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疫病神探偵、雨夜の依頼

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、九時三分。

水瀬凛は約束通りに来た。今度は傘を持っていた。透明のビニール傘。昨夜と同じ制服だが、髪は乾いていて、肩の少し下で切り揃えられた黒髪が歩くたびに揺れた。

「座れ」

久城は机の上にノートを開いていた。ペン。スマートフォン。それだけ。凛は昨夜と同じ椅子に座り、鞄からスマートフォンと、クリアファイルに挟んだ写真を数枚取り出した。

彩音の写真。柔らかい笑顔。目元が凛に似ている。だが雰囲気は違う。華やかさがある。クラブで働く女性特有の、見られ慣れた空気。

「最寄り駅は」

「鶴見。アパートは駅から徒歩八分です」

「姉さんの交友関係。親しい友人は」

「あんまり——お姉ちゃん、仕事のことはあたしに話さなかったから。でも」

凛がスマートフォンを操作する。LINEの画面。彩音とのトーク履歴。

「一週間前に、ちょっと変なメッセージが来てて」

画面を覗き込む。彩音からのメッセージ。

『もし何かあったら、部屋の本棚の裏を見て』

久城の目が細くなった。

「これに返信は」

「『どういうこと?』って送りました。既読はついたけど返事はなくて。次の日に電話したら『なんでもない、忘れて』って」

なんでもない、で済む文面じゃない。何かを予感していた。あるいは、すでに何かが始まっていた。

「本棚の裏は確認したか」

「封筒がありました。あのお金が入ってた封筒です。あとこれ」

凛が小さな紙片を差し出した。メモ用紙を破ったもの。走り書きの文字。

『ヴェルヴェット 辞める 鉄華会』

三つの単語。久城はメモを受け取り、指先で紙の質感を確かめた。急いで書いている。インクの走りが荒い。

鉄華会。聞いた名前だ。刑事時代に何度か捜査線上に浮かんだ半グレ組織。暴対法の網を巧妙にすり抜け、繁華街で勢力を広げていた集団。久城がいた頃はまだ小規模だったが、三年で状況が変わっていてもおかしくない。

「このメモのこと、警察には」

「見せてません。あの——鉄華会って何ですか」

「後で話す。まず現場を見る」

久城は立ち上がった。ジャケットを掴む。ポケットの中身を確認する。財布、スマートフォン、名刺入れ。それと、引き出しの奥から小型のデジタルカメラ。刑事時代の習慣が抜けない。

「凛。お前は学校に行け」

「でも——」

「捜査は俺の仕事だ。お前の仕事は普段通りに過ごすことだ。何かあったら連絡する」

凛は何か言いかけて、口を閉じた。頷く。少女なりに線引きを理解した目だった。

---

ヴェルヴェットは繁華街の中心部から二本裏に入った通りにあった。

雑居ビルの地下一階。看板は出ている。だが階段を降りると、シャッターが下りていた。張り紙。手書き。

『諸般の事情により当面の間休業いたします』

日付はない。久城はシャッターに手を触れた。冷たい金属。埃はほとんど付いていない。最近閉めたばかりだ。

階段を上がり、通りに出る。左右を確認。ヴェルヴェットの両隣。右はスナック「月影」、左は居酒屋「鳥兆」。どちらもまだ開店前だが、鳥兆の勝手口が半開きだった。仕込みの時間だろう。

「すみません」

勝手口から顔を出したのは五十代の男。前掛け姿。鶏肉を捌いていたらしく、手が濡れている。

「隣のヴェルヴェットさん、いつから閉まってます?」

「あんた誰」

名刺を差し出す。久城探偵事務所。男は名刺を受け取らなかった。

「四日前かな。急にシャッター下ろしてさ。何の挨拶もなし。まあ、あのへんの店はそんなもんだけど」

「四日前」

彩音が消えた翌日。偶然じゃない。

「閉まる前、何か変わったことは」

「さあね。うちは夜の九時には閉めるから、あっちの客層とは時間帯が違う。ただ——」

男が言い淀んだ。

「ただ?」

「閉まる前の二、三日、黒い車がよく停まってたな。裏の搬入口のあたり。うちのゴミ出しの時に見かけた」

黒い車。久城はノートに書き留めた。

「車種は分かりますか」

「さあ、車は詳しくないけど——でかいやつだったよ。セダン? ナンバーなんか見てないけどさ」

「ありがとうございます」

男はそれ以上の会話を望まなかった。勝手口が閉まる。

久城は通りの反対側に移動し、ヴェルヴェットの入り口が見える位置に立った。周辺の店を三軒回った。スナック月影は完全に閉まっていて反応なし。角のコンビニの店員は「知らない」の一点張り。煙草屋の老婆は耳が遠くて会話にならなかった。

壁だ。繁華街の裏通りは、よそ者に冷たい。

久城は歩き出した。ヴェルヴェットの周囲を一周する。表通り、裏通り、搬入用の路地。路地に入ると、ビルの裏手が見えた。非常階段。ゴミ集積所。そして——

足が止まった。

搬入口の上、ビルの外壁。小型の防犯カメラが一台、こちらを向いていた。

ヴェルヴェットのものじゃない。設置位置が違う。上の階か、あるいは隣接するビルの管理用か。レンズの向きからして、搬入口と裏路地の一部が画角に入る。

久城はカメラの型番を確認した。ネットワーク対応型。録画機能付き。この手のカメラは通常、一週間から二週間分の映像をループ保存する。

四日前の映像がまだ残っている可能性がある。彩音が最後にこの店にいた夜の映像が。

視線でカメラの配線を辿った。ケーブルは外壁を伝い、上の階へ。このビルの三階以上はテナントオフィスが入っている。管理人室があるはずだ。

久城はビルの正面に回った。入り口横のテナント表示。三階・五階は空室。四階に不動産会社。管理人室は一階奥。だがインターホンを押しても応答がない。昼間は不在か。

もう一度、裏に回った。カメラを見上げる。あの小さなレンズの中に、彩音の最後の足取りが映っているかもしれない。閉店後に何があったのか。黒い車は映っているのか。彩音は自分の意思で去ったのか、それとも——。

久城はスマートフォンを取り出し、ビルの管理会社の名前を検索した。テナント表示板の隅に小さく記載されていた社名。「東和ビル管理」。電話番号が出る。

呼び出し音。三回。四回。五回で出た。

「東和ビル管理です」

「久城と申します。御社管理の第三ヤマトビルの防犯カメラの件でご相談が」

「防犯カメラ? どういったご用件で」

「近隣で人探しをしている者です。カメラの映像を確認させていただきたい」

電話の向こうで間が空いた。予想通りの反応。民間人に防犯カメラの映像を見せる管理会社はない。個人情報保護。責任問題。断る理由はいくらでもある。

「申し訳ありませんが、映像の開示は警察からの正式な要請がない限り——」

「承知しています。管理人の方に直接お話しする機会だけでもいただけませんか。名刺を置かせていただくだけで構いません」

再び沈黙。キーボードを叩く音が聞こえた。

「管理人の佐藤は明日の午前中にビルにおります。お話を聞くかどうかは佐藤の判断になりますが」

「十分です。ありがとうございます」

電話を切った。正規ルートでは時間がかかる。だが管理人に直接会えるなら、交渉の余地はある。刑事時代に培った話術がまだ錆びついていなければ。

久城はもう一度カメラを見上げた。小さな赤いランプが点滅している。稼働中。映像は今も記録され続けている。そして古い映像は、一日ごとに上書きされていく。

明日の午前。それがタイムリミットだ。彩音が消えてから四日。カメラの保存期間が一週間なら、あと三日。二週間なら余裕があるが、賭けるわけにはいかない。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。凛からのメッセージ。

『何か分かりましたか』

久城は短く打ち返した。

『明日動く。待ってろ』

送信してから、裏路地を抜けた。表通りに出ると、昼の陽射しが目を刺す。繁華街は夜と昼で別の顔を持つ。夜は華やかに、昼は薄汚く。だがどちらの顔の裏にも、見えない配線が張り巡らされている。

カメラの映像。黒い車。急な閉店。鉄華会。

点と点が線になる前に、まず一つ目の点を確実に押さえる。映像だ。あのカメラに映っているものが、すべての起点になる。

久城は足を速めた。明日に向けて、準備することがある。

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