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猟犬の墓標

第3話 第3話

第3話

第3話

取調室の蛍光灯が、一定間隔で明滅していた。

安物の蛍光管が寿命を迎えかけている。ジジ、と微かな放電音が天井から降り、蓮司の網膜を不規則に刺す。灰色の壁。灰色の机。パイプ椅子の座面は冷たく、尻の骨に当たる硬さがそのまま体幹に伝わってくる。部屋の隅に据えられた監視カメラの赤いLEDだけが、この空間で唯一の色彩だった。

蓮司は背筋を伸ばしたまま座っていた。手は膝の上。視線は正面。特殊作戦群での尋問耐性訓練が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。あの訓練は四十八時間の拘束と睡眠剥奪、断続的な怒号と照明の明滅で構成されていた。それに比べれば、空調の効いた警察署の取調室など快適ですらある。

ただし——腹が減っていた。昨夜の期限切れツナ缶以降、何も口にしていない。走った八キロで消耗した体が、カロリーを要求している。

ドアが開いた。南条が入ってくる。手に紙コップのコーヒーを二つ持っていた。一つを蓮司の前に置く。

「飲め」

蓮司は手を伸ばさなかった。南条は気にした様子もなく、向かいの椅子に腰を下ろし、自分のコーヒーを一口すすった。

「柊蓮司。三十二歳。現住所不定。職業なし。身分証明書なし」

南条はファイルを開かずに暗唱した。記憶力がいいのか、情報が少なすぎるのか。おそらく両方だ。

「指紋照合をかけた。自衛隊のデータベースに引っかかった。元陸上自衛隊、特殊作戦群所属。三年前に不名誉除隊」

蓮司は表情を動かさなかった。指紋か。パトカーの中で触れたシートベルトのバックルから採取したのだろう。手際がいい。

「それで?」

「黒崎征一郎。六十三歳。元陸上自衛隊教官。退役後は軍事評論家として細々と執筆活動をしていた」南条はコーヒーを置いた。「昨夜から行方不明。部屋には争った形跡と血痕。お前はその部屋に早朝に現れた。身分証なし。前科——は、ないな。だが不名誉除隊の記録がある」

「俺は黒崎さんを訪ねただけだ。毎月会っていた」

「毎月。元教官と元教え子の交流か。美談だな」南条の声に皮肉はなかった。ただ事実を確認する声だった。「だが現場に最初にいたのはお前だ。動機もある。不名誉除隊の元隊員が、退役した教官に恨みを——」

「ない」

蓮司は短く言った。声に感情を乗せない。感情は取調室では弱みになる。

南条は蓮司の目をじっと見た。五秒。十秒。沈黙を武器にする技術。悪くない。だが蓮司は沈黙に慣れている。倉庫街の夜は、沈黙しかない。

「強盗殺人の線で捜査を進める」

南条が言った。蓮司の顎がわずかに動いた。

「強盗じゃない」

「根拠は」

「部屋の荒らし方だ。引き出しは抜かれていたが、中身を物色した形跡がない。食器棚の奥に現金の入った封筒が残っていた。見えたはずだ。強盗なら真っ先に取る」

南条の目が細くなった。蓮司の観察力を値踏みしている。

「それだけか」

「制圧の痕跡が不自然だ。テーブルが壊れた位置と壁のへこみの高さから、犯人は黒崎さんを背後から組みつき、壁に打ちつけている。床の足跡はミリタリーグレードのブーツ。トレッドパターンは官品半長靴と同型。これは計画的な制圧だ。強盗の暴力じゃない」

蓮司は淡々と述べた。声のトーンを変えない。事実だけを、順序立てて。

南条は黙って聞いていた。表情は動かない。だが右手の人差し指がテーブルの上で一度だけ跳ねた。小さな反応。刑事の勘が何かを拾った合図。

だが——次の瞬間、南条は首を振った。

「足跡の型なんぞ、ミリタリーブーツは民間でも買える。ネット通販で三千円だ。制圧の手際がプロ並み? 格闘技の経験者なら可能だろう。根拠としては弱い」

「だから軍の——」

「お前の推理を聞きたいわけじゃない」南条は遮った。「俺が聞きたいのは事実だ。お前がいつ現場に着いたか。何に触れたか。誰かを見たか。それだけだ」

蓮司は口を閉じた。

そうだ。これが現実だ。身分証のない浮浪者の分析など、捜査資料には載らない。蓮司の目に映った制圧痕の意味、ブーツの足跡が示す軍との関連、血文字の筆跡の確かさ——そのどれもが、社会的信用のない人間の口から出た時点でただの妄言になる。

南条は有能な刑事だ。蓮司の指摘を完全に無視したわけではない。右手の指の反応がそれを物語っている。だが「有能」であることと「動ける」ことは違う。証拠に基づかない筋読みで捜査方針は変えられない。まして情報源が住所不定の元軍人では。

取り調べはさらに二時間続いた。蓮司は聞かれたことだけに答えた。黒崎との関係。訪問の頻度。昨夜の行動。倉庫街での生活。南条は同じ質問を角度を変えて繰り返し、蓮司の証言の整合性を確認した。蓮司は同じ答えを同じ言葉で返した。事実は一つしかない。ブレようがなかった。

「黒崎が何か調べていた心当たりは」

南条が最後に聞いた。蓮司は一瞬だけ迷い、首を振った。ケルベロスの五文字は出さなかった。今この刑事に話しても握り潰される。あるいはもっと悪い結果を招く。軍が絡んでいるなら、情報の漏洩先を自分から増やすわけにはいかない。

「ないな。ただの世間話だった」

嘘だった。南条はそれを見抜いた目をしていた。だが追及はしなかった。

「帰っていい」

南条はファイルを閉じた。「ただし、連絡が取れるようにしておけ。プリペイド携帯の番号は控えた」

蓮司は立ち上がった。コーヒーには一度も手をつけなかった。紙コップの中身は完全に冷め、表面に薄い膜が張っていた。

「一つ聞いていいか」

ドアに手をかけたところで、蓮司は振り返った。

「黒崎さんの——遺体は」

南条の表情がわずかに変わった。「見つかっていない。血痕の量から、致命傷ではない可能性がある」

蓮司の胸の奥で、何かが軋んだ。生きている。まだ生きている可能性がある。それは希望であると同時に、別の恐怖でもあった。生きているなら、今この瞬間も、黒崎はどこかで苦痛の中にいるということだ。

蓮司は何も言わず、取調室を出た。

警察署の正面玄関を出ると、午前の日差しが目を刺した。四月の陽光は白く、蓮司の汚れたジャケットの上に容赦なく降り注ぐ。署の前を行き交うスーツ姿のサラリーマンが、蓮司を一瞥して顔をそむけた。浮浪者の匂いがしたのだろう。蓮司は気にしなかった。慣れている。

黒崎のアパートに戻る。それだけが頭にあった。

警察が現場検証を終えているかどうか。規制線が張られているかもしれない。だが夜になれば人目は減る。蓮司は待つことに慣れている。

午後七時。蓮司は江東区の運河沿いに戻ってきた。

黒崎のアパートには規制線のテープが張られていた。だが見張りの警官はいない。殺人ではなく行方不明事件としての扱いなら、二十四時間の監視はつかない。予算と人員の問題だ。南条の管轄であっても、上層部が強盗殺人の線で処理する方針なら、現場の優先度は下がる。

蓮司は裏手の窓から入った。鍵は施錠されていたが、築四十年のサッシは隙間だらけだ。薄い金属片を差し込み、クレセント錠を回す。三秒。音はほとんど立たなかった。

室内は朝と変わっていた。鑑識が入った形跡がある。血痕の周囲に番号札が置かれ、足跡の位置に白いマーカーが引かれている。指紋採取の粉が壁やドアノブに残っていた。

蓮司は手袋代わりにジャケットの袖で手を覆い、部屋を見回した。

黒崎は用心深い男だ。パソコンと携帯は奪われた。壁に血文字を残したのは最後の手段。だがそれだけか。黒崎ならもう一手、打っているはずだ。

蓮司は部屋の構造を思い出した。何度も来ている。この部屋のことは知り尽くしている。黒崎の癖も。

キッチンの下。床板。

蓮司は倒れた本棚と散乱した書籍を避け、キッチンに入った。シンクの下の床板に膝をつく。古いクッションフロアの継ぎ目を指先で辿った。

あった。

一枚だけ、わずかに浮いている床板。肉眼ではわからない。指の腹で圧をかけて初めてわかる程度の浮き。蓮司はジャケットの袖越しに板の端を持ち上げた。

床板の下、根太と断熱材の隙間に、小さな黒い物体が収まっていた。

USBメモリ。

蓮司はそれを摘み上げた。八ギガバイトの安価な市販品。だがボディに油性ペンで小さく書かれた文字があった。

「R」。

蓮司のイニシャルだった。

指先が震えた。黒崎はこれを——蓮司に見つけさせるために隠した。この部屋を知り尽くした人間だけが辿り着ける場所に。壁の血文字は追手への牽制であり、本命はここだった。

蓮司はUSBメモリをカーゴパンツのポケットの奥に押し込んだ。来た時と同じルートで窓から出る。サッシを閉め、クレセント錠を戻した。

運河の風が頬を撫でた。手の中のUSBメモリの重さは数グラム。だが蓮司には、それが黒崎の声そのもののように感じられた。遺言か、託された武器か——それはまだわからない。

確かめる手段がいる。パソコンが必要だ。

蓮司は運河沿いの暗がりに身を潜め、一人の人間の顔を思い浮かべた。できれば頼りたくなかった相手。だが今の蓮司には選択肢がない。

真壁。元同僚。今は裏社会に片足を突っ込んでいる情報屋。三年前の除隊以来、一度も連絡を取っていない。だがプリペイド携帯の番号は知っている。黒崎が「何かあったら使え」と渡してきた番号だ。

蓮司はポケットのUSBメモリに触れた。黒崎が命を賭けて残したデータ。その中身を読まなければ、何も始まらない。

蓮司は倉庫街へ向かって歩き出した。まず充電だ。自販機裏のコンセントで携帯を充電し、真壁に連絡を取る。

拳を握る。爪が掌に食い込む。

待っていてくれ、黒崎さん。必ず辿り着く。

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