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返答さん

第2話 第2話

第2話

第2話

朝が来た。それだけのことが、これほど救いになるとは思わなかった。

カーテンの隙間から射し込む日光が布団の上に白い帯を作っていて、僕はそれを見て、ようやく体の強張りが解けるのを感じた。壁に背中を預けたまま、いつの間にかうとうとしていたらしい。首が痛い。目の奥がじんわりと重い。スマホを手に取ると、画面には何の通知もなかった。午前八時十七分。昨夜の青白い光は、やはりバッテリーの警告だったのだろう。

シャワーを浴びて、インスタントの味噌汁をすすった。湯気の向こうに六畳間が見える。夜とは別の部屋みたいだった。壁の染みも、積み上げた本の影も、日光の下ではただの生活の一部に過ぎない。昨夜の自分がひどく滑稽に思えた。録音のノイズにびびって一晩眠れなかった二十一歳。翔太に話したら腹を抱えて笑うだろう。

パソコンを開いて、記事を書き始めた。

タイトルは「返答さん——深夜2時の交差点を歩いてみた」。いつも通りの構成だ。噂の出典、現地の様子、体験した事実、考察。録音データについても正直に書いた。足音の合間に呼吸のような音が混入していたこと。ただし原因はマイクのノイズである可能性が高いこと。最後に音声ファイルの該当部分を切り出して埋め込んだ。読者が自分の耳で判断できるように。僕のブログはそういうスタンスでやってきた。煽らない、盛らない、事実だけを並べる。

記事を公開したのは午前十一時過ぎだった。大学の二限には間に合わない時間だったが、今日は休講日だった。ブログの管理画面を眺めていると、SNSの通知が鳴った。翔太からのメッセージだった。

『お前また変なとこ行ったのか笑』

既読になるのが早い。たぶん講義をサボって寝転がりながらスマホをいじっている。翔太はそういうやつだ。高校からの付き合いで、同じ大学に進学して、今はアパートが二駅離れているだけ。僕が都市伝説に首を突っ込むたびに「正気か?」と笑いながら、毎回記事だけはちゃんと読んでくれる。

『取材だよ取材。結局何もなかった』

『音声やばくね? なんか息してるじゃん誰か』

翔太は記事に埋め込んだ音声をもう聴いたらしい。僕は返信を打ちながら、少しだけ指が止まった。昨夜の感覚が、日光の下でもまだ薄く残っている。あの等間隔の吸気。唇が剥がれる音。——振り払うように、軽い文面を作った。

『マイクのノイズだと思う。風が変に入っただけ』

『マジで? めっちゃリアルなんだけど。俺も行ってみよっかな、その交差点』

画面を見つめた。指がキーボードの上で止まった。

やめとけ、と打とうとした。でも、何を根拠に? ノイズだと自分で書いたばかりだ。あの交差点には何もなかった。信号のない寂れた十字路に、幽霊も怪異も化け物もいなかった。僕が一晩怯えたのは、録音に混じったノイズと自分の想像力のせいだ。それを根拠に親友を止めるのは、都市伝説を本気で信じていると認めることと同義だった。

『好きにしろ笑 何もないぞマジで』

送信した。画面の向こうで翔太が「つまんねー」とでも呟いている顔が浮かんだ。それで終わりだと思った。

翌朝、学食で翔太と会った。

昼前の学食はまだ空いていて、僕たちはいつもの窓際の席に座った。翔太はカレーうどんを頼んで、僕はカツ丼を頼んだ。いつも通りの昼だった。ただひとつ違ったのは、翔太の声だった。

「——で、昨日の課題さあ」

翔太が口を開いた瞬間、違和感が耳を刺した。声が掠れていた。風邪を引いたときの声とも違う。喉の奥に薄い膜が張っているような、言葉の輪郭がぼやけるような掠れ方だった。母音が途中で息に変わる。子音が湿気を帯びる。いつもの翔太の声——少し高くて、語尾が跳ねる、あの軽い声ではなかった。

「声、どうした?」

「ああ、これ? 昨日カラオケ行ってさ、調子乗って叫びすぎた」

翔太はカレーうどんをすすりながら、何でもない顔で笑った。そうか、カラオケか。それなら掠れても不思議じゃない。翔太は歌が下手なくせにやたら声量だけは出すタイプだ。僕は頷いて、カツ丼の衣を箸で崩した。

でも——カラオケ。

翔太は昨日、SNSで「俺も行ってみよっかな」と言っていた。あの交差点に。僕はあのとき軽く流した。何もないと笑った。翔太がほんとうにカラオケに行ったのか、それとも——

「なあ、翔太」

「ん?」

「昨日の夜、どこ行ってた?」

「だからカラオケだって。ユウキとタケシと三人で。なんだよ、俺の行動管理すんのかお前」

翔太がうどんの汁を啜りながら可笑しそうに言った。目元が笑っている。嘘をついている顔じゃなかった。考えすぎだ。翔太はカラオケに行って、声を枯らして、今こうしてカレーうどんを食べている。それだけのことだ。

僕は無理やり話題を変えた。来週の中間レポートのこと、バイトのシフトのこと、くだらない日常の会話。翔太はいつも通り笑って、いつも通りくだらない冗談を言った。ただ、その声だけが——掠れていた。会話を重ねるほど、掠れが深くなっている気がした。最初は母音の端が少し曖昧になる程度だったのに、食事が終わる頃には、言葉と言葉の間に小さな咳が混じるようになっていた。

「のど飴いるか?」

「大丈夫大丈夫。水飲めば治るっしょ」

翔太はペットボトルの水を一口飲んで、立ち上がった。次の講義があるらしい。「じゃあな」と片手を上げて去っていく背中を見送りながら、僕はトレーの上のカツ丼を見下ろした。半分も食べていなかった。

食欲がなかった。

翔太の掠れた声が耳に残っている。あの声の質感が——どこかで聞いた音と重なる。何だったか。すぐには思い出せなくて、学食の窓から差し込む午後の光をぼんやり見つめた。窓の外では銀杏が風に揺れて、黄色い葉が一枚、二枚と落ちていく。日常の風景だ。平和で、退屈で、何も起きない昼下がり。なのに胸の底が重い。

アパートに帰って、パソコンの前に座った。ブログの管理画面を開く。昨日投稿した記事のアクセス数が普段の三倍に伸びていた。音声ファイルの再生回数は百回を超えている。コメント欄にも書き込みが増えていた。「これマジ?」「加工でしょ」「何番目の交差点か教えて」——読み飛ばした。

ふと、音声ファイルをもう一度聴こうという気持ちが湧いた。昨夜はノイズだと結論づけた。朝の自分もそう思った。でも翔太の声を聞いてから、何かが引っかかっている。確認しなければならないことがある気がする。その正体が分からないまま、僕はイヤホンを耳に押し込んだ。

再生。

ざ、——すぅ。ざ、——すぅ。

昨夜と同じ音。僕の足音に重なる呼吸。やっぱりノイズにしか——いや。

僕は呼吸音ではなく、その直前の音に意識を集中した。昨夜気づいた、唇が剥がれるような短い音。ぺ、という湿った粘膜の音。何かを言おうとしている音。

音量を最大にして、その部分だけを繰り返し再生した。三回目で、血の気が引いた。

聞こえた。ぺ、ではなかった。

「——れ」

掠れた、途切れ途切れの、人の声だった。「れ」。僕の名前の、最初の一音。

再生。

「——れ」

もう一度。

「——れ、ん——」

蓮。僕の名前を、呼んでいる。

喉の奥がぎゅっと縮んだ。イヤホンから流れ込んでくる音の一粒一粒が鼓膜を直接叩いているような感覚だった。この声の質。この掠れ方。乾いた喉の奥から絞り出すような、輪郭の溶けた発音。どこかで——今日、聞いた。ついさっき聞いた。

翔太の声だ。

学食で聞いた翔太の掠れた声と、録音の中で僕の名前を呼ぶ声の掠れ方が、同じだった。

違う。落ち着け。録音は一昨日の深夜だ。翔太は昨日カラオケに行って声を枯らしただけだ。時系列が合わない。因果関係なんてあるはずがない。録音に人の声が混じっているのだって、僕の脳が勝手にパターンを見出しているだけだ。人間の聴覚は曖昧な音から言葉を聞き取ろうとする。パレイドリア。心理学の教科書にも書いてある。

でも。

翔太は本当にカラオケに行ったのか。あの交差点に、行っていないのか。

スマホを手に取った。SNSを開いて、翔太のタイムラインを確認する。昨夜の投稿はひとつもなかった。普段の翔太なら、カラオケに行けば必ず動画か写真を上げる。点数が出るたびにスクリーンショットを撮る男だ。それが、昨夜に限って何もない。

ユウキに確認すればいい。一瞬そう思ったが、指が止まった。確認してどうする。翔太がカラオケに行っていなかったと分かったら。あの交差点に行っていたと分かったら。そのとき僕は——何ができる。

窓の外が暗くなり始めていた。十月の日は短い。オレンジ色の光が部屋の壁を斜めに切って、やがて消えた。僕はパソコンの画面を見つめたまま動けなかった。ブログの管理画面には、音声ファイルの再生回数がまだ伸び続けているのが見える。百二十。百三十。誰かがあの音を聴いている。僕が聴いたのと同じ呼吸を、どこかの誰かが今イヤホン越しに聞いている。

スマホが鳴った。翔太からのメッセージだった。

『今日ちょっと喉やばいわ。声全然出ない笑』

笑。翔太は「笑」をつけている。いつも通りだ。いつも通りの翔太だ。声が出ないのはカラオケのせいだ。そうに決まっている。

返信を打つ。『のど飴買っとけ』。送信ボタンを押す。それだけの動作に、三十秒かかった。

画面が暗転して、僕の顔が映り込んだ。目の下に隈ができている。昨夜一睡もできなかったせいだ。もう一つ、自分の顔に映っているものがあった。顔色が悪い。唇が乾いている。そして——表情が、怯えている。

あの交差点で何も起きなかったのなら、僕は何に怯えている。

時計を見た。午後六時十二分。深夜二時まで、あと七時間四十八分。今夜もまた、あの時間が来る。昨日録音した呼吸音は、僕が交差点を去った後もなお続いていた。ということは、あの場所で——あるいは録音データの中で——何かはまだ、息をしている。

翔太の返信はそれきり来なかった。既読はついている。声が出ないなら文字で返せばいいのに、そうしない翔太のことが妙に気にかかった。液晶画面の小さな既読マークが、暗くなっていく部屋の中で、目を閉じた誰かの瞼みたいに見えた。

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