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鏡の裏切り者

第3話 第3話

第3話

第3話

朝六時。スマートフォンのアラームより先に、霧島は目を開けていた。

眠れなかった。正確には、眠らなかった。コピーしたデータの重みが意識を覚醒させ続けていた。ワンルームマンションの天井に薄い朝日が這っている。カーテンの隙間から差し込む光が、壁に細い線を引いていた。染みひとつない白い天井を見つめながら、何度も手順を反芻した。ミスはない。ミスはないはずだ。それでも脳は停止を拒んだ。

ベッドの下、床板の継ぎ目に仕込んだ空洞にUSBアダプタを隠してある。昨夜のうちにデータの暗号化と二重バックアップを済ませた。本体、クラウド、物理。三重の保険。どれかひとつが潰されても残りが生きる。

シャワーを浴び、コーヒーを淹れた。豆を挽く音が静かな部屋に響く。湯を注ぐと、苦い香りが狭いキッチンに広がった。マグカップに口をつけた瞬間、玄関のインターホンが鳴った。

時計を見る。六時二十三分。

この時間に訪ねてくる人間は限られている。隣人か、宅配の誤配か。あるいは——。

マグカップをカウンターに置いた。音を立てないように。コーヒーの表面がわずかに揺れ、すぐに静まった。

モニターを確認した。

二人の男が映っていた。一人は見覚えがある。黒鋼会の粛清部隊「灰狼」の構成員・梶。剃り上げた頭に太い首。もう一人は知らない顔だ。二十代後半、細身、目つきが鋭い。二人とも手ぶらだが、梶の腰の膨らみはホルスターだ。

灰狼が来た。

腹の底が冷える。だが表情は動かさない。ここにカメラはない。だが習慣として、常に見られている前提で行動する。

三つ数えた。早すぎず、遅すぎない間。驚いた人間の反応でもなく、待ち構えていた人間の反応でもない、ごく自然な間合い。

ドアを開けた。

「朝早くにすまんな、霧島さん」

梶が愛想のない声で言った。愛想がないのはいつものことだ。灰狼の人間に愛想のある奴はいない。梶の背後に立つ細身の男は一言も発さず、霧島の目を真っ直ぐ見ていた。品定めをする視線だ。

「何かあったか」

「鬼頭さんが呼んでる。車で待ってます」

拒否権はない。幹部が呼べば行く。それが組織の作法だ。霧島はコーヒーのマグカップを流しに置き、コートを羽織った。

黒いセダンの後部座席に鬼頭がいた。

煙草の匂いが車内に充満している。窓は閉め切り。朝の光がスモークガラス越しに薄暗く入り込んでいる。革のシートが体温を吸っていないのがわかる。鬼頭はここにしばらくいたはずだが、車内の空気はまだ冷たかった。霧島が乗り込むと、鬼頭は煙草の先端を灰皿に押しつけた。じゅ、と短い音。

「昨夜の取引、問題はなかったな」

「はい。相手方の態度にも不審な点はありませんでした」

「そうか」

鬼頭が新しい煙草に火をつけた。ジッポの蓋が金属音を立てて閉じる。炎が一瞬だけ鬼頭の顔を照らし、深い皺と鋭い目元を浮かび上がらせた。

「単刀直入に言う。組織に内通者がいる」

空気が変わった。梶と、もう一人の灰狼の構成員が前席で微動だにしない。鬼頭の声には怒りも焦りもなかった。事実を述べているだけだ。それが逆に重い。

「先月の横浜の件を覚えているか」

「倉庫の摘発ですか」

「ああ。あれは情報が漏れた。タイミングが正確すぎる。搬入の三時間後に踏み込まれた。偶然じゃない」

霧島は頷いた。横浜の件は知っている。武器の中継倉庫が警察に急襲され、下部構成員が三人逮捕された。霧島が流した情報ではない。あの時期、霧島は別の案件で大阪にいた。

「心当たりはないか」

鬼頭の目が霧島を射抜いた。老いた猛禽の眼だ。三十年以上裏社会を生きてきた男の、嘘を見抜くためだけに研がれた視線。

「ありません」

即答した。間を置かない。考えるふりは疑念を生む。

「俺の周りで不自然な動きをした人間はいません。ただ——」

霧島は一拍だけ沈黙を挟んだ。計算された間。

「横浜の件、搬入スケジュールを知っていたのは限られた人間です。物流の手配をした柏木と、日程を決裁した幹部会。そこから洗うのが筋かと」

鬼頭は煙を吐いた。紫煙がフロントガラスにぶつかり、横に流れる。

「朱鷺沢にも同じことを言わせた。お前と同じ答えだった」

朱鷺沢。灰狼のリーダー。霧島はその名前を聞いたとき、背筋に冷たいものが走るのを感じなかった。感じないように訓練してある。

「灰狼には当面、組織内部の洗い出しをやらせる。お前も協力しろ。幹部補佐として、各部門の動きに不審な点があれば報告しろ」

「了解しました」

鬼頭が窓を五センチだけ開けた。外気が煙草の煙を吸い出していく。朝の冷たい空気が頬に触れた。四月の東京の朝は、まだ指先が痺れるほどに冷える。

「霧島。お前を信頼しているから言う。灰狼は全員を疑う。お前も例外じゃない。気を悪くするな」

「当然です」

「降りろ。仕事に行け」

霧島が車を降りると、セダンはすぐに走り去った。排気ガスの白い筋が朝の空気に溶ける。マンションのエントランスに立ち、霧島は息を吐いた。白い呼気が一瞬だけ形を成し、消えた。

灰狼が動いている。組織内部の洗い出し。そして鬼頭は霧島に「協力しろ」と言った。これは信頼の表明ではない。監視対象に自覚を与え、反応を見る手口だ。泳がせて、尻尾を出させる。鬼頭はそういう男だ。

左手首の火傷痕に右手の指が触れた。無意識の動作。すぐに手を離す。癖を見せるな。

部屋に戻り、流しに置いたままのマグカップを手に取った。コーヒーはすっかり冷めていた。一口含む。苦味だけが舌に残る。

事務所に出勤したのは九時だった。いつも通りの時間。いつも通りの動線。エレベーターで七階に上がり、デスクに着く。フロアには数人の構成員がすでにいた。日常業務——不動産会社としての表の仕事が動いている。電話の応対、書類の整理、来客の対応。この光景だけ切り取れば、どこにでもある中小企業のオフィスだ。

十時十五分。

霧島は書類を届けるために八階の会議室に向かった。階段を使う。エレベーターより所要時間はかかるが、各フロアの空気を肌で感じられる。踊り場で立ち止まり、靴紐を結び直すふりをした。

八階の廊下の先に、声が聞こえた。

低く、抑えた声。だが反響する廊下では断片が届く。

「——昨夜、データを確認しました」

周防の声だった。

「触られた痕跡は?」

鬼頭だ。

霧島の足が止まった。靴紐に触れたまま、呼吸を止める。心臓が跳ねた。だが膝は動かさない。指先だけが靴紐の上で、ごく自然な動作を続けている。

「断定はできません。ただ、PCのスリープ復帰ログに不整合がありました。私が離席していた時間帯に、一度画面が点灯しています」

沈黙。

「画面を開いただけで、ファイルへのアクセスログはありません。USBのコピー記録も見当たらない。ですが——」

「ですが?」

「同じ時間帯にコピー機の使用ログがあります。霧島さんの報告書です」

また沈黙。長い。廊下の蛍光灯が微かに唸っている。その音が、今まで気にもしなかったはずなのに、やけに耳につく。

「つまり、霧島がお前のPCに触れる物理的な機会があったと」

「可能性を排除できない、という報告です」

足音が近づいてきた。霧島は靴紐を結び終えた体で立ち上がり、階段を一段上がった。会議室とは反対方向、八階の給湯室に向かう廊下に折れる。すれ違ったのは名前を知らない事務の女性だった。会釈を返す。頬の筋肉を僅かに動かし、日常の表情を作る。

周防が鬼頭に報告している。PCの不整合。コピー機のログ。点と点が線になりかけている。

霧島は給湯室で水を一杯飲み、七階に戻った。水は冷たく、喉を通るとき胃の底まで温度が伝わった。

デスクに座る。書類を広げる。ペンを握る。日常の動作を完璧にトレースする。だが頭の中では時間の計算が走っていた。

周防の報告は「断定はできない」だった。つまりまだ灰色。ファイルアクセスのログは残していない。USBアダプタは電磁信号の読み取りだから、PC側にコピー記録は残らない。だがスリープ復帰のログは消せなかった。あの一点が楔になっている。

窓の外に目をやった。ビルの向かい側、駐車場の入口に黒い車が一台停まっていた。朝からずっとそこにある。運転席に人影。フロントガラスの反射で顔は見えない。だが、あの停め方は素人ではない。出入口と事務所の正面玄関を同時に視認できる角度。訓練された配置だ。

灰狼だ。

監視が始まっている。

霧島はペンを走らせた。報告書の文字は一画の乱れもない。

窓の外の車は動かない。周防は八階で鬼頭と話している。灰狼の網が、静かに縮まり始めていた。

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