第1話
第1話
三十二日間、電話が鳴っていない。
久城遼は事務机に足を投げ出し、安ウイスキーのボトルを傾けた。琥珀色の液体がグラスの底に薄く広がる。氷はない。冷蔵庫は先月から電気を止めている。
雨が窓を叩いていた。繁華街の外れ、雑居ビルの三階。「久城探偵事務所」の看板は、階段の踊り場の蛍光灯が切れてからもう半年、誰の目にも留まらない。
携帯を開く。着信履歴はゼロ。メールは迷惑フォルダの広告だけ。探偵業の登録は更新してある。電話番号も変えていない。それでも、鳴らないものは鳴らない。
グラスを口に運ぶ。安い酒特有の刺すようなアルコール臭が鼻を突く。美味くはない。だが酔えればいい。酔えなくても、飲む動作があれば夜は過ぎる。
窓の外、ネオンが雨に滲んでいる。赤、青、紫。この街の夜は派手だ。だがこの事務所には、その光すら届かない。向かいのビルの室外機が低く唸り、雨樋を伝う水音が途切れなく続いている。それだけがこの部屋の時間が動いている証拠だった。
三年前までは違った。
久城遼、三十四歳。元神奈川県警捜査一課。検挙率は課内トップ。将来を嘱望された、はずだった。
崩れたのは一瞬だ。上層部と暴力団の癒着。証拠を掴み、内部告発の準備を進めた。結果は——Loss。もみ消された証拠。捏造された懲戒事由。「依願退職」という名の追放。
辞めてから探偵事務所を開いた。刑事の経験がある。調査能力には自信があった。だが甘かった。この業界は横の繋がりで回っている。警察を敵に回した人間に、同業者が仕事を回すわけがない。
「疫病神」。
それが久城につけられたあだ名だった。
先週、数少ない知り合いの探偵・松川から電話があった。仕事の紹介ではない。
「おい久城、いい加減看板下ろせよ。お前がいると俺らまで警察ににらまれるんだ」
それだけ言って切れた。
久城はウイスキーを一口含み、天井を見上げた。染みだらけの天井。雨漏りの跡が地図のように広がっている。この事務所と同じだ。どこにも行けない地図。
元刑事。元捜査一課。元、元、元。肩書はすべて過去形で、現在形は「誰にも必要とされない探偵」だけだ。
依頼がないなら、探偵ですらない。ただの男だ。雨の夜に安酒を飲む、ただの男。
三十三日目も同じだろう。三十四日目も。百日目も。
ボトルを掴み直した、その時だった。
ドアがノックされた。
久城の手が止まる。聞き間違いかと思った。雨音に紛れた排水管の音。そんなところだろう。
もう一度。今度は明確に、三回。コン、コン、コン。控えめだが、確かなノック。
久城は足を下ろし、グラスを机に置いた。反射的に身なりを確認する。シワだらけのシャツ。二日剃っていない顎。どうでもいい。客なら——客であるはずがない。
「開いてる」
声を投げると、ドアが軋みながら開いた。廊下の暗がりから湿った空気が流れ込み、安酒とカビの混じったこの部屋の空気と入れ替わる。
入ってきたのは、少女だった。
制服姿。紺のブレザーにチェックのスカート。髪が雨で額に張り付いている。傘を持っていない。全身がびしょ濡れだった。靴からは水が滴り、安いリノリウムの床に小さな染みが広がっていく。
年齢は中学生か、高校に上がったばかりか。この時間にこの場所にいるべき人間ではない。
「久城探偵事務所、ですよね」
声が震えている。寒さだけじゃない。久城にはわかった。刑事時代、何百人もの被害者と向き合ってきた。恐怖をこらえている人間の声には独特の硬さがある。この少女の声が、まさにそれだった。
「そうだが。親御さんは」
「いません」
即答だった。久城は少女の目を見た。赤い。泣いた後の目だ。だが今は泣いていない。唇を引き結んで、必死に何かを堪えている。
「座れ。タオル出す」
久城はロッカーからタオルを引っ張り出した。洗濯はしてある。多分。少女は椅子に腰掛け、タオルで髪を押さえた。その手が小刻みに震えていた。
「名前は」
「水瀬凛」
「水瀬さん。こんな時間にどうやってここを」
「ネットで調べました。探偵事務所を片っ端から。でも、どこも——」
言葉が詰まる。久城は待った。刑事時代の癖だ。沈黙は相手に与えるものだ。急かしても碌なことがない。
「どこも、引き受けてくれなくて」
そうだろう。中学生の依頼を受ける探偵はいない。金にならない。面倒が多い。保護者の同意がない未成年の依頼は、トラブルの種だ。
「それで、うちに来たと」
「はい」
他に選択肢がなかった。そういうことだ。久城は苦い笑いを噛み殺した。誰にも相手にされない探偵のところに、誰にも相手にされなかった少女が来る。出来すぎた話だ。
「依頼内容は」
凛は鞄から封筒を取り出した。茶封筒。厚みがある。机の上に置かれたそれを、久城は開けなかった。先に話を聞く。
「お姉ちゃんを探してください」
「姉。名前と年齢は」
「水瀬彩音。二十二歳。三日前から連絡が取れません」
「三日なら警察に——」
「行きました。『成人の家出は捜査対象外です』って」
久城は眉を寄せた。成人の失踪。確かに警察は動きにくい。事件性が確認できなければ、届けを受理しても積極的には動かない。それは知っている。自分がいた側の人間だから。そして同時に、三日という時間の重さも知っている。失踪事件は初動が全てだ。七十二時間を超えると、手がかりは加速度的に薄れていく。
「姉さんの勤務先は」
「クラブ。繁華街の——ヴェルヴェットっていう店です」
クラブ。久城の表情が微かに変わった。繁華街のクラブ勤務の若い女性が三日間音信不通。嫌な筋がいくつか浮かぶ。客絡みのトラブル。借金。あるいは、もっと暗い可能性。考えたくないが、考えないわけにはいかない。
「最後に連絡を取ったのは」
「三日前の夜。LINEで『今日は遅くなる』って。それきりです。既読もつかない」
凛の声が震えを増した。だが目は逸らさない。久城をまっすぐ見ている。
「電話は」
「何回もかけました。ずっと電源が入っていません」
久城は封筒に手を伸ばし、中を改めた。
札束。百万はある。子どもが持つ金額じゃない。
「これは」
「お姉ちゃんの部屋にあったお金です。何かあった時のためって、タンスの奥に」
「俺の報酬は日当三万と経費実費だ。こんな額は要らない」
「でも——」
「前金は三万でいい。余った分はそっくり返す」
凛が初めて表情を崩した。安堵ではない。張り詰めていた糸が一本だけ緩んだ、そんな顔だった。
「引き受けて、くれるんですか」
久城は答えなかった。代わりに机の引き出しから契約書の用紙を引っ張り出した。埃をかぶっている。使うのは何ヶ月ぶりだ。
「未成年の依頼だ。本来なら保護者の署名がいる」
「お母さんは三年前に亡くなりました。お父さんは、いません。お姉ちゃんが保護者です」
その保護者がいないから、ここに来ている。
久城はペンを取った。契約書の依頼人欄に「水瀬凛」と書き、自分の欄にサインする。日付。依頼内容。報酬額。ペンを走らせる音が、雨音の隙間を埋めた。
「明日の朝九時にここに来い。姉さんの写真、使っていた駅、よく行く場所、友人関係。思いつく限り全部持ってこい」
「はい」
凛が立ち上がった。タオルを丁寧に畳んで机に置く。ドアに向かいかけて、振り返った。
「久城さん」
「何だ」
「他の事務所は、話を聞く前に断りました。あなたは——聞いてくれた」
少女はそれだけ言って、頭を下げた。ドアが閉まる。階段を降りる足音が遠ざかる。その足音が消えても、しばらくの間、彼女が座っていた椅子にはタオルの湿り気と、雨に混じった微かなシャンプーの匂いが残っていた。
久城はしばらく動かなかった。
封筒の札束を見る。少女の震えていた手を思い出す。金じゃない。この依頼を受けた理由は。
あの目だ。すべてを失っても、まだ誰かのために動こうとする目。かつて自分にもあったはずの——もう思い出せないほど昔に失くしたものが、あの少女の中にあった。
グラスに残ったウイスキーを流しに捨てた。
三十二日間の沈黙が、終わった。