のうち、手前の三本だけがちらちらと瞬いている。虫が管の中で焼けるような、じりじりという微かな音。その奥は闇だ。

「三階、蛍光灯一部生存。305号室に向かう」

レコーダーに吹き込みながら歩き出す。足音が壁に反射して二重に聞こえる。いや、三重か。コンクリートの箱は音を妙に歪める。

305号室のドアは半開きだった。蝶番が錆びて、押すと悲鳴のような金属音を立てた。室内は六畳一間の典型的な間取り。畳は腐り、壁紙は黒い染みに覆われている。天井の一角が崩れ、鉄筋が露出していた。

カメラを構え、四隅を撮る。レコーダーを部屋の中央に置き、五分間の環境録音を始める。

その五分間で、俺は窓枠に腰掛けて依頼書の続きを読んでいた。「305号室では深夜2時から3時の間に複数の足音」「子供の笑い声」「壁を叩く音」。報告の九割は心理的バイアスか環境音の誤認だ。残りの一割は捏造。統計的に、本当に説明のつかない現象は——

背後で、音がした。

ぱちん。

蛍光灯が消える音だ。さっき通ってきた廊下のほうから聞こえた。

ぱちん。もう一つ。

振り返る。部屋のドアの向こうに見える廊下が、奥から順に暗くなっていく。蛍光灯が一本ずつ、まるで指で摘まれるように消えている。三本あったうちの二本がすでに落ち、最後の一本がじりじりと抗うように明滅している。

俺は窓枠から立ち上がり、ドアの前に移動した。廊下を覗く。

最後の蛍光灯が、消えた。

完全な暗闇。ヘッドライトの白い円だけが廊下を切り取る。壁、床、天井。何もない。誰もいない。

——普通なら、ここで怖くなる。

心拍数を測る癖がある。腕時計型のモニターは毎秒の脈拍をログしている。今、画面を見た。数値は62。さっき階段を上がったときと変わらない。走ってもいないのに当然だが、蛍光灯が勝手に消えた直後としては、異常な数値だった。

ヘッドライトで廊下の先を照らす。三十メートルほど先の突き当たりにある非常口の表示灯も消えている。完全な停電。だとすれば蛍光灯の消灯に意味はない。ブレーカーが落ちただけだ。

そう結論づけて、部屋に戻ろうとした。

足音が聞こえた。

俺の足音ではない。俺は止まっている。

ぺたり。ぺたり。

裸足が濡れた床を踏むような、粘着質な音。廊下の闇のいちばん奥——非常口のさらに向こうから、こちらに近づいてくる。

ヘッドライトの光を向ける。三十メートル先。二十メートル先。光が届く限界のぎりぎり、壁と天井の境目あたりに、何かが見えた。

白い。

横に長い。

笑っている。

それは顔だった。壁に張りついた、人間の顔だ。だが口の幅が顔の二倍はあった。耳の後ろまで裂けた口が、蛍光灯のない暗闇の中でなお白く光っていた。目は黒い穴のようで、瞳孔と虹彩の区別がつかない。髪が重力を無視して天井に向かって広がり、壁のひび割れに根を張るように絡みついている。

「——口裂け」

俺の口が、勝手にその名前を呟いた。

足音は加速する。ぺたぺたぺたぺた。壁を這うように、その顔がこちらに迫ってくる。距離が縮まるにつれ、胴体が見えた。関節の曲がり方が人間ではない。四本の手足が壁と天井を交互に掴み、蜘蛛のような動きで這い寄ってくる。近づくにつれ、錆びた鉄と甘い腐敗の混じった匂いが漂ってきた。空気が粘度を増したように肌にまとわりつく。

腕時計を見た。

心拍数、62。

変わらない。やはり変わらない。

蜘蛛のような怪異が十メートルまで接近したとき、異変が起きた。

それが——止まった。

動きが鈍くなったのではない。凍りついたのだ。壁に張りついたまま、あの裂けた口が、笑みから別の表情に変わっていく。

恐怖。

化物が、怯えていた。

口裂けの裂けた口が震え、壁を掴む指が一本ずつ剥がれていく。後退。明らかに俺から逃げようとしている。

十メートルが十一メートルになり、十二メートルになる。

何が起きている。なぜこいつは逃げる。

廊下に、音が反響している。一定のリズム。低く、重い振動。

俺の心臓の音だ。

62。

変わらないまま、確かに鳴っている。その音が、この廊下を、この闇を、支配していた。

口裂けが限界まで後退したとき、非常口の壁に背中がぶつかった。もう逃げ場がない。

裂けた口が、叫んだ。声にならない叫び。空気が震えただけの悲鳴。

俺の足が、一歩前に出ていた。

自分の意思だったのか、わからない。ただ、指先が冷たい壁を離れ、暗闇の中で何かに——触れようとしていた。

廊下の奥で、口裂けの目が見開かれる。

そして俺の手が、それに届く寸前で——

レコーダーが録音終了のビープ音を鳴らした。

我に返る。ヘッドライトの光の先に、廊下がある。壁がある。天井がある。

何もいない。

何の痕跡もない。ただ、指先にかすかな湿り気が残っていた。結露にしては温かい。体温に近い、ぬるい水分。

スマートフォンが鳴った。

画面を見る。非通知。出る。

「一哉。今すぐそこを出ろ」

霧島の声だった。この時間に霧島から電話が来ることは、普通ならない。声が震えている。霧島の声が震えるのを、俺は聞いたことがない。

「何かあったのか」

「あった。——お前に、だ」

通話の向こうで、紙をめくる音がした。霧島が息を吸う。吐く。また吸う。長い沈黙が受話口を満たした。霧島はこういう男ではない。調査歴二十年、警察OBで、どんな現場の話を聞いても眉一つ動かさない人間だ。その霧島が、言葉を選ぶのに時間をかけている。

「"喰らい様"の元資料を手に入れた。一哉、お前の名前が載ってる」

電話を持つ手に、力が入らなかった。

「被害者リストじゃない。お前が——」

廊下の闇が、一度だけ脈打った気がした。

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