Novelis
← 目次

猟犬の墓標

第2話 第2話

第2話

第2話

黒崎のアパートは、江東区の運河沿いにあった。

築四十年の二階建て。外壁のモルタルは剥がれ、階段の手すりは錆びて茶色く変色している。蓮司は八キロを走り抜いた脚で、その階段を駆け上がった。息は乱れていない。心拍数が上がっているのは、走ったせいではなかった。胸の奥に鉛のような予感が沈んでいた。昨夜の電話。黒崎の声に混じっていた、あの切迫した呼吸。嫌な予感は、走るほどに輪郭を増していった。

二〇三号室。黒崎の部屋。

ドアが、五センチほど開いていた。

蓮司の足が止まる。呼吸を殺す。耳を澄ませた。室内からの物音はない。空気の流れだけがドアの隙間から漏れている。朝の冷気とは違う、淀んだ空気。鉄の匂いが混じっていた。

血だ。

蓮司は右手でドアを押した。蝶番が軋む音が、静まり返った廊下に響いた。

玄関の靴は散乱していた。黒崎が几帳面に揃えていたはずの革靴が、片方は廊下に、もう片方は壁際に転がっている。蓮司は靴を踏まないように室内に入った。足裏に伝わる床の感触。何かが割れている。陶器の破片だ。踏むたびに微かな音が立ち、その音が妙に大きく聞こえた。

六畳一間のワンルーム。その光景を見た瞬間、蓮司の思考が凍った。

本棚が倒されていた。書籍が床一面に散らばり、その上をテーブルの破片が覆っている。キッチンの引き出しはすべて引き抜かれ、中身がぶちまけられている。カーテンレールが天井から外れ、レースのカーテンが床に垂れていた。

そして、血痕。

床に点々と続く血の跡。量は多くない。致命傷の出血ではない。だが壁に——北側の壁に、乾きかけた血で文字が書かれていた。

ケルベロス。

五文字。黒崎の筆跡だった。右上がりの癖、「ル」の最後の跳ね。蓮司は教官時代に何百枚もの訓練評価書でこの字を見ている。間違いない。

蓮司は膝をついた。血痕の軌跡を目で追う。玄関から部屋の中央へ。そこで血の量が増えている。何かが起きた地点。テーブルの脚が折れている。人間の体がぶつかった衝撃。黒崎が抵抗した痕だ。

部屋の中央で立ち上がり、壁際まで這った。そこで文字を書いた。血は自分の血。おそらく頭部か顔面からの出血。書いた後——連れ去られた。

蓮司は立ち上がり、部屋を見回した。特殊作戦群で叩き込まれた現場観察の手順が自動的に起動する。目を細め、破壊の痕跡を一つずつ読み解いていく。

おかしい。

荒らし方に違和感がある。強盗なら金品を探す。引き出しを開け、棚を漁る。だがこの部屋の破壊は違う。本棚は「倒されて」いる。テーブルは「叩き壊されて」いる。物を探した形跡ではない。制圧の過程で発生した破壊だ。しかも手際がいい。プロの動線には迷いがない。

蓮司は玄関に戻り、ドアの鍵を確認した。シリンダーに傷はない。ピッキング痕もない。黒崎が自分でドアを開けた。つまり、相手は顔見知りか、あるいは黒崎に開けさせる手段を持っていた。

再び室内へ。窓を確認する。施錠されている。侵入経路は正面玄関のみ。

床の血痕に視線を戻す。足跡。黒崎のものではない靴跡が、血の上に重なっている。ブーツ。ミリタリーグレードのトレッドパターン。蓮司には見覚えがあった。自衛隊で採用されている官品半長靴と同型の靴底だ。

制圧痕にも特徴があった。テーブルが砕けた位置と黒崎が倒れた地点から推測される力の方向。素人の暴力ではない。相手は黒崎を最小限の動作で組み伏せている。六十代の退役教官が相手でも、この手際は訓練を受けた人間のものだ。

さらに——壁際。石膏ボードに小さなへこみがある。人間の後頭部をぶつけた跡。その高さは百七十センチ前後。黒崎の身長と一致する。後ろから組みつき、壁に顔面を打ちつけた。出血の原因はこれだ。

蓮司の拳が白くなるまで握りしめられた。爪が掌に食い込む痛みすら、今は遠い。

プロの仕事だ。それも軍式の。黒崎は調べていた何かに触れすぎた。「ケルベロス」。黒崎が命がけで残した一語。答えの断片。

蓮司は北側の壁に手を伸ばしかけ、寸前で止めた。指紋を残すわけにはいかない。自分がここにいたことを証拠として残してはならない。

急げ。

蓮司は部屋全体をもう一度走査した。黒崎の携帯電話はなかった。持ち去られている。パソコンもない。デスクの上にはモニターの台座だけが残り、本体ごと消えていた。データを回収された。黒崎が集めていた情報を、相手は奪っていった。

だが——黒崎はそれを見越していたのではないか。

壁の血文字が、それを証明している。奪われることを想定した上で、最後の手段として自分の血で書いた。黒崎は筋金入りの用心深い男だ。バックアップがないはずがない。

蓮司の思考を断ち切ったのは、階下から聞こえた車のドアが閉まる音だった。

一台ではない。二台。エンジンが止まる。複数の足音。

窓際に身を寄せ、下を覗く。白と黒のセダンが二台。覆面パトカーだ。スーツ姿の男が四人、アパートの入り口に向かっている。先頭の男は長身で、歩き方に無駄がなかった。

近隣住民が通報したか。あるいは——この部屋は既に警察の監視下にあったか。

退路を計算する。窓からは二階。飛び降りれば着地できるが、駐車場側に回り込んだ警官に見られる。裏口は——ない。このアパートに非常階段はない。

選択肢は二つ。隠れるか、正面から出るか。

蓮司は正面を選んだ。逃げれば追われる。追われれば目立つ。目立てば、黒崎の事件と自分の関係が表に出る。それは避けたい。

階段の足音が近づいてくる。蓮司は廊下に出て、ドアを元の位置——五センチ開いた状態に戻した。そのまま階段に向かって歩き出す。

二階の踊り場で、先頭の刑事と鉢合わせた。

長身。百八十超え。四十代後半。鋭い目つき。ネクタイは緩めてあるが、スーツの皺から徹夜明けだとわかる。顎に薄い無精髭が影を落としていた。

男は蓮司を見て、一瞬だけ目を細めた。それだけで観察を終えたように、低い声を出した。

「この階の住人か」

蓮司は首を横に振った。「知人を訪ねてきた。二〇三号室の黒崎という人だ」

嘘はつかない。嘘は綻びを生む。事実だけを、必要な分だけ出す。

「名前は」

「柊蓮司」

刑事の目が動いた。記憶を検索する動き。蓮司の名前に心当たりはないはずだ。不名誉除隊の記録は一般の警察データベースには載らない。

「身分証を見せてくれ」

蓮司は黙った。一秒。二秒。運河を渡る風が階段の踊り場を吹き抜け、二人の間の沈黙を押し広げた。それが答えだった。

刑事の表情が変わった。警戒のギアが一段上がる。

「持ってない、か」

「ああ」

刑事は蓮司の全身を見た。汚れたジャケット。擦り切れたカーゴパンツ。走った後の薄い汗。そして——拳。蓮司の拳のタコを、刑事は見逃さなかった。その視線が一瞬止まり、再び蓮司の目に戻った。職業的な観察眼だった。

「南条だ。警視庁捜査一課」

刑事は警察手帳を一瞬だけ見せ、すぐにしまった。それから背後の三人に目配せした。一人が蓮司の横に回り込む。退路を塞ぐ動き。

「二〇三号室を訪ねた、と言ったな。部屋には入ったか」

「ドアが開いていた」

「中を見たか」

蓮司は南条の目を見た。この男は鋭い。ごまかしは通じない。

「見た。荒らされていた」

南条は顎をしゃくった。背後の刑事が蓮司の腕を掴もうとした。蓮司は一歩引いて躱した。反射的な動作。体が勝手に反応する。

空気が張り詰めた。南条の背後の刑事たちの重心が、わずかに前に移るのが見えた。

「身分証なし。早朝に被害者宅を訪問。室内に侵入済み」南条は淡々と並べた。「任意同行を求める。署で話を聞かせてもらう」

蓮司は南条を見据えた。抵抗する意味はない。ここで暴れれば状況は悪化する。だが頭の中では全く別の計算が回っていた。

制圧痕。軍式ブーツの足跡。血文字。

この事件が「強盗」として処理されたら、黒崎の死の真相は永遠に埋もれる。だが今の自分にそれを証明する手段はない。身分証がない。住所がない。蓮司の言葉には、社会的な裏付けが何一つないのだ。

「いいだろう」

蓮司は両手を体の横に垂らし、力を抜いた。

南条の目が、ほんの一瞬だけ怪訝そうに揺れた。この男は気づいている。蓮司の動き——腕を掴まれる前の回避反応——が素人のものではないことに。

パトカーに押し込まれる直前、蓮司は一度だけ振り返った。二〇三号室のドアが、朝の薄い光の中でわずかに開いている。

ケルベロス。

その五文字が、蓮司の網膜に焼きついていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ