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返答さん

第3話 第3話

第3話

第3話

翌日も、その翌日も、翔太の声は戻らなかった。

二日目の朝、講義棟の廊下で翔太を見かけたとき、彼は友人のタケシと並んで歩いていた。タケシが何か話しかけている。翔太が口を開く。動いている。唇は確かに動いている。でも僕の位置からは声が聞こえなかった。五メートルも離れていないのに。タケシが「え?」と聞き返して、翔太がもう一度口を動かす。タケシがまた「え、なに?」と首を傾げる。翔太が苦笑いして、ポケットからスマホを取り出し、画面を見せた。タケシが画面を覗き込んで、「まだ喉やってんのか、病院行けよ」と笑った。

僕は声をかけようとして、やめた。廊下の人波に紛れて翔太の背中を見つめていた。歩き方はいつも通りだった。姿勢も、服装も、髪型も変わらない。ただ声だけが——奪われている。奪われている、という言葉が脳裏に浮かんで、僕は慌ててそれを押し込めた。枯れている。風邪かカラオケで枯れているだけだ。

その日の夕方、翔太にメッセージを送った。『声の調子どう?』。返信は三十分後に来た。

『まじ全然出ない。ささやき声すら無理。あした病院行くわ』

絵文字も「笑」もついていなかった。翔太のメッセージに軽さがないのは珍しかった。もう一通。

『つか蓮、お前のブログの音声さ、ちょっと気になることあるんだけど。明日会えない?』

何が気になるのか聞き返したが、既読がついたきり返信はなかった。

三日目。水曜日の二限、比較文化論。百五十人が入る大教室の後方に、僕と翔太は隣り合って座っていた。教授がスライドを切り替えながら中世ヨーロッパの民間伝承について話している。翔太はノートを取るふりをしながら、ペンを持つ手を時折止めて喉に触れていた。喉仏のあたりを、確かめるように。

教授が突然、翔太を指名した。

「そこの君、この伝承のモチーフが日本の怪談と共通している点を挙げられるかな」

翔太が顔を上げた。口を開いた。

音がしなかった。

唇が動いている。舌が動いている。喉が震えようとしている。でも空気しか出てこない。声帯を通過するはずの振動が、どこかで消えている。翔太の口から漏れるのは、かすかな吐息だけだった。乾いた、音にならない息。

教室が静まった。百五十人の視線が翔太に集まる。教授が怪訝そうに眉を寄せた。「すみません、聞こえなかったんだが」

翔太がもう一度口を開いた。首の筋が浮き出るほど力を込めて、声を出そうとしていた。顔が赤くなった。額に汗が滲んだ。それでも——何も出なかった。完全な無音だった。まるで見えないガラスの箱に声だけが閉じ込められたように、翔太の口は動くのに、世界には何も届かなかった。

僕が代わりに答えた。何を言ったか覚えていない。教授は頷いて先に進み、教室のざわめきはすぐに収まった。翔太は残りの講義の間、一度も口を開かなかった。ノートに何かを書きつけていたが、ペン先が何度も紙を突き破りそうなほど強く押しつけられていた。

講義が終わって、僕は翔太の腕を掴んだ。「病院行くぞ」。翔太は抵抗しなかった。黙って——というより、黙ることしかできないまま、頷いた。

大学から二駅の総合病院。耳鼻咽喉科の待合室は平日の午後だったせいか空いていて、三十分ほどで呼ばれた。僕は待合室の硬い椅子に座って翔太を待った。窓の外は曇り空で、灰色の光が廊下のリノリウムを鈍く照らしている。消毒液の匂いが鼻の奥にこびりつく。壁に貼られたインフルエンザ予防のポスターを何度も読み返しながら、二十分が過ぎた。

翔太が診察室から出てきた。その顔を見た瞬間、胃の底に冷たいものが落ちた。

怒っていた。怯えていた。その二つが同時に浮かんでいる表情を、僕は翔太の顔に見たことがなかった。翔太は無言で——無言しかできないまま——スマホの画面を僕に向けた。メモアプリが開いていた。

『声帯に異常なし。炎症もなし。喉頭も正常。心因性の失声症の疑いで心療内科を紹介されたけどそれ違う。俺メンタルは普通だ』

「心因性……ストレスとかで声が出なくなるやつか」

翔太が激しく首を横に振った。スマホを奪い返すように手元に引き寄せて、新しいメモを打ち始めた。指が震えていた。画面をタップする音が待合室に小さく響く。打ち終わるまで一分近くかかった。翔太は僕にスマホを突きつけるように差し出した。

画面に、こう書いてあった。

『蓮、俺あの交差点に行った。お前の記事読んだ夜。深夜2時に。カラオケは嘘だ。ユウキとタケシには頼んで口裏合わせてもらった。お前に心配かけたくなかった。でもあそこで名前を呼ばれた。振り返った。それから声がこうなった。何が起きてる? お前は知ってるのか?』

文字が目の前で歪んだ。一文字ずつ読んでいるはずなのに、意味が頭に入ってくるのが遅かった。あの交差点に行った。深夜二時に。名前を呼ばれた。振り返った。七日で声がなくなって、そのあと消える。掲示板の書き込みが、脳の奥で反響した。

「翔太」

名前を呼んだら声が裏返った。翔太が僕の顔をじっと見ている。声を失った人間の目は、こんなにも多くを語るのかと思った。怒り、恐怖、そして——助けを求める色。翔太が僕のブログを読んだから、あの交差点に行った。僕が軽い調子で「何もないぞ」と返したから、翔太は行ったのだ。

「なんで、行ったんだよ」

声が震えた。翔太がスマホを操作して、また画面を見せた。

『お前の記事の音声聴いたら気になった。ていうか行くなって言わなかったじゃん。何もないって言ったのお前だろ』

反論できなかった。翔太の言う通りだった。僕はあのとき、止められたはずだった。録音に不審な音が混じっていることを知っていた。それでも「何もないぞ」と笑って送信した。翔太が行くかもしれないと分かっていて、止めなかった。確信がなかったから。バカバカしいと思われたくなかったから。たったそれだけの理由で。

「あの交差点で何があった。詳しく教えてくれ」

翔太がスマホを打つ。今度は長かった。途中で何度も消しては書き直しているのが画面のちらつきで分かった。やがて、完成した文面が差し出された。

『到着したのは1時50分くらい。街灯の下に立って待った。2時ちょうどくらいに風が止まった。急に。虫の声も車の音も全部消えて、自分の心臓の音だけになった。そしたら後ろから声がした。俺の名前。はっきり聞こえた。男とも女ともつかない声。でも確実に「翔太」って呼んだ。振り返るなって噂は知ってた。でも体が勝手に動いた。考えるより先に首が回った。振り返った先には誰もいなかった。でも空気が変だった。冷たいとか暗いとかじゃなくて、空間の奥行きがおかしかった。交差点の向こうに、あるはずのない暗闇が広がってた。5メートル先にあるはずの民家が見えなかった。暗闇の中に何かが立ってた気がする。でも見る前に我に返って走って帰った。翌朝から声がおかしくなった』

読み終えた。顔を上げると、翔太が両手を膝の上で握り締めていた。爪が掌に食い込んで、指先が白くなっている。

掲示板の書き込みが、もう一度頭の中を過った。

振り返った人は七日で声がなくなって、そのあと消える。

翔太が交差点に行ったのは三日前の夜。声は日に日に弱くなり、今日完全に消えた。あの書き込みが正しいなら、残りは四日。四日後に翔太は——消える。

「帰ろう」

僕はそれだけ言って立ち上がった。翔太が不安そうな目で僕を見上げる。安心させるような言葉を探したが、何も見つからなかった。「大丈夫」と言える根拠がどこにもなかった。代わりに翔太の肩を叩いた。叩いたというより、掴んだ。ここにいるぞ、と伝えたかった。声では届かないものが、この手からなら届くかもしれないと思った。

病院を出ると外は薄暗くなっていた。曇り空がそのまま夕闇に溶けたような、のっぺりとした灰色の空。翔太と並んで駅まで歩いた。二人とも何も言わなかった。翔太は言えず、僕は言えなかった。改札の前で翔太が手を振って、反対方向のホームに消えていった。

帰りの電車の中で、スマホを取り出した。ブログの管理画面を開く。昨日の記事のアクセス数がまた伸びていた。コメント欄に「場所教えてください」という書き込みが三件。音声ファイルの再生回数は三百を超えている。あの呼吸を、三百人が聴いた。

画面を閉じて、窓の外を見た。電車の窓に自分の顔が映っている。その向こうを、夕暮れの街が流れていく。

翔太の最後のメモが、網膜に焼きついて離れなかった。

『深夜2時に名前を呼ばれた。振り返った』

たった二文。たったそれだけのことで、親友の声が消えた。そしてあと四日で、翔太そのものが消えるかもしれない。僕のブログが翔太をあの交差点に連れていった。僕の「何もないぞ」が、翔太の足をあの暗闇に向けた。

電車が駅に停まるたびに、ドアが開いて夜の空気が流れ込んでくる。十月の冷気。あの交差点と同じ匂いがした。枯れた草と、アスファルトと、微かに湿った闇の匂い。

スマホが震えた。翔太からのメッセージ。

『言い忘れてた。振り返ったとき、暗闇の奥に何かが立ってたって書いたよな。あれ、口を開けてた。音は聞こえなかった。でも唇の形で分かった。あれは俺の名前じゃなかった。蓮、あれはお前の名前を呼んでた』

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