第1話
第1話
雨が、コンクリートを叩く音だけが世界のすべてだった。
単調な、しかし絶え間ない打撃音。まるで誰かが世界の終わりを告げるために、一定のリズムで壁を叩き続けているような音だった。水たまりに落ちる雨粒が跳ね返り、蓮司の履き潰したブーツの爪先を濡らしていく。
柊蓮司は錆びたコンテナの隙間に背中を預け、缶詰のプルタブに指をかけた。ツナ。賞味期限は三ヶ月前に切れている。腹が鳴る。構わず口に運んだ。油の回った魚肉が舌に広がる。不味い。酸化した油脂の重たい風味が口蓋にへばりつき、鼻腔の奥に居座る。だが胃袋は文句を言わない。飢えた体は味覚の判断を放棄している。唾液が勝手に分泌され、顎が反射的に動く。生きるための咀嚼に、旨さなど必要なかった。
東京湾岸の港湾倉庫街。夜の十一時を過ぎれば人の気配は消え、残るのは野良猫と、野良犬のように生きる男だけだ。潮の匂いが風に混じり、ディーゼル油と錆びた鉄の臭気が鼻をつく。どこかでコンテナの金属が軋む音がして、野良猫が一匹、暗闇の中で目を光らせてから走り去った。
蓮司は咀嚼しながら、右手の拳を開いて閉じた。指の関節が軋む。爪の間に染みついた錆と油汚れは、もう何日風呂に入っていないかを物語っていた。三十二歳。身長百八十一センチ、体重は除隊時から七キロ落ちて七十五。それでも筋肉の輪郭は消えていない。体に刻まれた訓練の記憶は、三年程度では抜けない。
三年前。陸上自衛隊特殊作戦群。
蓮司はその名を頭の中で転がすたび、奥歯を噛み締める癖がついていた。日本最精鋭の対テロ特殊部隊。そこで蓮司は「最強」と呼ばれた。CQB——近接戦闘の成績は同期の中で群を抜き、格闘戦では教官すら投げ飛ばした。射撃場では的の中心を呼吸するように撃ち抜き、判断速度テストでは観測史上二番目の数値を記録した。誰もが蓮司の隣に立ちたがり、同時に誰もが蓮司の正面には立ちたがらなかった。
その男が今、期限切れの缶詰で飢えを凌いでいる。
不名誉除隊。作戦中の命令不服従。記録上はそうなっている。だが真実は違う。あの作戦は最初から何かがおかしかった。目標が民間人であること、交戦規定が異常に緩いこと。蓮司は射撃を拒否した。スコープの向こうにいたのは、十代にしか見えない少年だった。武装の証拠は確認できなかった。引き金にかけた指が動かなかった。それは恐怖ではなく、確信だった。翌週、除隊命令が下りた。弁明の機会すらなかった。
身分証は返納。年金も退職金も凍結。民間の就職は前歴照会で弾かれる。元特殊部隊員という肩書きは、不名誉の二文字がつけば呪いに変わる。
蓮司は缶詰を食い終え、空き缶をコンテナの壁際に並べた。七つ目。黒崎が最後に来てから一週間分の食事の残骸だ。
黒崎征一郎。元教官。蓮司に格闘術の基礎を叩き込んだ男であり、除隊後も唯一、蓮司を人間として扱ってくれた存在だった。月に一度、この倉庫街に段ボール箱を提げてやってくる。中身は缶詰、ペットボトルの水、軍手、使い捨てカイロ。季節に合わせて中身が変わる。几帳面な男だ。
その黒崎が、今夜は来ない。
約束の日だった。毎月第二土曜日。黒崎は一度も破ったことがない。台風の日も来た。膝を痛めた時は杖をつきながら来た。「お前を見捨てたら、俺が教官だった意味がなくなる」。そう言って笑う顔を、蓮司は覚えている。
午前零時を回った。
蓮司は立ち上がり、コンテナの屋根に登った。倉庫街を一望する。クレーンのシルエットが闇に浮かび、遠くにコンテナ船の灯りが点滅している。雨は小降りになったが、風が冷たい。四月の夜は体の芯まで冷える。濡れたジャケットが肌に張りつき、背筋を這い上がるような寒気が止まらなかった。
嫌な予感がする。
腹の底に溜まる、重たい違和感。戦場で幾度も感じた感覚だった。任務中、この感覚に従わなかった隊員は大抵死んだ。蓮司の直感は、仲間の命を三度救っている。
その直感が、今、警報を鳴らしていた。
「……黒崎さん」
呟きは雨音に溶けた。
電話をかけるべきだ。蓮司はポケットからプリペイド携帯を取り出した。画面の右上、バッテリー残量は八パーセント。充電は倉庫街の外れにある自販機の裏のコンセントを借りるしかない。通話できるのはあと数分が限度だろう。
発信履歴を開く。登録されている番号は二つだけ。黒崎と、もう一つは三ヶ月前に切れたバイト先の番号。
黒崎の番号を呼び出し、通話ボタンを押した。
コール音。一回。二回。三回。
出ない。
四回。五回。六回。留守番電話に切り替わった。
「——黒崎です。出られません。後でかけ直します」
録音された声は、いつも通り素っ気なかった。蓮司はメッセージを残さず切った。
もう一度かけるか。バッテリーが脳裏をよぎる。蓮司は携帯を握ったまま、コンテナの縁に腰を下ろした。雨粒が画面を叩く。
待つしかない。
蓮司は目を閉じた。だが眠れない。瞼の裏に黒崎の顔が浮かぶ。退役後、白髪が増えた。頬がこけた。だが目だけは変わらなかった。部下の嘘を見抜く、あの鋭い目。
最後に会った時、黒崎は少し様子が違った。いつもの段ボール箱を渡す手が、わずかに震えていた。蓮司が聞くと、「寒いだけだ」と笑った。嘘だった。あの目で嘘をつくのは下手だと、本人が一番わかっていたはずだ。
何かを調べていた。
蓮司にはそれがわかった。だが深くは聞かなかった。聞いたところで自分に何ができる。身分証もない、住所もない、金もない。社会的には存在しない人間だ。
後悔が、胸を灼く。
聞くべきだった。何を調べているのか。何に怯えているのか。黒崎は蓮司に何も言わなかった。巻き込みたくなかったのか、それとも——信用していなかったのか。
蓮司は拳を握った。硬い拳だ。人を殴るためだけに鍛えられた、武器としての拳。黒崎がそう作り上げた。
「武器は奪われる。体だけは奪えない」
教官時代の黒崎の口癖が、雨音の向こうから聞こえた気がした。
午前二時。
蓮司はコンテナの隙間に戻り、段ボールを被った。体温が奪われていく。四月でこれだ。冬場はもっときつい。
眠気は来ない。代わりに意識だけが鋭くなっていく。元特殊部隊員の性だ。危険を察知すると、体は休息を拒否する。遠くでトラックのエンジン音がして、それが遠ざかると、また静寂が降りてくる。雨は完全に止んでいた。代わりに霧のような湿気が倉庫街を這い、コンテナの表面に細かい水滴を結ばせていた。蓮司は自分の呼吸の音を聞きながら、暗闇の中で目を見開いていた。
目を開けたまま、夜明けを待つ。
蓮司が何度目かの浅い微睡みから引き戻されたのは、ポケットの振動だった。
携帯が震えている。
蓮司は反射的に手を伸ばした。画面が光る。バッテリー残量三パーセント。着信。
番号を見て、心臓が跳ねた。
黒崎征一郎。
蓮司は通話ボタンを押した。
「黒崎さん——」
無音。
息遣いも、背景音も、何もない。完全な沈黙が、数秒間だけ続いた。
そして、切れた。
蓮司は画面を見つめた。通話時間、四秒。着信時刻、午前四時十七分。
かけ直した。コール音が一度鳴り、途切れた。二度目。電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるとアナウンスが流れた。
蓮司の手が震えた。寒さではない。恐怖でもない。怒りだった。自分自身への、煮えるような怒り。なぜもっと早く気づかなかった。なぜ先月、黒崎の震える手を掴んで問い詰めなかった。守るべき人間がいることを知っていながら、何もしなかった自分への怒りが、腹の底から喉元までせり上がってきた。
蓮司はコンテナから飛び出した。雨は上がっていた。東の空がうっすらと白み始めている。
走った。
港湾倉庫街から黒崎のアパートまで、直線距離で約八キロ。蓮司の足なら四十分。体が冷えている。腹は空だ。関係ない。足は止まらなかった。アスファルトを蹴る足音が、静まり返った早朝の街路に響く。信号は無視した。この時間に車は走っていない。呼吸は整っている。走ることだけは、体が忘れていなかった。
四秒間の無音が、頭の中で何度も再生される。
あれは黒崎の電話からの発信だ。だが黒崎の声はなかった。誰かが黒崎の電話を操作したのか。あるいは黒崎自身が、声を出せない状況で——。
蓮司は歯を食いしばり、速度を上げた。
夜明けの街を、一人の男が走っている。身分証もなく、金もなく、行く場所もない男が。ただ一人の恩師に向かって、走っている。
拳を握ったまま。