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返答さん

第1話 第1話

第1話

第1話

都市伝説なんて、所詮は誰かが暇つぶしに作った嘘だと思っていた。

少なくとも、あの夜まではそうだった。

僕——秋月蓮は、大学三年の秋をいつもと同じように過ごしていた。講義に出て、学食でカツ丼を食べて、図書館で少しだけ課題を進めたふりをして、夜はアパートの六畳間でノートパソコンを開く。画面に映るのは、僕が二年前から細々と続けている都市伝説ブログ「境界線の向こう側」だ。読者は百人もいない。それでよかった。誰かに届けたいわけじゃなく、調べること自体が好きだったから。

口裂け女、ひきこさん、くねくね。有名どころは一通りまとめ終えて、最近はローカルな噂を探していた。大手サイトに載っていない、地元の掲示板やSNSの片隅に転がっている小さな怪談。それを掘り起こして、現地を歩いて、記事にする。翔太には「よくそんな気味悪いの調べるな」と笑われるけれど、現場に行ってみれば大抵は何もない、ただの寂しい場所だ。幽霊より、深夜のコンビニで絡んでくる酔っ払いのほうがよっぽど怖い。

その夜、僕は地元の匿名掲示板で見つけた書き込みをスクロールしていた。

『返答さんって知ってる? 深夜2時に○○交差点で名前を呼ばれても絶対に振り返っちゃだめ。振り返った人は7日で声がなくなって、そのあと消える』

投稿日は三年前。返信はひとつだけで、「それうちのばあちゃんも言ってた」という短い文。それきり、スレッドは沈んでいた。

○○交差点。伏せ字になっているが、文脈から場所はすぐに特定できた。僕のアパートから自転車で十五分。旧市街の外れにある、信号もない小さな十字路だ。昼間に一度通ったことがある。周囲は空き地と古い民家ばかりで、街灯は一本だけ。夜は相当暗いだろうなと思った記憶がある。

行ってみよう、と思った。怖さは一ミリもなかった。むしろ胸の底に、いつもの淡い高揚感があった。見知らぬ夜道に一人で足を踏み入れる瞬間。世界が少しだけ日常からずれる感覚。僕がこのブログを続けている理由は、突き詰めれば、この感覚を味わいたいからだった。

深夜一時四十分、僕は自転車を降りて交差点に立っていた。

十月の夜風は思ったより冷たくて、パーカーのフードを被った。吐く息が白くなりかけていた。街灯の明かりがアスファルトに白い円を落としている。その外側は闇だった。民家の窓はすべて暗く、虫の声すら聞こえない。静かだった。自分の呼吸だけが、やけに大きく耳に届く。

交差点の中心に立って、ゆっくりと四方を見渡した。東西に伸びる道は五十メートルほど先で暗闇に呑まれ、南北の道は雑草に覆われた空き地に面していた。アスファルトの亀裂から雑草が伸びて、街灯の根元には捨てられた空き缶が転がっている。生活の気配があるのに、人の気配がまるでない。そのちぐはぐさが、かえって作り物めいた静けさを強調していた。

スマホのボイスレコーダーを起動した。取材の基本だ。いつ、どこで、どんな音が聞こえたか。何も録れなくても、「何も起きなかった」という事実そのものが記事になる。

二時まで待った。

何も、起きなかった。

名前を呼ぶ声もなければ、足音も、影も、気配もない。冷たい風が時折吹き抜けるだけで、交差点はただの交差点だった。信号のない、寂れた十字路。拍子抜けして、僕は小さく笑った。

「——やっぱりな」

独り言が夜気に溶けた。ポケットに手を突っ込んで、自転車に跨がる。録音を止めて、帰路についた。ペダルを漕ぎながら、もう記事の書き出しを考えていた。「現地検証の結果、特筆すべき現象は確認できなかった」——いつもの締めくくりだ。

アパートに戻ったのは二時二十分過ぎだった。靴を脱いで、手を洗って、パソコンの前に座る。さっさと記事を書いてしまおう。まず録音データを確認する。現場の環境音を文字に起こすのが僕のスタイルだった。

イヤホンを耳に押し込んで、再生ボタンを押す。

ざ、ざ、ざ。自分の足音。交差点に向かう砂利道の音がまず流れた。遠くで車が走る音。風がマイクを擦る、ぼわっという低い雑音。何の変哲もない深夜の環境音だ。僕は早送りしようとして——指を止めた。

足音の合間に、何か別の音が混じっている。

ざ、——すぅ。ざ、——すぅ。ざ、——すぅ。

僕の足音の直後に、吸気音が入っていた。等間隔で。僕の歩調にぴったり合わせるように。

最初は自分の呼吸だと思った。マイクが拾っただけだ。でも、僕は歩きながら口呼吸なんてしない。鼻で浅く吸って、吐く。この音はそうじゃなかった。もっと深い。喉の奥から絞り出すような、湿った吸気だった。まるで水底から浮かび上がってきた誰かが、初めて空気を吸い込むときのような——そんな切迫した音だった。

巻き戻して、もう一度聴いた。

ざ、——すぅ。ざ、——すぅ。

三度目。

ざ、——すぅ。

聞き間違いじゃない。僕の足音ひとつにつき、呼吸音がひとつ。まるで隣を歩いている誰かの——

「いや、何言ってんだ」

声に出して言った。イヤホンを外すと、部屋はしんと静かだった。冷蔵庫の低い唸りだけが鳴っている。壁時計を見ると、午前二時四十一分。

マイクの不具合だ。風の音がフィルターで変に加工されて呼吸っぽく聞こえる、そういうことはよくある。YouTubeの心霊動画のコメント欄なんて、ノイズを幽霊の声だと言い張る人間で溢れている。僕はそういうのを笑う側の人間だった。

……はずだった。

もう一度だけ、と思ってイヤホンを戻した。今度は交差点に立っている時間帯。二時ちょうどの前後。僕がじっと立って待っていた数分間。足音はない。風の音と、遠い車のエンジン音と——

すぅ。すぅ。すぅ。すぅ。すぅ。

呼吸音だけが、等間隔で刻まれていた。

僕が立ち止まっていた時間帯にも。僕の足音が消えた後も。あの呼吸は、止まらなかった。

音量を最大まで上げて、一秒ずつ再生した。呼吸と呼吸の間に、別の音が微かに混じっているのが聞こえた。かすかな、本当にかすかな——唇を開く音。ぺ、と濡れた粘膜が剥がれるような短い音が、各呼吸の直前に入っていた。何かを言おうとしている。何かを言いかけて、吸気だけを繰り返している。まるで、僕の名前を呼ぶタイミングを測っているかのように。

スマホを持つ指先が冷たくなっていることに気づいた。暖房はつけていたはずだ。部屋の空気は確かにぬるいのに、指先だけが氷水に浸したように感覚を失いかけている。首筋に何かが触れたような気がして振り返ったが、六畳間には僕しかいない。当たり前だ。当たり前なのに、心臓がうるさかった。こめかみの血管が脈打つのが分かる。喉の奥がきゅっと締まって、唾を飲み込む音が自分でも聞こえた。

再生を止めた。イヤホンを外した。画面を閉じて、スマホを裏返しにしてデスクに置いた。

大丈夫だ。ノイズだ。明日の朝、冷静な頭で聴き直せばきっと笑い話になる。

そう自分に言い聞かせて、電気を消した。布団に潜り込む。目を閉じる。

——すぅ。

耳の奥に、まだあの呼吸が残っている。等間隔の、湿った吸気。僕の歩調に合わせて、すぐ隣を歩く誰かの息遣い。

気のせいだ。気のせいに決まっている。

けれど僕はその夜、一度も寝返りを打てなかった。背中を壁につけて、朝が来るまで、部屋の暗がりをじっと見つめていた。闇の中に何かの輪郭を探してしまう自分が嫌だった。目を閉じれば音が蘇り、目を開ければ暗闇が揺れる。どちらを選んでも逃げ場がなかった。カーテンの隙間から差す街灯の光が天井に細い線を引いていて、それだけが唯一の現実の手触りだった。あの交差点に独りで立っていたとき、僕の隣には——いったい何がいたのか。

枕元のスマホが、微かに震えた気がした。画面が一瞬だけ青白く光って、すぐに消えた。通知かもしれない。ただのバッテリー残量の警告かもしれない。確かめればいい。手を伸ばせばいい。それだけのことなのに、指が動かなかった。もしあの録音アプリが勝手に起動していたら。もし画面に、再生中の波形が映っていたら。時計を見る勇気は、なかった。

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