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鏡の裏切り者

第2話 第2話

第2話

第2話

車内に沈黙が降りた。

戸田がハンドルを握り、港湾地区を抜ける。バックミラーに倉庫の灯りが小さくなっていく。霧島は助手席の窓に額を預け、目を閉じた。眠るふりだ。頭の中では、あのファイルディレクトリが回転し続けている。

KG-GOV。MR-LIST。PHANTOM。

三つのフォルダ名。一瞬しか見えなかった。だが一瞬で充分だった。KGは黒鋼会のイニシャル。GOVは政府。つまり黒鋼会と政府の接点を示すデータ。MR-LISTは不明だが、リストという以上は人名か取引先の一覧だろう。

そしてPHANTOM。

三年前に壊滅した公安の極秘作戦の名前を、なぜ組織の経理担当が持っている。答えはひとつしかない。あのUSBには、作戦を潰した側の記録が入っている。

周防の最後の視線が脳裏にこびりついていた。あの男は気づいている。少なくとも、霧島が画面を見たことを疑っている。だが確証はないはずだ。霧島が視線を固定したのは〇コンマ数秒。人間の知覚が反応を返すには短すぎる時間だ。

——問題は、周防が人間の標準で測れる男かどうかだ。

「霧島さん、事務所に戻りますか」

「ああ」

事務所。黒鋼会が港区に構える不動産会社のオフィス。表向きは合法的な法人で、霧島の肩書きは営業部長だ。夜間の取引後はそこで報告書を作成し、鬼頭に提出するのが通例だった。

今夜もそうする。いつも通りに。いつも通りであることが、生存の条件だ。

事務所に着いたのは午前一時を回った頃だった。ビルの七階。エレベーターを降りると、フロアには常夜灯の薄明かりだけが広がっている。デスクが整然と並ぶオフィスは、昼間なら普通の中小企業と見分けがつかない。違いがあるとすれば、給湯室の奥にある施錠された部屋——監視カメラのモニタールームと、床下に隠された金庫の存在くらいだ。

霧島は自分のデスクに座り、報告書の作成を始めた。取引の概要、納品数、相手方の態度。すべて定型のフォーマットに沿って記入する。ペンを走らせながら、意識は別の場所にあった。

周防のデスクは霧島から三列先。経理部門は別フロアだが、周防は週に二、三回このフロアに来る。今夜の取引後の事務処理もここでやるはずだ。

足音。

エレベーターが開く音がして、廊下を歩く靴音が近づいてくる。革底の硬い音。歩幅は狭く、リズムは一定。周防だ。

霧島はペンを動かし続けた。

周防がフロアに入ってきた。霧島に一瞥もくれず、自分の臨時デスクに向かう。ノートPCを開き、USBを——あの黒いUSBを差し込んだ。

霧島の心拍が上がる。ここからだ。

報告書を書く手を止めない。だが視界の端で、周防のモニターの光量変化を追っている。画面の反射がデスク横のガラスパーティションに映る。解像度は低いが、ウィンドウの配置くらいは読める。

周防がファイルをコピーしている。USB上のデータをローカルに移しているのか、その逆か。作業時間はおよそ四分。長い。送金確認の記録程度なら一分もかからない。つまり、扱っているデータ量が通常の経理処理とは桁が違う。

周防がUSBを抜いた。

ノートPCを閉じ、立ち上がる。コーヒーを淹れに給湯室へ向かった。

今しかない。

霧島は椅子から立ち上がった。報告書を手に、コピー機へ歩く。コピー機は周防のデスクの二列手前にある。自然な動線だ。コピー機のガラス面に報告書を置き、ボタンを押す。機械が唸り始める。

その間に、左手がコートの内ポケットに入る。指先が小型のUSBアダプタに触れた。爪の先ほどの大きさの無線レシーバー。公安時代の装備ではない。三年前に自分で調達したものだ。組織の技術部門から流用したパーツを組み合わせた即席のコピーデバイス。周防のPCに直接触れる必要はない。USBポートに残留する電磁信号を——。

駄目だ。距離が足りない。周防のPCは二メートル先。レシーバーの有効範囲は五十センチ以内。

コピー機が報告書を吐き出す。霧島はそれを手に取りながら、次の手を考えた。

直接コピーするしかない。

給湯室からコーヒーの匂いが漂ってくる。湯を沸かす音。周防が戻るまで——推定九十秒。電気ケトルの容量と水量から逆算した数字だ。

霧島は足音を殺して周防のデスクに近づいた。ノートPCの天板に手をかけ、開く。画面が点灯する。パスワードロック。想定内だ。だが周防は四分前にPCを閉じたばかり。スリープ復帰のタイムアウトは通常五分に設定されている。

画面が開いた。ロックされていない。

デスクトップにフォルダが三つ。名前は記号の羅列——周防の暗号化命名規則だ。だがフォルダのタイムスタンプが今夜の日付を示しているものがひとつある。それを開く。

ファイル一覧が展開された。

霧島の目が高速で走る。

スプレッドシート。「KG-GOV_payment_2023-2026.xlsx」——黒鋼会から政府関係者への支払いリスト。四年分。金額の列が並んでいる。最小でも月額二百万。最大は八千万を超えている。支払先は匿名化されているが、所属コードが付与されている。「MOJ」「NPA」「CABINET」——法務省、警察庁、内閣府。

次のファイル。「MR-LIST_active.csv」。開く。

コードネームの一覧だった。組織が管理する「協力者」のリスト。コードネーム、所属区分、接触頻度、報酬レンジ。二十三名。その中に——。

「鏡」。

所属区分:NPA-PSB。

警察庁公安部。

霧島の指が止まった。

公安の内部に、黒鋼会の協力者がいる。コードネーム「鏡」。報酬レンジは最高ランク。接触頻度は「月次+随時」。つまり定期的に情報を流し、必要に応じて臨時の協力もする。深い。単なる情報提供者ではない。組織の意思決定に関与できるレベルの内通者だ。

三年前のファントム作戦壊滅。情報漏洩の出元。こいつだ。

こいつが、五人を殺した。

胸の奥で何かが軋んだ。怒りではない。もっと冷たいもの。三年間探し続けた影に、ようやく輪郭が生まれた感覚。名前はまだない。だがコードネームがある。所属がある。ここから辿れる。

USBアダプタをポケットから出し、PCの背面ポートに差し込んだ。コピー開始。プログレスバーが走る。データ量は大きくない。二十秒で終わる。

十五秒。

給湯室でケトルのスイッチが切れる音。

二十秒。コピー完了。アダプタを抜き、ポケットに戻す。フォルダを閉じ、PCの天板を元の角度に戻す。

霧島がコピー機の前に戻った三秒後、周防が給湯室から出てきた。

白い陶器のカップを手に、デスクに座る。PCを開く。画面を見る。

霧島は自分のデスクで報告書のホチキス留めをしていた。金属の小さな音が、静まり返ったオフィスに響く。何事もない夜の、何事もない事務作業。

周防がキーボードに触れた。一度、手を止めた。

画面を見つめている。

長い。五秒。十秒。

何を見ている。

周防の指がトラックパッドの上を滑った。ファイルのアクセスログを確認しているのか。タイムスタンプの不整合に気づいたのか。あるいは、PC天板のわずかな角度の違いを——。

周防が顔を上げた。

霧島の方を見た。

霧島はホチキスの針を詰め替える動作をしていた。視線を返さない。返す理由がない。幹部補佐が経理担当の方を無意味に見る理由はない。自然体でいろ。呼吸を変えるな。

五秒の沈黙。

周防は視線を戻した。何事もなかったように、画面に向き合う。

だがあの五秒間、周防の目には倉庫で見たのと同じ色が浮かんでいた。観察。計量。値踏み。あの男は霧島の挙動を記録している。今夜の取引中に画面を見た瞬間と、今この深夜のオフィスでの位置関係。二つの点が線になれば、周防は確信に変わる。

霧島は報告書をファイルに綴じ、デスクの引き出しにしまった。

「お先に」

周防に声をかける。日常の挨拶。声のトーンは完璧に制御されている。

「お疲れさまです」

周防の返答も平坦だった。感情の気配はない。だがそれ自体が異常だ。周防は普段、退勤の挨拶に「おやすみなさい」と返す。今夜は「お疲れさまです」だった。丁寧すぎる。距離を置く言葉だ。

エレベーターのドアが閉まる。

霧島は壁にもたれ、目を閉じた。

左のポケットに、USBアダプタの重みを感じる。数グラムの小さな塊。だがその中に入っているデータは、三年間の潜入で最も重い成果だ。

「鏡」は公安の内部にいる。

志田を、山根を、棚橋を、椎名を、小笠原を——五人の仲間を売った人間が、今も公安の椅子に座っている。

エレベーターが一階に着く。

ロビーを出ると、雨上がりの夜気が頬に触れた。アスファルトが濡れた光を反射し、街路樹の葉から最後の雫が落ちている。霧島は歩き出した。自宅までは徒歩十五分。尾行の気配はない。だが安心はしなかった。

周防の「お疲れさまです」が、耳の奥にこびりついている。

あれは挨拶ではない。宣告だ。お前を見ている、という。

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