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疫病神探偵、雨夜の依頼

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、九時十五分。第三ヤマトビル。

久城は正面入り口の横で煙草に火をつけた。吸う習慣はとうに捨てた。だが待ちの時間に手持ち無沙汰でいると、不審者に見える。煙草を持っていれば「一服している男」になる。刑事時代の小技だ。

九時二十二分。ビルの裏手から、作業着姿の男が回ってきた。六十代。白髪交じり。腰にキーホルダーをぶら下げ、手にはコンビニの袋。管理人だろう。

「佐藤さんですか」

男が足を止めた。警戒の目。当然だ。

「昨日、管理会社にお電話した久城です。防犯カメラの件で」

名刺を差し出す。佐藤は受け取り、名刺の文字を読んだ。「久城探偵事務所」。目が細くなる。

「探偵さんね。電話では聞いたけど、うちとしては映像を見せるわけには——」

「分かっています。五分だけ話を聞いてください」

久城は彩音の写真をスマートフォンに表示した。

「水瀬彩音、二十二歳。四日前からこのビルの地下のクラブに出勤したまま行方不明です。家族は中学生の妹が一人だけ。警察には届けを出しましたが、成人の家出扱いで動いてもらえない」

佐藤の表情が変わった。写真の顔を見つめている。

「この子が」

「姉の帰りを待っている中学生がいます。カメラに映っている可能性がある。確認させてもらえませんか」

沈黙。佐藤はコンビニの袋を持ち替えた。

「……正式な手続きじゃないからな。会社に知れたら俺が怒られる」

「誰にも言いません」

佐藤は久城の目を見た。何を測っているのか。嘘をつく人間かどうか、金目当てかどうか。久城は視線を逸らさなかった。

「十分だけだ。それ以上は無理だから」

---

管理人室は一階の奥、パイプ椅子と古いデスクが置かれただけの狭い部屋だった。壁にモニターが一台。佐藤がパソコンを操作し、録画ソフトを立ち上げる。

「カメラは三台。正面玄関、裏の搬入口、駐車場。どれを見たい」

「搬入口。四日前——火曜日の夜、二十二時以降を」

佐藤がタイムラインを操作する。画面がモノクロの映像に切り替わった。魚眼レンズ特有の歪んだ画角。搬入口と裏路地の一部が映っている。タイムスタンプは22:00。画面の中では何も起きていない。路地に街灯の光が落ち、時折猫が横切るだけだ。

久城は椅子を引き寄せ、画面に目を据えた。佐藤が再生速度を四倍にする。22:15、22:30——。

22:47。動きがあった。

「止めてください」

佐藤が通常速度に戻す。

ヴェルヴェットの搬入口のドアが内側から開いた。人影が出てくる。二人。一人は男。黒いスーツ。体格がいい。もう一人は——

久城の指がモニターを指した。

「ここ、拡大できますか」

佐藤がズームする。画質が荒れるが、輪郭は分かる。もう一人は女性だ。髪の長さ、体型。写真の彩音と一致する。

だが様子がおかしい。

女性の腕を、黒スーツの男が掴んでいる。女性は何度か体を捩っている。引き剥がそうとしているように見える。だが男の手は離れない。

22:48。搬入口の路地に車が入ってきた。黒塗りのセダン。大型。ヘッドライトが映像を白く飛ばす。

車が停まる。後部座席のドアが開いた。中からもう一人、男が降りてくる。二人がかりで女性を車に押し込む。

抵抗していた。明らかに。

女性の口元に何かが当てられる。布か。動きが鈍くなる。そのまま後部座席に押し込まれ、ドアが閉まった。

22:49。車が路地を出ていく。尾灯の赤い光だけが尾を引いて、消えた。

一分間の出来事だった。

久城は息を吐いた。拳が白くなっていた。無意識に握りしめていた。

「巻き戻してください。車が画面に入る瞬間」

佐藤が巻き戻す。22:48:12。車のフロント部分が画角に入る。ナンバープレートが——

「もう少し先。右に寄った瞬間」

22:48:17。車が搬入口に向かって斜めに停まる角度で、リアのナンバープレートが一瞬だけ映った。画質は粗い。だが読める。

横浜 300 す 78-14。

久城はノートに書き留めた。二度確認し、三度目にスマートフォンで画面を撮影した。佐藤が何か言いかけたが、久城の表情を見て口を閉じた。

「佐藤さん。この映像、消さないでいただけますか」

「ループで上書きされるから、あと十日くらいで——」

「それまでに警察を動かします。正式な令状が出れば保全できる」

佐藤が頷いた。画面の中では、誰もいなくなった搬入口が映り続けている。22:50。何事もなかったかのように、路地には静寂が戻っている。

---

ビルを出て、久城は歩きながらスマートフォンを耳に当てた。

三コール。出ない。四コール。五コール。切れる寸前で繋がった。

「……誰だ、この番号」

「俺だ。久城」

沈黙。受話器の向こうで空気が変わるのが分かった。

「久城——お前、何年ぶりだ」

木島。元捜査一課の同僚で、今は陸運局に出向している男。久城が辞めた後も年賀状だけは続いていた。それ以上の付き合いはない。だがこの男には一つ、借りがある。

「頼みがある。ナンバー照会を回してほしい」

「は? お前もう刑事じゃないだろ」

「横浜300、す、78-14。所有者と車種だけでいい」

「無茶言うな。個人情報保護法って知ってるか」

「知ってる。だから正規ルートでは頼めない。お前に頼んでる」

木島が舌打ちした。久城は追い討ちをかけた。

「二十二歳の女が車に押し込まれてる映像がある。防犯カメラに残ってる。警察は動かない。時間がない」

受話器の向こうで何かを叩く音。デスク。苛立ちを物にぶつける癖は変わっていない。

「……一回だけだぞ。次はない。番号もう一度」

「横浜300、す、78-14」

「三十分後にかけ直せ。それと久城」

「何だ」

「お前の声、刑事の時に戻ってる。気をつけろ」

通話が切れた。

久城は携帯を耳から離し、裏路地の壁にもたれた。木島の言葉が頭の中で転がる。刑事の時に戻っている。そうかもしれない。三十二日間止まっていた時計の針が、今は秒刻みで動いている。

三十分。長い。だが待つしかない。

喫茶店に入った。コーヒーを頼み、ノートを開いた。現時点の整理。

彩音は四日前の夜、ヴェルヴェットの搬入口から男に連れ出されている。自分の意思ではない。抵抗していた。口元に何かを押し当てられている。拉致と断定していい。

ヴェルヴェットは翌日に閉店。証拠隠滅か、あるいは店自体が拉致の現場だったか。

黒い車のナンバー。これが所有者に辿り着けば、線が一本引ける。

凛のメモに書かれていた三つの単語。『ヴェルヴェット 辞める 鉄華会』。

辞めようとした。それが原因で連れ去られた。

仮説としては成り立つ。だがまだ仮説だ。裏を取る。

コーヒーを一口飲んだ。不味い。だが目が冴える。

二十八分後、スマートフォンが振動した。

「久城」

木島の声が硬い。先ほどとはトーンが違った。

「出たぞ。横浜300、す、78-14。トヨタ・クラウン。黒。所有者名義は——」

一拍の間。

「鉄栄興産株式会社。登記上の所在地は横浜市中区。代表取締役は金井武志」

久城の手が止まった。

鉄栄興産。名前に聞き覚えがある。いや、覚えがあるどころじゃない。刑事時代、捜査資料で何度も目にした名前だ。

「木島。鉄栄興産は——」

「ああ。鉄華会のフロント企業だ。不動産管理と人材派遣を看板にしてるが、実態は組織の金庫番。代表の金井は鉄華会の幹部。お前、何に首突っ込んでる」

久城は答えなかった。コーヒーカップを握る指先が白い。

鉄華会。半グレ組織。暴対法の網を巧妙に潜り抜け、繁華街を蝕む集団。刑事時代にも手が届かなかった連中が、一人の少女の姉を攫っている。

「木島。ありがとう」

「久城。深入りするな。鉄華会は三年前とは規模が違う。今はもう半グレなんて呼べる——」

久城は通話を切った。聞く必要のない忠告だった。深入りするなと言われて引く男なら、最初から内部告発などしていない。

ノートにペンを走らせた。

鉄栄興産。鉄華会。フロント企業の車が、クラブの搬入口で女を攫っている。点が線になった。

だが同時に、事件の規模が一段上がった。失踪した一人の女の話ではない。組織が絡んでいる。金が動いている。そして組織は、証拠を消す方法を知っている。

スマートフォンを取り出し、凛にメッセージを打った。

『放課後、事務所に来い。話がある』

送信ボタンを押す前に、一瞬だけ指が止まった。この先を伝えれば、凛は怖がるだろう。だが隠す理由がない。隠せば、かつての警察と同じになる。

送信。

久城はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。伝票を掴む。ポケットの中のノートには、今朝までなかった名前が書き込まれている。

鉄栄興産。金井武志。鉄華会。

探偵の仕事は情報を集めることだ。だがこの先に待っている情報は、集めるだけでは済まないものになる。それは久城自身が一番よく知っていた。

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